加藤ジャンプかとうじゃんぷ
文筆家。コの字酒場探検家、ポテサラ探求家、ソース研究家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』『今夜はコの字で 完全版』(土山しげる・画)などがある。BSテレ東のドラマ「今夜はコの字で」の原作をつとめる。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。集英社インターナショナルのnoteで「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」連載中。
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客たちの心を癒す天国のような飲食店。そんな名店を切り盛りする大将、女将、もとい店主たちは、どんな店で自分たちを癒しているのか? 店主たちが愛する店はきっと旨いだけの店じゃない。
コの字酒場探検家、ポテサラ探求家などの肩書きで知られ、酒と料理をこよなく愛する文筆家の加藤ジャンプ氏が、名店の店主たち行きつけの店で、店主たちと酒を酌み交わしながらライフヒストリーを聞く連載「店主の休日」。
そこには、知られざる店主たちの半生記と、誰しもが聞きたかった人生のヒントがある......。
* * *
「ここじゃ無理だよ」
と、開業前にはさんざん言われていた鮨屋が繁盛している。
創業間も無いときから時折お邪魔している(けっして「俺は最初から知ってたよ」とマウントしているわけではありません)せいか、私まで、なんだか「してやったり」という心持ちだ。「ここじゃ無理」の「ここ」とは一体どこかといえば、それは横浜の郊外にある港北ニュータウンのことである。
このエリアの中心部、横浜市営地下鉄・センター南駅近くに、約3年前に開業した「鮨 はやたか」が、その店である。「ここじゃ無理」という先入観をあっさり覆し、快調にこの街の顔になりつつある。
そもそも、いい鮨屋がありそうな街とはどんなところだろうか。
たとえばそれは浅草みたいな古い街。何代もつづく老舗が思いうかぶ。
日本橋をふらっと歩いていて、ああ、あの小説に出てくる鮨屋さんは、ここだったのかと気づいたりする。あるいは、それは銀座の名店。行ったことはないが、名前だけは飽きるほど聞いたことがある店......。
では、いわゆるニュータウンと呼ばれる街に、旨い鮨屋があるだろうかと考えると、ううむと考えこんでしまったりする。どこの街にも美味い鮨屋がある可能性はあるけれど、ニュータウンと鮨屋という組み合わせは、ちょっと、しっくりこない(ごめんなさい)。
横浜市の北部、港北ニュータウンは、1965年に開発計画が発表された、いわゆるニュータウンだ。全国にニュータウンと呼ばれる街は数えきれないほどあるものの、なかには、先行きが不安なところもあるらしい。そんななか、この街は人口も増加しているし、しっかり成長している。70年代から、時折この街を見てきたが、街らしくなってきたのは80年代以降といっていいと思う。
丘陵地を大規模開発して、計画的な街づくりを進めてきた。車でそのあたりを走ると、いかにも郊外らしい雰囲気の巨大なショッピングモールなどが立ち並び、折り目正しく計画的に開発された街区に大きなマンションや家々が建ち並んでいて、散歩なんかしていると、
「人間ってなんでも作れちゃうのね」
と思ってしまったりする。
で、こういうニュータウンらしい街並みから、人はどんな飲食店を思い浮かべるのだろうか。街が新しいから老舗があると思えないし、縄のれんや赤提灯も繁華街というわけでもないから、あまり多くは無さそうである。いっぽうで、ちょっとあたりを見回せば、いわゆる回る寿司屋はゴロゴロ存在している。
そんなエリアに、果敢にいどんだ鮨屋が「はやたか」だ。店主の名は林田貴志(はやしだ・たかし)さんといって、その愛称が店名の由来である。鮨職人として20数年をかさねて、満を持して、ニュータウンに、きちっとした鮨屋を開いた。
