モーリー・ロバートソン「挑発的ニッポン革命計画」 『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、政治へのあきらめが広がる日本社会と、トランプ運動で分断されているアメリカ社会との比較を通じて「日本の明日」を考える。

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自民党の政治資金不正疑惑について、多くの人は怒っている。けれど、同時に「政治が良くなることはない」という冷めた諦念が広がっていることも事実でしょう。トランプ運動がまたも熱を帯びているアメリカと比較すると、それぞれの社会の特異性がより明らかになる――日本で長く暮らすアメリカ出身者として、そんな実感を新たにしています(どちらがいい、悪いという話ではなく)。

大前提として、社会の分断を加速させ、民主主義そのものを否定するかのようなトランプ運動に私は極めて批判的です。ただ、そこには(事実認識が間違っているとしても)「壊れたアメリカを自分たちが立て直す」という確かな熱が存在します。

その背景を考察してみると、アメリカでは建国以来、常に意見や立場の異なる人間たちが社会に参画し、議論を重ね、折り合いをつけてきたという歴史の積み重ねが大きいのだと思います。宗教、人種、価値観......たびたび排斥運動は起こるけれども、議論により社会をかき混ぜ、それを力にして発展してきた。そんな社会では、常に自らの考えや立場を意識して他者とコミュニケーションしなければ、自分や家族、コミュニティを守ることはできません。

つまるところ、アメリカは「受け身であることになんのインセンティブも働かない」社会です。昨今のトランプ支持者の暴走は、そんな強固な個人主義、そして直接民主主義的な思考がむき出しになった"症状"であるともいえるでしょう。

一方で日本の社会は、組織やルール・慣習が尊重され、個人の頑張りや遠慮・我慢で全体が最適化されている面があります。隅々までインフラが整い、電車は決まった時間に来る。マスクをしろと言われたら多くの人が着ける。能登半島地震でも、難しい地理的条件の中であれだけのインフラ復旧が進んだのは、紛れもなくそのおかげだと思います。

しかしその強さ、世界最高水準の安全・安心が行き渡った心地良い環境は、変化に対する消極性、個人主義の脆弱さとのトレードオフなのかもしれません。インフラや治安の安定性がなかなか上向かないアメリカとはまさに対照的な状態です。

さて、問題はここからです。日本の強さは人口増、経済の自動的な成長など、「自発的な変化の必要がない」状況下でのみ成立する"ボーナス"だったのではないかというのが私の仮説です。現在のように、新たな潮流に適応しなければ右肩下がりになる局面では、現状維持への固執がリスクになってしまう。

アメリカのような社会はまったく理想ではないけれども、日本には、深刻な事案に対する問題意識や憤りをも一時の"祭り"として消費してしまい、その後は忘れるという「禊」のサイクルが定着しているようです。しかし、いま本当に必要なのは根底から変わるための熱です。

じゃあどうすればいいか、という話はもちろん簡単ではありませんが、本当に熱を持ってやろうと思えば、できることは少なくありません。

例えば小学校教育にディベートを導入し、自分と他者を相対的にとらえつつ対立軸を認識する経験を積む。企業の仕事の流れにもディベートを持ち込む文化を醸成し、一定の"下剋上"を許容する。ジェンダーパリティ(社会における男女公正を示す統計的尺度)を重視し、官民で実行する。家族制度の柔軟な再編、多様化を真剣に検討する。移民として外国人を受け入れることを、社会全体でより明示的に議論する......。

要するに、自分と人は違うということを前提に、折り合いをつけつつ社会を作っていくことを多くの人が自覚すべき時代になったのではないか。私はそう考えています。

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