『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが指摘する「覚悟もなく騒ぐ人々」とは――?
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1996年に再結成したセックス・ピストルズは同年11月、初の日本ツアーを行ないました。私は日本武道館でのライブに2日連続参戦したのですが、その初日、日本のファンのあまりのおとなしさに、ボーカルのジョン・ライドンはステージ上で思わず「おまえらは沈黙するために20年も待ったのか?」と言い放ちました。
面白かったのは翌日です。今度は客席の中に、みんなが静まるタイミングでも英語でやけに騒ぐ一団がいた(イギリス人かオーストラリア人だったと思います)。するとライドンはこう言いました。
「ここにも恥ずかしいヤツらがいるな。極東に来て白人男が"アナーキー"とか言って騒いで。おまえらに何ができる? 本当に何かできるんなら動きを起こしてみろよ。世の中変えてみろよ。俺らは変えたぞ」
時代背景を補足しますと、1990年代の日本では英語さえ話せれば"小金"を稼ぐのは難しくはなく、「外国人好き」の日本人女性に養われるパターンも珍しくありませんでした。
あの一団が実際にどんな人たちだったのかは知る由もありませんが、ライドンはバカ騒ぎに「ラクな生き方をしているにおい」のようなものを感じ取ったのでしょう。おとなしいヤツもバカだが、覚悟もなく騒ぐヤツもバカだ、と。
――最近とみに「騒ぎたいだけの人たち」の存在を意識せざるをえない事案が続いており、四半世紀も前の話をつい思い出してしまいました。
コオロギの食利用に対する反対の声にせよ、公衆トイレの男女別から共用化という流れに関する炎上騒ぎにせよ、共通しているのは、その背景に現在進行形の複雑な社会問題(コオロギ食なら地球環境問題、トイレの件はトランスジェンダーの人権に対する配慮)が横たわっていることです。
当事者たちは問題の存在を認識した上で、なんとか解決しようと知恵を絞っている。そのやり方が本当に正しいかどうかはしっかり議論すればいいことです。
ただ、残念なことに多くの場合、炎上の始まりはまともな議論ではなく、とにかく「燃やしたい人」が火をつけ、生理的嫌悪感を優先する人たちがそこに薪(まき)をくべて拡散していく。
社会の持続可能性や多様性の問題が語られることはなく、ナショナリズムや陰謀論を巻き込みながら燃え盛り、多くの人々は嫌気が差して静観に回ってしまう。そして社会は前進することなく、「燃やしたい人々」の快楽が満たされるだけ――。
この不機嫌・不寛容のスパイラルには、一次情報を報じるメディアの弱体化も影響していると(現場にいる身として)感じます。問題の複雑性を説明するよりもインスタントに「ウケそうな切り口」を選ぶ傾向が、議論の重心がズレていくことを助長してしまっている部分は否定できないでしょう。
なんらかのチャレンジや変化に違和感を抱く人がいるのは自然なことです。しかし、個人の不快感や憤りをかき集めて議論全体をせき止め、変わろうとしない社会は果たして持続可能でしょうか?
現実を前に沈黙する人、現実逃避をして騒ぐ人、現実を見据えて新しい状況をつくろうとする人。自分がどんな立ち位置でありたいのか、せめて自覚的であろうとする意識が必要な時代なのではないかと感じています。
●モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、ほかメディア出演多数。富山県氷見市「きときと魚大使」を務める