いつもにぎわっていて遠方から来る客もすくなくない。まばゆいくらい磨かれた白木のカウンター越しに、美しい握りが、そよ風をともなって目の前に出されると、こちらは、ただ、すいすいといただく。そして、しみじみと、鮨は旨いなあ、いや、旨い鮨だなあ、とうなる。そういう店だ。
その日、「はやたか」店主の林田さんと待ち合わせたのは、「はやたか」がある、センター南駅近くにある、ブラーノブラーノという店だった。はやたか店主・林田さんの行きつけで、インド料理からイタリアンまでなんでもござれ、おいしい多国籍料理とワインを楽しめるという界隈でも評判の大人気店である。私は初めての訪問だったけれど、入り口を入った途端に、
「こりゃ間違いないな」
と、思ってしまった。スタッフの人の挨拶が、気持ち良くて、それでいて押し付けがましさが全然無い。バランスがいいのだ。これ、案外難しい。
休みの日にはよく来るという林田さんと向かい合って席に着くと、林田さんが言った。
「店じゃそうそうワインは呑めないし、休みのときは、ここへ来ていろいろ勉強するんです」
休みの日にくつろぐ店でも勉強するんですか、と言ったら、林田さん、がははと笑った。
「だいたい酔っぱらっちゃって、ひとりじゃどこ行っちゃうかわからないから、呑むときはいつも妻と一緒なんです」
いきなり、スライダー気味の愛妻家発言がズドンとこちらの心のミットに放り込まれる。これが休日、である。「いいなあ、そういうの」と、頷く。
<まずは白ワインで乾杯とあいなり、あわせるのはポテトサラダと生ハム・パテ・テリーヌ盛合せにした。ポテトサラダは、ねっちりとしつつも、ホクホク感を残した口当たりのいいタイプ。ハムと胡瓜というオーソドックスな具に安心感があって、粒マスタードのアクセントがきいていて良い。前菜の盛り合わせはハモンセラーノやオリーブがいい塩梅に盛られていて、こちらもグイグイお酒がすすむ>
「小学4年生のとき、誕生日に中華鍋と柳刃包丁を買ってもらったんです」
店主のみなさんからは、いつでも、その生い立ちから話を聞くけれど、こんなにいきなり料理人らしいことはなかなかない。林田さんは1976年生まれ。浅草で着物の紋を入れる職人の父親と専業主婦の母の間に次男坊として生まれた。10歳の頃というと『美味しんぼ』が大ブームになりつつあった頃で、林田さんも熟読していたそうだ。ただ、そもそも料理に関心をもったきっかけは、
「父は、休みの日になると、料理をしてくれたんですよ。フランスでガレット、スイスだとロスティと呼ばれるような、ジャガイモを千切りしてカリカリに焼いたのとか、ちょっと変わったものを作ったりして、これが楽しみだったんですよね。それから、父が家で晩酌をするんですが、母はすこしずつ、何品がツマミを作るんです。それを私も父と一緒になってつまんだり、台所で母の手伝いをしたりしたのが、たぶん原点だと思います」
林田さんが小学生の頃、日本はバブル期。結婚式も派手になっていった時代だ。紋をいれた留袖の需要も高かったから、林田さんの父親は日曜にもよく仕事にでた。そんなときは、林田さんも父にくっついて職場にもよく行ったという。
「たぶん職人のイメージはそのときに出来上がってた気がします。自分も自然に、手に職をつけて、やっていくんだろうな、と思うようになってました」
高校を卒業して調理師の専門学校に進んだ林田さんは、20歳のとき、都内の老舗の料亭に就職した。晴れて料理人の道にデビューしたが......、
<ブラーノブラーノの名物にレッドホットチキンというのがある。タンドリーチキンに、フライドチキンと焼鳥の旨いところをプラスしたような、驚くべき旨さの鶏である。辛味と香りにうまみがあって、鶏の焼き加減も絶妙に汁気をたくわえながらすっきりとしている。キロ単位で食えそうである。スパイス使いに圧倒されたが、それもそのはずで、オーナーの祖母はインド出身だという。本格派と感じたのは当然のことだった>
順調に料理人の道に進んだ林田さんにとって最初の壁が、すぐに立ちはだかった。
