栃木市の端に、西方町(以下、西方)という町がある。といっても、里山に囲まれた村といった様相だ。街道を外れると信号はほとんどなく、庭に蔵を構える民家も多く、家と家の間にはだだっ広い田畑と空き地が広がる。
ふたつある小学校は都市部のものと遜色(そんしょく)ない佇(たたず)まいではあるが、そのうちひとつの生徒数は50人足らずで、昨年の新入生はふたりしかいなかったという。
「若いコはみんな出てっちゃってね」(近隣のお婆さん)
伝統技能の伝承が途絶え、町の行事を維持できなくなり、地域文化が消失する...そんな地域は全国にごまんとある。西方もこうした過疎化の途上にあるといえばそうなのだが、その流れを食い止めようとする"町に残る者たち"の活動がにわかに注目され始めている。
活動の中心にいるのは、西方商工会青年部の14人。全員揃いの半纏(はんてん)をまとっている。
地域振興の担い手として、20~40代の商工業者が集う商工会青年部は現在、全国で約1700、栃木県内には35団体ある。その中でも、西方の青年部は極めて少数組織だ。だが、まるで遊びに興じているようにも映る、彼らの地域のための活動ぶりには活気がある。
中心人物のひとり、西方生まれの荻原大輔(34歳・大工)は半纏姿で毎朝、建設現場の仕事へ行く前に蔵を構える友人・知人の家を廻る。何をしに行くのか? 例えば、こんな具合である。
「おまえんちの蔵、ちょっと見せてみ」 「やだよ。ウチ、ゴミだらけだし」 「いいからいいから。面白いものが見つかるかもよ」
栃木市は、江戸情緒の名残(なごり)が漂う蔵造りの家並みでも知られるが、蔵の中は住人が代々、溜め込んできた不用品の山だったりする。荻原はそこに顔を突っ込んでは一見"ゴミ"を引っ張り出し、住人の許しを得て持ち帰ることを日課にしているのだ。
持ち帰る先は、西方と隣町の山の麓(ふもと)にある一軒の古民家。そこに"ブツ"を抱え、母屋の向かいの納屋の中へと駆け込んでいく。
「隊長、こんなのありやした!」──荻原は少年のようにニタッと笑い、"隊長"に一着の野良着を手渡した。
隊長とは、飯田団紅(だんこう)。青年部員ではないが、聞き覚えのある人もいるのではないか。自ら率いる和楽器パンクバンド『切腹ピストルズ』の隊長で、昨年3月に週プレNEWSで配信した飯田のインタビュー記事は大きな反響を呼んだ。
東京に生まれ育った飯田は、1999年の大晦日に切腹ピストルズを結成。現在は太鼓、篠笛、三味線などの和楽器奏者ら20名を抱え、神社の奉納や各地の祭り、芸術祭、ライブハウスなど多方面からお呼びが掛かる、知る人ぞ知る人気バンドに育った。
その飯田が所有する納屋の外観はトタン屋根に土壁...軒先に山積みとなった薪が百姓風情を漂わせる。中に入ると、土と藁(わら)の心地いい香りが鼻をついた。間仕切りのない一間に火鉢の座卓があり、藁床(わらどこ)の畳6畳を敷く小上がりには水屋箪笥(みずやだんす)に屏風(びょうぶ)、木箱といった和家具や調度品が並び、木窓から差し込む光が室内を明るく照らしていた。
部屋の隅には野良着や半纏、下駄、雪駄(せった)、年季の入った職人道具といった品々がズラリと展示されているが、荻原ら青年部の面々が蔵に眠る現代では価値のない古民具や古着を"救出"しては、ここに集結させていたのだった。
彼らは、この納屋を『江戸部屋』と呼ぶ──。
『西方ここにあり』『なめんな!』
飯田が東京からこの地に妻と越してきたのは5年ほど前のこと。「東京は落ち着かねぇな」と、都会の暮らしに嫌気が差したことが理由だった。
移住して5年。ここでの田舎暮らしは「面白い」と目を輝かせながら、ミュージシャンやデザイナーといった仕事の他に野良仕事をして暮らしている。洋服は着ず、普段から「一番しっくりくる」野良着を着用し、外出時には半纏を羽織る。
そんな飯田の存在を、荻原ら青年部員が知ったのは今から3年前のことだ。
「友達から『西方に切腹ピストルズの隊長が住んでる』って聞いたんですけど、当時は切腹のことを知らず、ネットで検索したら『橋の下世界音楽祭』で隊長を中心に大勢の人たちが踊り狂っている動画が出てきてビビりました...こんなヤバい人が西方にいるんだって」
それから町で飯田を見かけては「チラ見したり、スマホカメラで盗撮したり」する日々がしばらく続く。他の青年部員も「いつも野良着だな(笑)」と遠目に見ているだけだった。
そんなお互いの接点は17年1月に訪れる。無病息災を願って開催される西方の「どんど焼き」は、かつて日本一とも言われた地域の伝承行事だが、そこに荻原ら青年部が露店を出店、飯田も切腹ピストルズの隊員4、5人を伴って来場していた。
隊員は野良着にそろいの半纏姿。切腹ピストルズの"普段着"でもあるのだが、そのいでたちに「衝撃を受けた」というのは荻原の幼馴染み、針谷(はりがい)伸一(34歳)だった。まだ若いが青年部部長を務め、手縫いで畳を作れる腕利きの畳職人である。
