『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、日本の受験偏重教育と、現代社会とのミスマッチについて考察する。
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私は「東京大学とハーバード大学に同時合格した」という紹介のされ方をすることも多いのですが(もう40年以上前の話です)、近年よく考えることがあります。
昭和から続く日本の受験偏重教育は、もう終わりにしたほうがいいということです。
確かにこのシステムは、かつてはメリットも大きく、機能していたのでしょう。個人的にも、「戦争」といわれる受験の過程で手に入れたものがないわけではありません。
例えば理不尽に対するタフさは身についたでしょうし、若い時期に、苦い薬を飲むように無理やりにでも基礎学力を染み込ませたことは貯金になっています。実際にそれらが役に立ったことも少なからずありました。
しかしながら、それを踏まえてもなお、やはり今の時代においては弊害のほうが大きいと思うのです。
特に重大な「毒」は、受け身の姿勢をとことんインストールされること。そして、「この世界で知るべきことはすべて試験の問題に出る」という条件付けがなされ、世界観が「井の中の蛙」になることでしょう。
基本的に日本の入試(大学、高校、中学問わず)は、何をすれば高い評価を得られるか極めて明白な、シンプルなルールのパターン化された点取りゲームです。
閉ざされた誰もがその対策に全力を注ぎ、それ以上のことをしようとしない。すると、与えられた課題に対しては好パフォーマンスができても、頼まれてもいないことを突き詰めて考えたり、「答えのない問題」や「答えが複雑で状況に応じ変化する問題」に太刀打ちできる"能動的な想像力・創造力"は身につきません。
言い換えれば、現状維持あるいは右肩上がりのリニア(直線的)な社会では強いけれども、現代のような激しい変化への対応力には大きく欠けるということです。
これをシステムの面から見ると、シンプルなペーパーテストの点数だけで合否を決める現状の「一律平等」な入試問題では、「唯一の正解」がない複雑な課題を解決するために経験、洞察、見識を総動員して「主観的に判断する」能力は判定できない、ということになります。現実世界(特に変化の激しい時代)では、それこそが最も重要な能力なのですが。
個人的な経験をいえば、東京大学にほんの少しだけ通った後、ハーバード大学に転校すると、自分の想像力や学習方法(試験に出る内容だけを要領よく最低限学ぶ)が硬直化していたことを思い知らされました。
日本の受験戦争で「模範的」とされる学習と、アメリカの名門大学で放り込まれたディベート教育、人文と科学をクロスオーバーさせる教育とはまったくの別物だったのです。
あくまでも印象論ですが、ビジネスの世界でも、変化の速度が指数関数的に上がり始めた2000年代以降はその影響が強く出ているように感じます。
グローバルレベルでイノベーションの重要性が叫ばれる中、日本の起業家たちの多くは基礎研究でのブレークスルーや新ジャンルの開拓よりも、サービス設計の妙手でビジネスを成功させようとしている。もちろんそれでも成功するのは大変なことだと思いますが、既存の枠の中での最適解を探ることは、イノベーションから最も離れた行為だという見方も成立するでしょう。
ビジネスに限らず、国際情勢やグローバルな事象に対して日本人が徹底した無関心に陥りがちなのも、「テストに出ないから」という発想の延長線上にあるように思えてなりません。
もうひとつ付け加えるなら、戦前から継承されてきた日本社会の「出る杭は打たれる」「異端者を排除する」といった閉鎖性も、受験という統一ルールが金科玉条になり、「一億総中流」の幻想が強固に構築されたことで、いまだに負の遺産となって染みついているように思います。
文部科学省は20年度以降、学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」を推進していますが、一方で受験ビジネスはさらに活況を呈しているようです。
しかし、決まった答えに最短距離で行きつく能力が高く評価され、回り道をする知性が貶められるのは昭和40年代の環境設定。今の時代に必要なのは、自分でゼロから基本原理を考える(つまり「WHY」を設定し探求する)能力を幼い頃から身につけ、柔軟に発想できる能力を養うことだと思います。
とにかく「まずは世界を見ろ」と言いたいところです。
●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数