板前には階級があって、最初は一番格下の「追い回し」と呼ばれる立場になる。出勤は朝一番、帰りは一番最後だ。林田さんも、追い回しからそのキャリアをスタートさせた。朝イチ出勤、そして一番最後まで店に残り、家に帰る。
「同じ専門学校から5人まとめて就職して、皆、店の用意した寮に入りました。ぼくは先輩とふたり部屋だったんですが、この先輩がヘビースモーカーで、タバコをずっと吸いながらレンタルビデオを毎晩ずっと見るんですよ。これが、なかなかきつくて、布団をかぶってMDプレーヤーで音楽を聴いてしのいでいました」
果たして先輩はどんなビデオを見ていたのか......。ちなみに、その頃、林田さんは、よくglobeを聴いていたらしい。いまでも、
「タバコの煙がどうの、っていう歌詞の歌があるんですが、あれを聴くと、今でも胸がしめつけられます」
と、林田さんは笑う。ただ、ハードだったのは住環境だけではない。平成も10年代になろうかという、この時代、厨房は、まだ昭和だった。
「昔気質というか......ちょっとでもミスをすると親方が包丁を投げるんですよね。ペティナイフみたいのを投げて、それが、まな板にささって、ビヨヨーンって。あと、高下駄を履いたまま蹴るんです」
ーーじゃあ、親方が休みの日は天国だったんじゃないですか?
「そういう時の責任者である、"煮方"の人は、お玉で殴る人でした」
お玉で殴るというとピコピコハンマーのような楽し気な想像をしてしまったが、実際は流血もザラだったらしい。和食のお玉は洋食のそれとちがって底が平たい。あれで、やられたら......。おそろしい。そんな苦難の日々をなんとかしのいでいたある日、先輩たちからある計画を持ちかけられた。
「レンタカーを借りたから、今夜逃げるよって先輩たちが言うんです。先輩たちも我慢の限界だったんでしょうね。それを聞いて、だったら僕らもって、同期全員で置き手紙をして逃げました」
置き手紙をするところに、丁寧な人がらを感じた。とはいうものの、集団脱走となれば斡旋した専門学校でも問題にならないはずもない。学校からいろいろと聞かれたが、林田さんたちが、その過酷な現場を伝えると学校も納得。その料亭への就職の斡旋は無くなったという。
さて、浅草の実家にもどった林田さんは、こんどは鮨居酒屋でアルバイトをはじめたところ、ほどなくして、専門学校から舞浜にあるホテルで鮨職人の求人があることを伝えられた。鮨居酒屋から本格鮨へと、とんとんと進路は展開し、まさに鮨との運命の出会いをとげた......のだが、ここでも、また料理人残酷物語はつづいた。今度はフィジカルではなくメンタルにひびくしごきだった。
「親方は、ちょっと気に食わないことをすると、1ヵ月とか2ヵ月とか、一切口を聞いてくれなくなる人でした」
上司が部下を無視.....こわい話だ。だが、林田さんはめげなかった。
「親方って、昔の職人なので、そろそろ仕事も終わりかなっていう時間、だいたい20時過ぎくらいに、湯呑みで酒を一杯出してしまうんです。『おつかれさまです』なんて言って渡すと、親方も気をよくして呑んでしまって気分よくなって帰っちゃうんですよ。それから、自分たちの時間だ、って。素材から包丁から、あれこれ、みんなで、いろいろ勉強するんです」
舞浜で「上の人のハンドリング法」をうまく使いこなしながら、研鑽をつんでいった林田さんは、さらに腕をあげるため、新たな舞台に六本木の鮨屋を選んだ。いろんな業態の店を持つグループの鮨店で、その店の女将さん候補としてやってきたのが、現在の妻なのであった。
「おたがいよく呑むので、どっちが先につぶれるか、みたいな出会いでした」
最高なのであった。こうして人生の伴侶をえた林田さんは、六本木で3年ほど勤めた後、再び働く場を移した。旧ホテル日航東京、現在のヒルトン東京お台場だった。
<エスニックパクチーサラダというパクチー山盛りのサラダと、しゃきしゃきのパクチーが心地よく、香りも豊か。カメムシソウなんて名前をつけた人にこそ食べさせたい>
