
モーリー・ロバートソンMorley Robertson
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数。最新刊は『日本、ヤバい。「いいね」と「コスパ」を捨てる新しい生き方のススメ』(文藝春秋)
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、自身が「学び直し」をしたことで得た気づきから、トランプ現象に代表される現代のポピュリズムに人間が対抗するための「武器」について考察する。
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私は43年前、ハーバード大学で数学の難関(微分・積分の概念を厳密に突き詰めていく内容でした)にぶち当たり、「逃亡」しました。そして今、当時諦めたその数学に再び向き合い、まるでタイムトラベルして過去をやり直すように、当時は理解できなかった論理の美しさや証明の面白さに気づいています。
それと同時に痛感したのは、「逃げた」という過去の経験に、知らず知らずのうちに自分自身が縛られ続けていたということです。
当時の私は「もっと自由な世界で生きたい」と、電子音楽やサイケデリックなカルチャーに傾倒しました。その中で多くの得難い体験をしたので後悔はありませんが、それでも「逃げた」という事実は心の奥底に亀裂として残り、それを放置したことで、ある種のコンプレックス、劣等感が染み込んでいたようです。
私はそのことに気づき、「トランプ現象」の断片を少し理解できた気がしました。過去に何かを諦めた、逃げた――そこから目をそらすために、他者や政治への「敵意」や「拒絶」がまるで吹き出物のように外部へ表出してしまう。それは決して特殊なことではないと思えたのです。
経済的な格差が学びの機会の格差に直結し、「二極化」が拡大しつつあることは現代社会の深刻な構造問題です。学びについていけなくなった多くの人々は、苦しい道から「逃げた」という記憶をぬぐえず、挫折感やコンプレックスを抱えやすくなっているかもしれません。
社会的分断の大きな要因でもあるこうした構造上のゆがみを、是正する必要があることは言うまでもありません。ただ、それを大前提とした上であえて申し上げるならば、個々人の人生を考えた場合、社会構造や時代背景はどうあれ「やるしかない」のもまた事実です。
私の実体験ベースの話になってしまいますが、過去に放棄した領域への再挑戦で得られるのは、知識やテクニックだけではありません。簡単には揺るがない自信、「他者に尊厳を踏みにじられているヒマなどない」という自尊心。さらに、未発見の可能性を掘り起こすきっかけも見つかるかもしれません。
ノーベル物理学賞受賞者でもある物理学者リチャード・ファインマンは、それまで長年積み上げられてきた難解な数式や理論に対し、直感的で創造的なアプローチでシンプルに解く方法を模索しました。そのハッキングのような手法がいかにスペシャルで、いかに本質的か。私は数学への再挑戦で初めてそれを実感し、数学分野に限らず、世界の見え方が変わった気がしています。
難しい知識や民主的な手続きを「非効率」と切り捨てる、学術的な視点や専門家の意見を敵視して単純明快な主張を支持する......。世界各地で猛威を振るうポピュリズムの背後には、「簡単に答えが出ないこと」は考えずに済ませたいという大衆の心理があります。イーロン・マスクの人気もその象徴でしょう。
恐れや不安を避け、楽な道を選びたいというのはごく当たり前の感情です。しかしその一方で、挫折や遠回りがあっても、何度でもやり直せるのが人間の人間たるゆえんです。その再構築の過程こそが、私たちが冷静に社会や政治を見るための足場となるのではないでしょうか。
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数。最新刊は『日本、ヤバい。「いいね」と「コスパ」を捨てる新しい生き方のススメ』(文藝春秋)