モーリー・ロバートソン「挑発的ニッポン革命計画」 『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、社会への問題意識に燃える若者との邂逅から「どう生きるか問題」を考察する。

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先日、「正しさ」に忠実に生きようとしている若い方とお話をする機会がありました。合理的無関心や冷笑的な保守派・右派の広がりが見える今の日本社会において、社会のあらゆる不条理から目を背けたくないという真っすぐな当事者意識を持つ人は少数派です。まずはその点に感銘を受けました。

特に女性差別、LGBT差別、外国人差別といった人権意識に関して、時に歴史修正を絡めてあざけ笑うような一部右派ポピュリズムの主張は、すでに末期症状に達している。それはまぎれもない事実ですから、まるで問題が存在しないかのように振る舞う人々の嘘や鈍感に惑わされる必要はありません。

ただ、少し気になったのは、口から出る言葉の「角度」です。自分たちは正しいが、大人たちはそれを見ようともしない、だから罰せられても仕方ない――。こういった発想は、環境にせよ、人権にせよ、格差にせよ、現在われわれが直面している問題には明解な「解決策」があるということが大前提になっています。

現実社会は矛盾の塊であり、いつの時代もそれを支えているのは"善良な人々"です(社会を変えたいと願う人にとっては"忌まわしい存在"かもしれませんが)。

「正しいか、正しくないか」というアルゴリズム的な発想で、今ある日常を批判し続けるだけで変化を促すことは難しいし、やがて自分たちがその人たちにとって"忌まわしいやつら"になってしまうリスクもある。それは先人たちの例を振り返っても明らかです。

自由で失うものがないという最大の特権を持つ若い人たちが、バイナリー(二者択一的)な枠にはまった"ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー"になって年月を費やすのはもったいない。

1970年代にドイツのロックバンド、CANのボーカリストとして活動したことでも知られるダモ鈴木さんは、世界を転々としながら自由奔放に生き、先日74年の人生に幕を下ろされました。彼のように生まれた国、社会の定常からはみ出し続ける人生は、おいそれとまねできるようなものではないかもしれません。

しかし、物理的に国外に行くかどうかにかかわらず、仕事や家庭などが日々に定着しきった"生活者"となる前に、日常というものを成り立たせている"グリッド(格子)"から己のマインドがはみ出していく経験をすることの意味は小さくない。

責任や信頼、搾取や無関心、そして臆病さが格子のように組み合わさって維持されているこの社会の日常は、内側から見ている限りは「普通」でしかないからです。

冒険がリスクを伴うことは誰でも知っていますが、内側に閉じこもって"純粋培養"され続けることのリスク(あるいは、それによって失われるもの)に、多くの人は気づいていない。ストリート(=外側)に出てみると、必死で生きる人が必死さゆえに持たざるを得なかった醜さに直面することもあるでしょうし、「内側」を「内側」たらしめているシステムを、やり方次第でハッキングすることができることにも気づくでしょう。

ただその一方で、人に対して「自由に生きなさい」と言うことの矛盾もひしひしと感じます。自由にはどんなメリット・デメリットがあるのかを説明されないと「自由であること」について考えることができない人は、もはや永遠に「自由になれない発想」に縛られ切っている人なのではないだろうか?

「人生の助手席ではなく運転席に座る」という、あるイギリス人の演出家の言葉になぞらえるなら、自分は果たして本当にハンドルを握っているのか。それとも、実は運転手付きのクルマの助手席や後部座席からサファリパークを楽しんでいるだけなのか。そのことを、特に若い世代の人には考えてほしいと思います。

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