「いやあ、昔はいやだったんです。でも、勤め先が外資にリブランドしたとき、外国からのお客様も増えたので、カリフォルニアロールのようなお寿司も出すことになったんですよ。それで、最初は、ちょっと首をひねりながら具にパクチーをつかっていたんですよね。なんだかなあと思いつつも、毎日食べていたんですが、ある日、『あれ、これイケる』となりまして」
破顔する林田さん、たしかにモリモリとパクチーを食べている。ちなみに、いまの店「はやたか」は、ロールなどは出さない、肩の力は抜けているけれどストイックな鮨店である。
台場のホテルに移ってから、リーマンショックやホテルが外資に変わるなど、激動の時代を過ぎていったが、林田さんはゆらぐことなく腕を磨き、後進を育てながら、気づけば鮨部門のトップになっていた。カウンターには、林田さん会いたさにやってくる常連が座るようになった。そんな常連客のなかには、いわゆる富裕層も多い。
そうした客が、資金援助をして料理人の独立を促すことは珍しいことではない。林田さんも、もちろん、そうした客たちから独立をもちかけられることも増えていった。銀座に店を出さないか、といった、鮨職人なら誰もが夢見る話も何度ももちかけられた。だが、林田さんの考えはすこしちがった。
「銀座の鮨文化はもちろん、都会のそれはもう素晴らしいものですよね。でも、いっぽうで、日本にはいろんな街があって、言い方は難しいですが、ちゃんとした鮨屋が無い街、無くなってしまった街がたくさんある。縁あって、家がニュータウンの近くにあって、その街の成長を見ていて、こういう新しい街で、親子何代も通ってくれる、町寿司とも違う、ちゃんとした鮨屋があったら、それだけで街も人も豊かになるんじゃないかなあ、って。経営は大変だろうなとは思いつつもそんなことを考えまして」
林田さんは笑いながら言った。そして、グイッとグラスをあおり、涼しい風のような笑顔を見せた。24時間爽やかな人なのである。こういう人柄にファンがつくのも頷ける。そんな林田さんの店作りの考えに賛同してくれる人も出てきて、林田さんは25年をこえるキャリアを経て、独立することを決めた。場所は、港北ニュータウンのセンター南。本格的な鮨屋はない街だ。
「店の工事をしている間、しょっちゅう、街を行く人に、何ができるか聞かれたんですよ。鮨屋です、と言うと、みなさん『いくらくらいなの』と聞いてくださる。それでお値段をお伝えすると、一様に『ああ、ここじゃ無理だよ』と」
林田さんは笑って言うが、そのときの心中はいかばかりだっただろうか。
<ブラーノブラーノは中華のツマミもおいている。餃子もあるので注文した。店名がイタリアンらしいので、ラビオリみたいな餃子だったり......などと勝手に想像をふくらませていたが、やってきたのは、完璧に中華屋のそれの佇まい。熱いのを躊躇せずほおばると、皮が旨い! もっちりしながら、ねっちりはしない。歯と皮とのつかず離れずの関係は、ああ、人間もかくありたいと思わせる。具はしっとりと汁気があって、これ目当てに行くのアリだ。これは人気店になるのもうなづける>
当初、工事は順調に進んでいるように見えたが、実際にはさまざまなトラブルが発生していた。あえなく工事は中断。開業予定は大幅に遅れてしまった。資金援助を持ちかけてくれた人も不安をおぼえてしまい撤退。不安な日々がつづいた。
「グジグジ言ってばかりいて、もうやめようかな、とすら思ってたんです、ほんとうにアレコレ難航して。でも、そんなとき、妻が『やらなかったら後悔するよ』とすっぱり言ってくれたんですよ。『失敗したって、お金なんかふたりで働いて返せばいいじゃん』と背中を押してくれて。感謝しかないですよねえ。ついには、『料理人の仕事はなに? おいしいものを食べて元気をだしてもらうことでしょ。こういうときこそ、おしいもの食べなくちゃ』なんてことを言ってくれて、ある店に誘ってくれて」
ふたりでむかったのは、林田さんの先輩職人が麻布十番にひらいた鮨屋だった。