「青年部の中で、孫の代まで残る物を作ろうって話は前々からしていて、半纏も選択肢のひとつでした。他にも案は出ていたんですが、形にできたのはTシャツ くらいのもので、そんなのすぐ駄目になるし、夏しか着れないし、全然違うなって感じていたんです。そんな時、切腹さんの半纏姿を見て、『カッチョいい、 やっぱコレだ!』と思いました」
その後、青年部での半纏作りに着手。飯田に協力を仰ぐと、デザインを引き受けてもらえることになった。が、その半纏が新潟県・小千谷市にある創業260年の老舗染織工房で製作した高額な誂(あつら)え品であることを知ると、青年部一同、青ざめる。
それを察してか、飯田から「3万くらいで本物が着れるぜ」と諭(さと)されると、1着35000円で作ることに決定。青年部の経費は使えなかったので、荻原は部員に「半纏は"自腹"で」とメールした。すると「そのデザインならば」と部員や仲間の十数名が同意。豪雪の中、小千谷の老舗工房に直接出向き発注すると、1ヵ月半後、完成した半纏が西方に届いた。
たかが半纏のちっちゃな話ではある。だが、荻原と針谷がこの話にこだわるのは、それが青年部と飯田をつなぐ"絆"にもなったからだ。その背景には、こんな田舎特有の事情がある。
"嘘っぽい都会"のものじゃ飽き足らない
荻原「西方っていうと、『それどこ?』と言われるばかりで、同じ栃木市民でさえ町名を聞いてもピンと来ない人が多く、知っている人がいても『あ、なんにもないとこね』と小馬鹿にされる...。別に何を言われても怒らないし気にも留めないんだけど」
針谷「でも、みんな心のどこかに『西方ここにあり』じゃないけど、『なめんな!』って気持ちは持っているんですよ」
荻原「考えたら、親世代も変な活動をよくやっていました。思い出すのは、毎年8月の24時間テレビに合わせて開催する『24時間耐久ソフトボール大会』。夜中に『128回表』とか、やることがぶっ飛んでた(笑)。さすがにもうやらなくなったけど、『いっちょ、かましてやろうぜ』的な、尖ったことをやろうとする思いは西方のDNAなんだと思う」
そう話すふたりも当然、西方のDNAを受け継いではいるのだが...。
針谷「隣町が清掃活動や献血運動をしている時に『西方は違うぞ』ってところを見せたくて、わざわざ山のてっぺんに登って西方城址の草刈りをやったり...」
荻原「その時は、アウトドアブランドのデザインをパクッたTシャツをみんなでドヤ顔で着て、SNSに載せたりもしたけど全然ダメで。町の名所に彼岸花をいっぱい咲かせようと意気込んだけど、球根が手に入らず断念したこともありました」
針谷「みんな西方への思いは熱いんだけど、やろうと決めたことがなかなかうまく形にならない"もどかしさ"みたいなものを感じていたんです」
過疎化が進む地域では似たような"もどかしさ"があるのかもしれない。それを解決すべく、ゆるキャラを作ったり、B級グルメを押し出したり、メディア受けを狙った街おこしに走るのも一策だろうが、西方の青年部が目指すのはそういうことではないらしい。
「栃木市の中心部でも『小江戸』を謳(うた)いつつ、蔵の外観はそのままで、中をつぶして真っ白にして今どきのカフェにしてみたり、『栃木市フェスタ』とかいってタレントやフェラーリを呼んだり精力的な活動はしている...でも、西方は泥臭くいきたいなぁって」
一方の飯田も、行く先々で見る昨今の地方の風潮にこんな違和感を持っていた。
「古民家カフェをやるのもいいし、町に巨大なショッピングモールを誘致するのもいいんだけど、これまでオジサンたちが田舎で東京っぽいものを再現しては失敗してる。結局、若者たちはこの"嘘っぽい都会"のものじゃ飽き足らず、彷徨(さまよ)っちゃうような気がするんです」
そんな思いが交錯して、最初に形としたのが半纏だったのだ。
「できあがると、青年部以外にも『俺も欲しい』という人たちが現れて、半纏の輪が広がっていきました。僕たちの心の中の形にできていなかったところを、隊長にはうまく引っ張り出してもらえたと感じています」
そんな西方の若者の動きを飯田はこう見ていた。
「切腹ピストルズのライブで訪問する各地で、『半纏っていいね』『ウチも作りたい』ってよく言われるけど、自腹で一気に作っちゃうような地域は西方以外になかった。やると決めたらバッと動き出す彼らの姿を見た時、今、日本でこんな動きができる町のコたちって他にいないんじゃないかと思った。西方のために彼らと一緒に何かをやりたいって気にさせてくれましたね」
◆後編⇒明治維新150周年を機に生き方を考え直す! 切腹ピストルズの隊長が"ど田舎感"で若衆たちと仕掛ける「江戸部屋」とは?
(取材・文/興山英雄 撮影/利根川幸秀 写真提供/ROCO)