フランクフルト国際空港でよく見かける、タバコの銘柄「Camel」が協賛する喫煙スペース。 フランクフルト国際空港でよく見かける、タバコの銘柄「Camel」が協賛する喫煙スペース。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第103話

そもそも、なぜ中東アブダビに、ラクダの検体を求めて訪れることにしたのか? 今回は、わざわざアブダビを訪れた理由と研究の目的、そして、感染症研究の「おもしろさ」や、筆者の研究室の名前でもある「システムウイルス学」のコンセプトについて解説する。

* * *

■私がアブダビまで来た理由

旅の話を進める前に、私がアブダビまで来た理由、そしてその背景について、もうすこし説明をしておこうと思う。

まず、この連載コラムでも何度か触れたことがあるが、「アカデミア(大学業界)」に身を置くことの良いところのひとつに、「海外のいろいろなところに出張できる」ということがある。

私が特に専門とする「分子ウイルス学」という分野、特にエイズウイルスのそれは、ほとんどアメリカの独壇場と言っても過言ではない状況にあった。

この分野にかぎらず、エイズウイルスの研究は基本的にアメリカを中心に回っていたし、おそらくそれは、エイズ研究の始まりから現在に至るまで、ほとんどずっとそうだったのではないかと思う。そういう訳で、京都時代の私の出張先のほとんどはアメリカだった(52話62話などを参照)。

そんな中、博士研究員から助教くらいの頃には、いろいろなチャンスを活かし、ほかの国に行くチャンスを探ることもできるようになった。イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、スペイン。それぞれの国で話す言語も違うし、食べ物の文化も、建物の見た目も違う。

研究を通してそのような「文化の違い」に直に触れることができるというのも、「アカデミア(大学業界)」で研究をする醍醐味のひとつであると思っている。

■「最先端の研究にまつわる出張」のトリック

――しかし。勘の良い読者のみなさんは、すでに気づいていると思う。そう、そうは言っても、行き先はほぼ「欧米」なのである。つまり、「『アカデミア(大学業界)』にいれば海外のいろいろなところに行ける」というのも実は正確な表現ではなくて、「最先端の研究をしている『欧米諸国』に行ける」という意味合いなのである。

――(さらに)しかし、誤解を恐れずに言えば、感染症研究のおもしろいところのひとつは実はここにあって、感染症有事のほとんどは、「先進国以外の国」で起きているのである。

つまり、いわゆる「先進国による最先端の感染症研究」と「感染症の発信源での研究」には大きな乖離があり、まさにそれこそが、感染症研究を進める上での大きな障壁のひとつとなっている、と私は思っている。

つまり、「最先端の研究」は、ともすればG7のような先進国だけで完結するものかもしれない。しかし、「感染症の研究」は、必ずしもそうではないのである。国によって注視している病原体は違うし、それによって研究に対する意識も国によってまるで異なる。

■「感染症の研究にまつわる出張」の延長線にあるもの

こういった気づきに加えて、新型コロナ研究を始めたこと、そして、私自身が従事する研究分野を広げたいと思うようになってから、訪れる国のバリエーションが増えた。ベトナム(11話)、タイ(12話79話)、サウジアラビア(71話)、そして今回のUAEなどがそうだ。

これはこんなところでするようなことではないのかもしれないが、話の流れとしてここで所信表明しておくと、新型コロナ研究を機に、これからの私のラボは、コロナウイルス全般に関わる研究にシフトしていきたいと考えている。

社会的に問題意識の高いコロナウイルスは3つある。新型コロナウイルス、SARSウイルス、そしてMERSウイルスである。新型コロナウイルス(その正式名称は「SARS-CoV-2」)はご存知の通り、2019年に中国・武漢を発信源としてパンデミックを引き起こした。

SARSウイルス(正式名称は「SARS-CoV」)は香港を玄関口として、2002年にアウトブレイクを引き起こした(11話75話など)。つまり、これらふたつのウイルスは主に、「東アジア」を発信源として感染症有事を引き起こしたウイルスたちである。

それらに対して、MERSウイルス(正式名称は「MERS-CoV」)は、その名前そのもの、つまり、「中東(Middle East)」のサウジアラビアを発信源として、散発的なアウトブレイクを繰り返しているウイルスである(「MERS」とは、「Middle East Respiratory Syndrome=中東呼吸器症候群」の略)。

つまり、研究対象を広げる、あるいは変えることで、訪れるべき国々が変わってきた、という事実がある。これはもちろん、それらの国々に行きたいがために研究対象を変えたのではなく、あくまで結果論である。

「感染症の現場」に出ると、先進国だけで完結するような話ではなくなるので、いろいろと思い通りにいかない、思いもよらない展開になることもままある。しかし、エイズウイルスの分子ウイルス学研究のような「最先端の研究」に奔走していた頃とはまた違った醍醐味もある。

さらに言えば、私のラボの名前でもあり、私のラボが標榜する「システムウイルス学」というのは、そのような「『感染症の現場』と『最先端のウイルス研究』をシームレスに繋いで、それらを全部やる」ということをコンセプトにした新しい研究分野でもある。

であるならば、研究室の中で最先端の実験をするだけではなく、感染症の現場にも足を運ばなければならない。

それはまさに、エイズウイルスの起源を探るために、アフリカの奥地までGPSを背負って探検するプロジェクトを立ち上げ、カメルーン南東に生息するチンパンジーが持っているウイルスこそがその起源であるということを突き止めた、アメリカ・ペンシルベニア大学のベアトリス・ハーン(Beatrice Hahn)教授のように(5話)。

■MERSの現場と、そこで必要になるもの

つまり、MERSウイルスの研究をするのであれば、その「現場」を知らなければならない。そしてそのMERSの「現場」のひとつこそ、私がいま足を踏み入れている「中東」である。

そして、MERSウイルスについての研究を進めるためには、その背景を知る必要がある。

――MERSウイルスはどこからきたのか?

実はこの答えはほぼ明らかとなっていて、MERSウイルスは、ラクダからヒトに異種間伝播(スピルオーバー)することで、ヒトにMERSという病気を引き起こし、時折アウトブレイクを引き起こすのである。

私のラボは、上述のようなマルチスケールな研究、つまり、「感染症の現場」と「最先端のウイルス研究」をシームレスにつなぐような研究体系を、「ウイルスの『スピルオーバー』の原理の理解」という軸、あるいは串で通したような構造をしている(と思っている)。

そして、私のラボの名前である「システムウイルス学」というのは、そのような学問体系のことを指す言葉・用語として使うようにしている(そこに込められたコンセプトは、100話を参照)。

そうなのであれば、である。その「スピルオーバー」の原理を理解するためには、ヒトの研究だけをしていても始まらない。

そのような研究をするために必要なことこそ、その「現場」に出ることであり、そして、MERSウイルスの「スピルオーバー」の原理を研究するその対象こそが、ラクダなのである。

※4月26日配信予定の(3)に続く

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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