モーリー・ロバートソンMorley Robertson
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、イスラエルを「特別扱い」しているとしばしば批判される米メディア、逆に「無邪気なパレスチナ応援」が目立つ日本メディア、それぞれの問題点を考察する。
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日本ではあまり大きく報じられませんでしたが、イスラエル軍の兵士9人が基地内に収容されていたパレスチナ人に虐待を加えていた疑いで拘束されるという事件がありました。 許されない暴挙であることは論を俟(ま)ちませんが、この問題の報道に関連して考えさせられたのは、現代社会を生きるわれわれがメディアとどう向き合うべきかという難問です。
イスラエル兵による虐待は、性的な暴行(肛門に電気棒を突っ込むなど)も含む凄惨な拷問死にまで及んだとされています。ところが、人権や公正を重視するはずのアメリカの大手リベラルメディアは、イスラエル関連になるとどうも筆が鈍くなります。
例えばニューヨーク・タイムズは、判明した事実を報じてはいるものの、その前にやたらと長い注釈的な前置き(イスラエル全体を批判しているわけではない、といったニュアンスを盛り込んだもの)をつけたり、文中にイスラエル擁護派の主張も入れ込んだりと、奥歯に物が挟まったような構成でした。
これはイスラエル批判が反ユダヤ主義に結びつきやすいこと、ハマスなどのテロ組織に対して一定の道義性を与えてしまうこと、それを大統領選挙においてトランプ陣営に利用されかねないことなど、さまざまなハレーションを懸念してのことだと思われますが、良くも悪くも米社会の縮図がこの記事に表れていたという印象です。
一方、日本では逆に、歴史的経緯を十分に咀嚼(そしゃく)しているとはいえない「にわかパレスチナ応援」目線が組み込まれた報道が目立ちます。例えば8月6日の平和祈念式典で、広島県知事が挨拶の中で間接的にイスラエルを批判した際、NHKのカメラが来賓のイスラエル大使を映し続けたこと。
たった数秒間の短いあいだであっても、「核の人道に対する罪」と「イスラエル」がモンタージュの等号で結びつけられることは、問題を過度に単純化させてしまいます。実際にロシアがウクライナで核兵器の使用をほのめかし、北朝鮮が韓国、日本、アメリカを威嚇する核実験を繰り返し、イランは長期にわたってイスラエルを攻撃する目的で核兵器の開発を進めているという現実を、「ガザの虐殺」で上書きしてしまうからです。
「正義」に走りすぎた感情的な報道では事実をとらえきれず、 "加害者"を含む全当事者や社会の反応にまで過剰に配慮した報道は、現実の問題をぼやかしてしまう。情報の受け手がニュースアイテムや画像、カメラワークに至るまで「裏読み」をしつつ、内容を解析しなくてはいけない状況は非常に危ういと感じます。
日本に関してもう少し申し上げるなら、中東問題や紛争地域に関する報道はしばしば単純な「平和」に振り切れる傾向にあり、初心者レベルの理解にとどまっています。これと表裏一体なのが、国内で発生する外国人(ムスリムを含む)の犯罪に対する耐性のなさです。
イギリスではすでに、経済的な不満と偽情報の拡散が大きな推進力となり、移民排斥を訴える大暴動が社会問題化していますが、日本でも、情報不足や「情報咀嚼」の不足がもたらす社会の急変は近いと感じます。
われわれが本当にやるべきことは、紛争や犯罪に対する瞬間的な怒りを放出しては忘却することを繰り返すのではなく、そうしたことが起こりにくくなる枠組みを考えていくことでしょう。
しかし、その手前でまず現状を認識するための素材となる報道に、さまざまな角度からバイアスや忖度、思想が埋め込まれているとなると、個々人が自分なりの"バランスのよい結論"を見いだし続けることはしんどくなっていきます。
問題が決して簡単に解決しないことは自明ですが、当事者の意識を持って考えることも相当に「体力」を求められるのです。
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数