キト市内の「日本公園(Parque Japón)」に人知れず鎮座する野口英世像
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第60話
この旅のいちばんの目的(?)だった郷土料理の「クイ」を食べ、野口英世の銅像を探し、新型コロナをめぐる旅はひとつの「区切り」を迎えた。しかし筆者にとって、それはひとつの「通過点」に過ぎなかった。
* * *
■「世界の中心」へ
翌日、パウルや彼の同僚たちとの打ち合わせを終え、市街地から少し離れたところにある「ミッター・デル・ムンド(Mitad del Mundo)」に向かう。日本語では「赤道記念碑」と呼ばれているようだが、このスペイン語を直訳すると「世界の中心」となる。要は、赤道直下の記念碑、ということである。
「ミッター・デル・ムンド(Mitad del Mundo)」は、直訳すると「世界の中心」。向かって左が南半球、右が北半球
そこを訪れた後、近くのレストランで、この旅いちばんの目的だったと言っても過言ではない郷土料理を食べる。「クイ(cuy)」である。「クイ」とは、テンジクネズミと呼ばれるモルモットの一種であり、リャマと並んで、ここアンデス地方の固有種であるという。
クイ。これが......
こうなって......
こうなる
これの毛を剥いで、丸焼きにする。固い弾力のある肉で、ネズミ臭さとも言えるようなクセがある。一見鶏肉のようだが、もも肉やむね肉は正直あまりおいしくない。それよりも、骨に近いところの肉をかじると、焼き鳥の軟骨のような旨味があり、クイの独特の風味と相まってうまい。
ちなみに、北京ダックのような皮は、硬すぎて私には食べられなかった。「うまかったか?」と訊かれると正直微妙だが、地元民であるパウルの同僚たちは、「これはとても質の高いクイだ。めっちゃうまい」とむさぼり食っていたので、おそらく上質のクイだったのだと思う。
皮はめっちゃ硬い
タンパク質を摂取するために、一見食用ではない(その地域固有の)動物を食べる、というのは、どこの国にも見られる風習である。オーストラリアではカンガルーを食べるし、中国ではハクビシンを食べるし、サウジアラビアではラクダを食べる。ちなみにリャマの肉は、硬すぎて食べられないらしい。
■野口英世をさがせ!
講演前の昼食のとき、研究科長とパウルの同僚があることを教えてくれた。「ハポン通りに、ヒデヨ・ノグチの胸像があったはずだ」。
「ハポン(Japón)」とはスペイン語で「日本」のことである。私はこの言葉をヒントに、Google Mapsを頼りにその通りに向かい、その像を探した。
パウルの同僚は「たしか道沿いにあったからすぐに見つかるはず」と言っていたので、道沿いに目を凝らして歩いてみたが、見つからない。おかしい。
その道の突き当たりのところに、公園があった。Google Mapsを見ると「Parque Japón」とある。おそらく「日本公園」みたいなところなのだろう、とあたりをつける。
その公園の片隅に、野口英世像はあった。旧千円札と同じ髪型のその像のたもとには、スペイン語で、「日本人の科学者 1918年、グアヤキルにて、感染症を根絶するための研究に貢献した」ということが記されていた。
ハポン通り
野口英世像。旧千円札をモチーフに作ったんだろうかというくらい、髪型が同じだった
野口英世のエクアドルでの功績が記されていた
恥ずかしながら、ネットで改めて、野口英世の年譜を辿ってみた。彼は、アフリカのガーナとエクアドルのグアヤキルだけではなく、ペルーやメキシコ、ジャマイカにも赴いていた。まさに言葉通り、「感染症有事の最前線」に飛び込んで研究をしていたのだ。
■親切だけどちょっと「?」なエクアドリアンたち
最終日、だいぶ慣れたホテルの界隈を歩いて回る。少し足を伸ばし、パウルが勧めてくれたカングレホの店でランチを食べる。「カングレホ(Cangrejo)」とは、スペイン語で「カニ」のことである。最後のランチは、カングレホのセビーチェを食べ、飲み慣れた「PILSENER」というビールを飲んだ。
カングレホ(カニ)のセビーチェ
お気に入りになったエクアドル産のビール「PILSENER」
キトの人たちは、総じて驚くほどに親切であった。英語が話せない人が多いが、恥ずかしがりながらも、頑張って英語やボディーランゲージでコミュニケーションをとろうとしてくれる。そういう親切心は、なんとなく日本人のメンタリティーに似ている気がした。
たとえば、こんなことがあった。あるカフェで仕事をしようと思ったら、MacBook Airのバッテリーがなくなりそうになっていた。電源コードは持っていたが、辺りを見回してもコンセントは見つからない。ダメ元で店員に、「コンセントはないか?」と聞いてみた。大抵の国では「ない」の一言で終わるところだと思うが、その店員はいろいろ周囲に相談を重ね、なんと私のためにわざわざ延長コードを引いてくれた。ここまでの親切心は、日本でもなかなかないのではないだろうか。
ただ一方で、言うことが適当な国民性なのか、はたまた、たまたまそういう性格の人にばかりあたっただけなのかまではわからないが、ちょっと「?」なこともままあった。たとえば、2ドルのお釣りを10セント硬貨20枚で返してきたり(単に1ドル札を切らしていただけの可能性ももちろんある)、初対面なのに「娘へのメッセージを日本語で書いてくれ!」と懇願してきたり。
こんなこともあった。ホテルから空港に向かうタクシーを待っているとき、ホテルのボーイが声をかけてきた。
ボーイ(ボ)「どこから来たのか?」
私「ハポン(日本)」
ボ「何をしにキトに来たんだ?」
私「ビジネス(仕事)だ」
ボ「次はいつ来るんだ?」
私「ん?」
ボ「次はいつ来るんだ?」
■初めてのラテンアメリカの旅を終えて
2020年の初め、新型コロナパンデミックが始まった。そしてその年の春、京都疎開とパウルとの邂逅(38話)から、私の新型コロナをめぐる旅が始まった。
地球の裏側まで足を伸ばし、パウルに会う。これで私の旅は、ひとつの終着点に辿り着いたような気がした。
――とかいうような結語でこの旅を終えるのだろう、と思っていたのだが、実際にこの旅を終えてみると、そんな感慨は微塵も湧いていないことに少し驚いた。
新しい変異株のこと、G2P-Japanのこれから、自分のラボのこと、そしてこれからの人生のモチベーションのことなど。取り組むべき、考えるべき課題は山積している。初めてのラテンアメリカへの旅とパウルとの邂逅は、たしかに私にとってのひとつの「区切り」ではあった。
しかし、それはあくまでひとつの「通過点」にすぎない。パウルとの新しい共同研究も始まるし、この国をまた訪れることもあるだろう。グアヤキルにもガラパゴスにもまだ足を踏み入れていない。やりたいこと、やらなければいけないことはまだまだ目白押しである。
そんな思いを胸にキトを後にして、私は一路、アメリカ・カリフォルニアへと向かった。
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