「こういう言い方をすると語弊がありますが、いろんな鮨屋さんに行って食べてきましたが、僕は自分の握った鮨が好きで、あまり、ほかの人が握ったお寿司をおいしいと思ったことがなかったんです。でも、その店で、鮨を食べたら、ちょっと涙がでてきて......。ああ、鮨っていいなあ、ってあらためて思ったんです」
その日食べた鮨のシャリに圧倒された林田さんは、すぐにそれをとりいれようと、その店の酢をつかって自分のつくるシャリの改良をはじめた。妻や子どもからもダメだしされながら、これ、と思う配合にたどりつつくまで、夜も昼も明けず研究をかさねた。
そして、青写真に入っていなかった、いくつかの工夫をとりいれ、店の造りも網羅的に改良した。工事は3ヵ月もとまってしまったが、
「きっと必要な期間だったんだと、今なら思えます」
これを聞いていた、こちらまで、ちょっとグッときてしまった。話しに夢中でグラスがたまってしまったのを、一気に片づけた。どろんと酔ったが、良い心持ちだった。
<林田さんには、ブラーノブラーノの近くにもう一軒行きつけがあって、そこへ向かった。80's(エイティーズ)という店だ。店名のとおり、店内は80年代のLPレコードのジャケットがずらりと飾られている。私も80'sど真ん中に十代を過ごしたので、ここは居るだけで興奮してしまう。マスターと「あの頃、スザンヌ・ホフスとプリンスは......」とか「スクリッティ・ポリッティは、この2枚目ですよねえ......」などと会話がはずむ。それを見て林田さんは、ぐいぐいハイボールをあおる。2軒目に最高の店だ>
2021年3月1日、「はやたか」はようやく開業に漕ぎ着けた。それから繁盛店になるまでに時間はかからなかった。林田さんが目指していた「親子何代にもわたって通う鮨屋」になることは間違いないだろう。
店に行くと、おそらくこの街が開発されて間もない、まだ空き地だらけだった頃、引っ越してきたであろう祖父母に連れられて、孫が初めてカウンターに座る......そんな光景にも時々であう。
長い歴史のはじまりが、この店に来ると感じられる。開業当初から勤めているお弟子さんも、はじめは緊張の塊だったのが、いまでは冗談も口にできるほどに日に日に成長していて、ここは、ほんとうに「良き時の流れ」を目の当たりにできるのだ。
「これからは若い人を育てるのがいちばんの課題だと思ってます。これでも昔は短気で有名だったんですよ。それが、いまはだいぶ変わったみたいです。とにかく、女性も男性も、鮨屋になりたい、と思った気持ちを、こちらも大事にしたいですよね。
僕も、昔はほんとうに無口で、そんな時代を知ってる仲間は『鮨屋になってよかったね』なんて言うんですよ。だから、若い鮨職人を目指してる子たちが、いつか『鮨屋になってよかったね』って言われるように、手伝っていけたらな、って思うんです」
言いながら、林田さんはすこし照れたのだろうか、またハイボールをあおった。Tears for Fears の「Everybody wants to rule the world」が流れると、林田さんはYouTubeの魚をさばく動画について話しはじめた。根っから魚が、鮨が好きなのである。そういう人がやってる鮨屋だから、人は通ってしまうのだろう。
文筆家。コの字酒場探検家、ポテサラ探求家、ソース研究家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』『今夜はコの字で 完全版』(土山しげる・画)などがある。BSテレ東のドラマ「今夜はコの字で」の原作をつとめる。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。集英社インターナショナルのnoteで「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」連載中。
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