モーリー・ロバートソン「挑発的ニッポン革命計画」『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、権力者の横暴に対し沈黙しがちな日本社会の体質について考察する。

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旧ソ連時代から今もロシアで活動を続けるユーリ・ノルシュテインという著名なアニメーション作家がいます。

1984年に発表された『Tale of Tales(話の話)』は、彼が子供の頃の思い出を描いたセリフのない作品ですが、実はその制作過程には複雑な事情がありました。

当時は国家権力が創作への検閲を強め、誰もが権力に忖度した、プロパガンダ交じりの作品を発表せざるをえなかった時代です。

ところがノルシュテインはその「空気」に抗い、当局の「要望」もはねのけ、政治とは無縁な世界観を貫いた。彼の圧倒的なワークマンシップと意地をほかの作家たちもあの手この手で応援し、なんとか完成・上映にこぎ着けたのです。

同作に対する高評価が、結果として当時の権力に対する批評となったのは間違いないでしょう。

言うまでもなく、旧共産陣営国とは違い、日本を含む西側諸国にはずっと言論の自由があります。ただ、今になってやっと白日の下にさらされたジャニーズを巡る問題は、独裁国とは別の形で日本社会に巣くう「沈黙は金」の精神をあぶり出したように私には感じられ、ノルシュテインに思いをはせてしまいました。

権力者の"悪い噂"に触れないことが内輪のルールであり、嗜(たしな)みである―そんな雰囲気は、私がラジオを中心に活動していた1990年代初頭にはすでに相当蔓延(まんえん)していたように思います。

真実であろうがなかろうが、スポンサーや特定の芸能プロダクション、宗教団体......にとって都合の悪い話を、(実際に圧力があるケースも多かったでしょうが、それにしても)過剰なまでにメディアが自己検閲し、さりげなく封じ込めるメカニズムが存在していました。

"触れてはいけないトピック"をさらりと受け入れるのが大人のマナーだ、というムードが、当時の若い自分にとっては苦痛で仕方なかったのをよく覚えています。

しかし、このような構造はメディア業界だけでなく、日本社会のあちこちに存在しているのではないでしょうか。

公平を期すために申し上げれば、これは日本固有の問題ではありません。

例えば、かつてアメリカでは石油会社やたばこ会社が"メディアタブー"でしたし、2002年製作のドキュメンタリー映画『デブラ・ウィンガーを探して』で多くのハリウッド女優が業界の女性蔑視・性加害事情を明かしていたにもかかわらず、そこからワインスタイン・スキャンダルの噴出までには約15年もかかっています。

しかし、それでも日本の「言わずもがな」をよしとする体質、業界内ルールを人権や法よりも優先する体質、そして外圧でしか変われない現状維持体質はあまりにも極端だと言わざるをえません(ジャニーズ問題も火つけ役は英BBCでした)。

相当大ざっぱな表現になりますが、日本社会の現状は、プーチンのロシアと「#MeToo」全盛の米欧の中間地点、6対4でやや米欧寄り......といったところかもしれません。

最後にあえて損得の面から申し上げれば、多くの悪事はデジタルタトゥーとなってどこまでも追跡される時代になりました。

沈黙に加担すること、権力者や実力者の横暴に見て見ぬふりをすることは、もはやメリットよりもリスクのほうがはるかに大きい。そのことはあらためて強調しておいてもいいでしょう。

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