「PEOPLE MAKE GLASGOW」はグラスゴーのスローガン。ショッキングピンクに白字のこのスローガンは、街中の至るところに見受けられる 「PEOPLE MAKE GLASGOW」はグラスゴーのスローガン。ショッキングピンクに白字のこのスローガンは、街中の至るところに見受けられる

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第88話

「これも神様が与えてくれたチャンス」と思い切ってグラスゴーへ向かった筆者。しかしそこでは、思いもよらぬ数々の困難が待ち受けていた。

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* * *

■グラスゴーへ

――グラスゴー?

数ヵ月のマンハッタンライフを夢見ていた私であるが、いきなり出鼻を挫かれた形となる。

グラスゴー? そもそもそれどこ?
ネットで調べてみると、イギリス北部の、スコットランドにある街らしい。

......うーん、正直パッとしない。でもまあ、研究内容で考えたら、彼以外の選択肢はなかなか考えづらい状況にあった。

それでもう少し調べてみると、グラスゴーというのは、最近ではUKロックの音楽シーンでも有名な街であるらしい。たしかに、そちら方面で調べてみると、フランツ・フェルディナンドにベル・アンド・セバスチャン、プライマル・スクリーム、ティーンエイジ・ファンクラブ、スノー・パトロール、モグワイ、そして、トラヴィス。

......なんと、まるで私が好きなバンドだけを集めたようではないか! これらがすべて、このグラスゴーという街の出身であると知り、一気に親近感が湧く。これはきっと、神様が与えてくれたチャンスのようなものに違いない。

――よし、グラスゴーに行こう。

■ディスコミュニケーション・シティ

2015年7月7日。大阪・伊丹空港から羽田空港を経て、グラスゴーへ。

グラスゴー国際空港から市内まで、タクシーで向かう。住所を伝えたり、なにか雑談のようなものをドライバーと試みるが、どうにもうまくいかない。というか、何を言っているのかさっぱりわからないのである。

私は今でも英語が流暢なタイプではないが、なんとかコミュニケーションはとれるくらいのスキルはあると思っているし、当時もそのくらいのスキルはあったと思う。それがもう、「あなたが話しているのは本当に英語ですか?」というくらい、英語と認識できないくらいに訛(なま)っているのである。

グラスゴーの英語はわかりづらい、そしてその方言のことを「グラスウィージャン(Glaswegian)」というらしい、ということは事前知識として知った上で上陸していたわけだが、それは想像をはるかに絶するものだった。まったく、微塵もわからない。日本語に喩えるなら、おそらくガチの津軽弁や沖縄弁くらいに違うものだとイメージしてもらえたらいい。あるいはリアルに聞いてみたいなら、YouTubeで『Limmy's Show』というショートムービーを見てみてほしい。

程度の差こそあれ、街の人たちが話す英語は、おしなべて「グラスウィージャン」だった。「ハロー(Hello)」や「ハウアーユー?(How are you?)」、「ワッツアップ?(What's up?)」などの挨拶はなく、「ハイ↑ヤー↓」という、なにをどうしたらそのように変化したのかよくわからない挨拶が交わされる。

こちらが話す拙い英語はなんとか通じるのだが、相手が話すことがとにかくわからない。これがものすごくストレスだった。

■雨の街、グラスゴー

そしてもうひとつ、私にとって大きなストレスの源があった。

とにかく、めちゃくちゃに天気が悪いのである。「イギリス(あるいはロンドン)には一日に四季がある」などという表現があるが、グラスゴー、あるいはスコットランドのそれは、そんなレベルじゃなかった。このグラスゴーでの生活を通して私は、自分のメンタルが、天気で大きく左右される人間であることを知った。

私が滞在したのは7月から10月の夏にかけてのシーズンだったので、日も長く、現地の人からすると「今年はめっちゃ晴れた日が多い」とのことだった。しかしそれでも、晴れ間があったのは多くても週に数日である。ほかはずっと曇っているか、雨が降っている。とにかく曇天か小雨がデフォルトなのである。

スーパーですれ違う人の服も、どことなく生乾きの洋服のにおいがする。街を歩く犬も、雑巾のような毛並みをしている。それらはすべて、天気が悪いせいだ。

とにかくそのように天気が悪いので、ほんのちょっと晴れるだけで、みんなめちゃくちゃにテンションがあがる。ほんのわずかな晴れ間を楽しむために、ここぞとばかりに芝生に寝転がり、その時間を謳歌しようとする。つまり、天気に対する幸せの閾値がものすごく低いのである。

これは勝手なイメージだが、カリフォルニアやハワイなどの場合には、「天気が良くて、ビーチがあるのは当たり前。そこに心地良い風が吹いていて、テラス席で、スムージーなんか飲んじゃったりするとちょっとハッピーかも」みたいな感じかもしれない(これはわかりやすさのための、対照としての偏見あるいは比喩です、念のため)。しかしグラスゴーでは、「天気が良い」だけで幸せを感じられるのである。それが、2015年に私が目にしたグラスゴー市民の姿だった。

グラスゴー出身のバンドであるトラヴィス(Travis)は私が大好きなバンドのひとつであるが、その代表曲のひとつに、「Why Does It Always Rain On Me?(筆者対訳:どうしていつも雨ばかり降るんだろう?)」という歌がある。グラスゴー市民の天気に対するリアクションを見ていて、なぜこの曲がグラスゴーで生まれたのか、なにを歌っているのかが手にとるようにわかった。

ちなみに、グラスゴーに滞在中、教会跡のライブハウスで一度、「ティファナ・バイブルス(Tijuana bibles)」というグラスゴー出身のインディーバンドのライブを観に行ったことがある。今でもたまに思い出したように彼らのプロモーションムービーをYouTubeで探して、当時の生活を思い出して懐かしんだりすることがあるが、そんな彼らの代表曲は「Sun Chaser(筆者対訳:太陽を追いかける人)」というタイトルの曲だった。

やはり名曲やカッコいいミュージシャンが生まれる街には、それが生まれる背景たる空気感があるのである。これは私見だが、トラヴィスはグラスゴーでしか生まれなかっただろうし、ビーチ・ボーイズの「Surfin' U.S.A.」は南カリフォルニアでなければ生まれなかっただろうし、ジャニス・ジョプリンは、ヒッピーカルチャー全盛の60年代のサンフランシスコでしか生まれなかったのだろうと思う。

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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