「次のパンデミック」に備えるために、ウイルス学者は、オオカミ少年になることを恐れてはいけない(イラストはイメージです)
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第85話
地震のような自然災害には、「教訓」につながる「物語(ナラティブ)」がある。しかし、同じ自然災害である感染症のパンデミック(世界的大流行)は、なぜ「ナラティブ」が生まれないのか?
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■ドンキーとケンヂと「オオカミ少年」
私の好きな漫画のひとつに、浦沢直樹さんの『20世紀少年』がある。ネタバレになるのでストーリーの詳細は伏せるが、ドンキーという小学生時代の旧友からの手紙が、コンビニの店長をしている主人公ケンヂに届くところから物語が始まる。その手紙をきっかけに、ケンヂはいろいろなことを調べるようになる。調べるほどに疑惑は募るが、行動には至らない。結局そうこうしているうちに、ドンキーは死んで(殺されて)しまう。「ドンキーの死」という現実を目の当たりにすることによって、ケンヂは初めて本気で事実と向き合うようになり、行動を始め、物語が動き出す。
今回、『20世紀少年』の話を引き合いに出したのは、この作品の魅力を語るためではない(それを知るには、やはり漫画を読むのがいちばんだと思う)。ここで言いたかったのは、「ドンキーがいくら警鐘を鳴らしても、ケンヂは行動しなかった」ということだ。「まさかそんな(恐ろしい)ことがあるわけがない」という、「正常性バイアス」と呼ばれる思い込みが働いたからだ。
警鐘を鳴らす、あるいは、その警鐘を聞いた人が、それを信じて本気のギアを入れる、というのは意外に難しい。警鐘を鳴らす側(ドンキー)の場合、もし警鐘を鳴らしてもそれほどの大事に至らなかったら、オオカミ少年のような扱いになってしまう。逆に、警鐘を受け入れる側(ケンヂ)の場合、それがガセネタ、あるいは誤報であれば、移した行動は徒労となってしまう。
あるいは、オオカミ少年になってしまうことを恐れて、「ヤバいかもしれないけど警鐘を鳴らさない」という選択肢もある。そのように躊躇して警鐘を鳴らすタイミングを逸し、大事に至ってしまった場合には、「なぜもっと早く言わなかったんだ!」、「なぜ知ってたのに黙ってたんだ!」という非難を受けることになる。
このように、「いつギアを入れるか」というのは、いろいろな側面からセンシティブな問題を抱える。警鐘を鳴らす側の立場にあって、面倒を避けたいのであれば、知らんぷりしていた方が結果的に楽、という見方すらある。
■2024年1月1日16時10分
2024年の元日の午後。私は自宅で、雑煮をつまみ、餅を焼き、日本酒やビールをたしなみながら、NHKでサッカー日本代表の試合を眺めていた。試合後もチャンネルをそのままにしていると突如、不愉快なアラート音が鳴り響いた。能登半島地震の発生を知らせるアラートだった。その数分後、再びアラート音が鳴り、東京も少し揺れた。
それからしばらくして、津波警報、そしてさらに、大津波警報が発出される。NHKのアナウンサーは、明らかに尋常ならざる口調で、「今すぐ、高いところに逃げてください!」「テレビを見てないで逃げてください!」、そして、「東日本大震災を思い出してください!」と大声で繰り返した。「きっと自分は大丈夫でしょ」という、視聴者の「正常性バイアス」を払拭するためだ。
■「教訓」を呼び醒ますナラティブ
地震のような自然災害の場合には、人それぞれが、その「教訓」につながる「物語(ナラティブ)」を持っている。このようなアラートが成立するのは、地震という自然災害においては、東日本大震災や阪神大震災、またはほかのたくさんの地震にまつわる「ナラティブ」が人々の記憶に残っていて、それが人々の「教訓」を呼び醒ますからだ。そして、そのようにして人々に根付いた「ナラティブ」が、まさに2024年元日の能登半島地震のようなときに、NHKのアナウンサーの尋常ならざる叫びによって、「教訓」として呼び醒まされる。
「感染症にはなぜ、『ナラティブ』が生まれないのか」――。
これは、折々に探求する私のテーゼのひとつになっている。その目的は、私の好奇心を満たすことではない。それを解き明かすことによって、「感染症のナラティブ」を生む方法を考え、感染症という災厄の「教訓」につなげることが目的である(つまり、ここでの「私の好奇心」は、この目的につなげるための「手段・方法」にすぎない)。
屋外に出る、ガスの元栓を閉める、などの動作が、地震に対する「教訓」に基づいた、有事の「備え・行動」となる。感染症の場合、たとえば新型コロナのような呼吸器感染症の場合には、「マスクをする」などがそれに該当するものかもしれない。
「屋外に出る」「ガスの元栓を閉める」よりも、「マスクをする」ということは、それほど難しい行動だろうか? 地震の場合には「教訓」が活きるのに、感染症ではそれがなかなか活きない。それどころか状況によっては、「もういいでしょ」「まだ言ってる」という意見が勝る場合すらある。これはなぜか?
以前にもこの連載コラムで触れたことがあるが(26話)、それは、感染症、特にここでは新型コロナパンデミックの「ナラティブ」が、人々の記憶の中でうまく成立していないからだと私は考えている。事態の慢性化によって感覚が麻痺してしまい、危機を伝える叫びはオオカミ少年のそれとなってしまう。「平時」と「有事」のメリハリがわかりづらくなり、「正常性バイアス」が働いてしまう。それがなおのこと、オオカミ少年になってしまうことを助長する。
東日本大地震を被災した岩手県釜石市にある「津波記憶石」というモニュメントには、「100回逃げて、100回来なくても 101回目も必ず逃げて!」と刻まれているという。
――「次のパンデミック」に備えるために、『20世紀少年』のドンキーのように警告を鳴らす側にあるウイルス学者はやはり、オオカミ少年になることを恐れてはいけない。
オオカミ少年にならないためには、「正常性バイアス」を払拭するようなナラティブが感染症にも必要なのだが、その手がかりがなかなか見つけられずにいる。
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