『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、2年前に与野党でいったん合意したにもかかわらず、与党の修正案により今国会での成立が見通せなくなった「LGBT理解増進法案」(LGBT法案)をめぐる議論のあり方に警鐘を鳴らす。
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本人が自覚しているかどうかはともかく、「まともに議論する気がない人」はたくさんいます。そういう相手に対し、理を尽くして正論を言ったところで意味はあるのか――。
「LGBT法案」を巡る保守vsリベラルの噛み合わなさは、もはやそのレベルに達していると感じます。
例えば、朝日新聞5月17日付の1面コラム「天声人語」では、自民党右派議員の荒唐無稽な主張をわざわざ真正面から受け止め、丁寧な反論を試みています。
これは確かに誠意ある対応なのでしょうが、まともに取り合うことで、「ゴミ(難癖や屁理屈)をわざと道に落とし、それを誰かが拾い集めたらまた別のゴミを投げ捨てる」ような、見るに堪えない"娯楽"が生まれているという側面も否定できません。
世界の民主主義陣営の総意として、私たちは人種、性別、性的指向、出自、年齢、階級、障害の有無などを理由とするアンフェアを解消する方向へ進んでいます。
はっきり言えば、この件についてはもう基本的な議論は尽くされています。欧米でもまだ反発の声を上げる人はいますが、あくまでも中心から外れた一部の勢力。「反差別」はもはや人類の既定路線となっているのです。
日本でも、同性婚などLGBTの権利向上に明確に「反対」する人は少数派でしょうし、好きとか嫌いとかではなく、誰もが今より生きやすくなるならそれでいいんじゃない、という感覚が中央値でしょう。もちろん法や制度が変われば社会に変化は起きますが、この件に関して言えば、それで大きな不利益をこうむる人などいないはず。
「多様性は否定しないが、猫も杓子もマイノリティの権利をどんどん認めてしまったら、社会の安定が脅かされる」といった目に見えない不安をチラつかせる言説は、本質以外の部分で議論を停滞させるための"煽り"に過ぎません。「変わること」自体に拒否反応を示しがちな国民性をうまく利用している、とも言えますが。
大前提として、法や制度上の差別をなくすことと、個々人の「好き嫌い」の問題はイコールではありません。偏見は決していいものではありませんし、だんだんなくなっていくとも思いますが、もし今、あなたの心の中になんらかの偏見や悪印象があるとしても、そのことに振り回されず、法や制度の問題については冷静な判断をすべきです。
この機会にあえて正直な話をすれば、私も学生時代、「ゲイ」や「黒人」という属性に苦手意識を持っていた時期がありました。
それは同級生から暴力的な圧迫を受けたり、小児性愛者の神父からハラスメントされそうになったりしたことから生まれた感情ではあったのですが、大人になっていろいろな人と接し、ユニバーサルな人権というものを意識する中で、個人的な体験と属性への印象を区別できるようになり、心の中の偏見は薄らいでいきました。
この問題はみんなに「正義」を求めているわけではなく、他人の性的指向・嗜好に共感しろというわけでもない。わからないものはわからないでもいい。特定の人の権利を奪ったり、制限したりするような法や制度はやめよう、というシンプルな話です。
それをあえて複雑にしようとする"議論という名の娯楽"には、もう付き合わなくていいだろうと私は考えています。
●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数