『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、ジェンダーをめぐる「サイエンス風味」の怪しい議論に警鐘を鳴らす。
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シアトルパシフィック大学の研究チームが、先史時代の数十の狩猟採集社会のデータを分析し、少なくとも79%の社会で女性が狩猟に参加していたことが判明したとの論文を発表しました。
こうした研究が進めば、「男性は狩り、女性は採集と育児をするのが人間のデフォルトである」といった定説が覆される可能性があると指摘されています。
私は考古学や文化人類学に明るいわけではないのですが、男女の役割に関する〝物語〟が浸透していった過程には興味があります。男はこういうもの、女はこうあるべきという固定観念は、時代や地域の事情に応じて都合よく組み上げられた〝矛盾のやぐら〟だったのかもしれません。
第2次世界大戦後、欧米を中心に女性の社会参画が進むと、保守的なキリスト教道徳との摩擦が生じました。また日本でも、数十年ほど遅れて似たような構図が生まれていきます。
そこで保守派が拝借したのが、男は外、女は内という「科学」的な男女の役割の物語だったわけですが、今回の発見により、その「科学」は根拠が怪しいことがわかりました(以前からアカデミックの世界ではその可能性が指摘されていたものの、なかなか声を大にして指摘しづらかったとの情報もあります)。
この構造はかつての列強が、ダーウィンの進化論を拡大解釈して社会的ダーウィニズムという疑似科学を発見し、植民地支配や人種差別を正当化した歴史と似ています。
男女に「一般論としての社会的役割」があることの何が問題なのか。社会が強制しているわけではなく、生き方の自由は認められている。そう思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし日本でも依然として、性差による「うっすらとした役割意識」を前提に作られたルールや〝暗黙の了解〟が数多く残っています。
その役割意識は目に見えない圧力として常態化し、多かれ少なかれ(特に女性の)生き方の選択肢を狭め、可能性の芽を摘む。しかも、その科学的根拠とされてきたことすら、真偽はあやふやだったのです。
それでもこの問題を「議論する必要がない、価値がない」と切り捨てるのは、裏を返せば「議論してはならない」「議論したくない」領域だと考えているからではないでしょうか。議論することで損をするのが既得権を持つ人々であることは、火を見るより明らかですが。
また、ここまであえて「男女」という言葉を使ってきましたが、実際は多様なグラデーションの〝どちらでもない人〟がいます。その人々にとっては、「男女」だけを前提としたルールの中で生きること自体が極めて不便で、居心地が悪いでしょう。
だからこそ今、そのルールを見直そうという機運が高まっているのですが、「社会が壊れてしまう」などと言って、あるいは「サイエンスらしきもの」を掲げて、それにすら賛同しない人がそれなりにいるのが現状です。
例えば、トランスジェンダーを議論する際に、オールマイティな切り札として「人の性は生まれた時の性器によって決まっている」という主張がよく出されます。
一見すると「論理的に間違っていない」ように見えますが、これはそもそもアイデンティティの問題であるジェンダーを「性器」というフレームワークへと矮小化し、「科学的な判定」を錦の御旗(みはた)にしようという試みです。
もっとはっきり言えば、あらかじめ決まっていて動かしたくない結論に「サイエンス風味」をまとわせているのです。
日本におけるフェミニズムの先駆者・平塚雷鳥らが創刊した雑誌『青踏』のメンバーだった女性が、「女なのに人前で酒を飲んだ」という理由で新聞紙上で批判され〝炎上〟したというエピソードがあります。
現代を生きるわれわれからすれば、なんとくだらないと思いますよね。今、変化に反対している人は、当時その批判記事を書いた記者と自分が同じようなことをしていないか、もう一度考えてみていただけたらと思うのです。
●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数