明るく優しい性格で巨人では投手陣のまとめ役となったのみならず、チームの裏方スタッフにも慕われていた明るく優しい性格で巨人では投手陣のまとめ役となったのみならず、チームの裏方スタッフにも慕われていた

優勝争いが佳境に入りポストシーズンに向かう秋は、引退や戦力外の話題が飛び交う季節でもある。厳しい競争社会を40代まで生き抜き、今季限りでの引退を表明した4人の超一流プレーヤーにまつわるとっておきの"秘"エピソードを糸井嘉男(いとい・よしお)編福留孝介(ふくどめ・こうすけ)編能見篤史(のうみ・あつし)編に続き、今回は内海哲也(うちうみ・てつや)編をお届けします!(全4回/第4回目)

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■36歳でプロテクト漏れ。内海がやり切ったこと

自身の引退登板の4日後の夜、内海哲也の元に一本の電話がかかってきた。相手は巨人の3年目左腕、井上温大。この夜、プロ4度目の先発登板で初勝利を挙げたことの報告だった。

「おめでとう。これからだな。頑張れよ」

かけた言葉はシンプルだったが、内海は自分のことのように喜んだ。昨オフ、自主トレに志願して参加してきた井上のことを、同じ左投手ということもあり、内海はとりわけかわいがっていた。

ほかにも連絡を取り合う巨人の選手はいる。西武に来てから4年たったとはいえ、プロ入りから15年間プレーし、エースと呼ばれて133勝を挙げたチームだ。

しかし一方で、心のどこかには「自分にとって巨人は〝出されたチーム〟だ」という思いも残っている。

18年のオフ。巨人が西武から炭谷銀仁朗(現楽天)をFAで獲得する際、人的補償として内海が移籍することになった。28人のプロテクト枠から、「元」がつくとはいえ多くの貢献をしてきたエースが外された。

移籍の通告を受けたとき、内海は36歳。心が折れても無理はない年齢で、ショックがないわけではなかった。だが同時に、発奮もした。

「もし本当にチームに必要な存在だったら残すはず。それ(プロテクト)を外したということは、結局は必要ないとうことじゃないか」

球団の真意はわからない。しかし生来の負けず嫌いな内海はそう思うことで、前を向こうと決めた。朝5時には家を出て、クルマで片道2時間かけて埼玉・所沢の2軍グラウンドに通う。

誰よりも早く来ていること、そして誰よりも練習を積むこと。自己満足かもしれないが、そうしたノルマを自らに課すことで、年齢からくる衰えに打ち勝ちたいと思った。そんな生活を今季まで4年間続けた。

それでも1軍のマウンドは遠く、2軍暮らしは長かった。

「いつクビになっても仕方ない」

そう思いながら3年が過ぎ、4年目には兼任コーチの肩書までついた。「コーチなんて性に合わない」と思っていたが、グラウンドでは投手として若手に交じり、一緒に汗を流すなかで手本を示せればいいと思った。

朝5時に家を出て。

その姿勢は、西武の若い投手たちに大切なものを伝えた。野球人生は長くない。悔いなくやり切ったと思えるように毎日を送ってほしい。1年を大事に、1試合を大事に。それは究極、練習のキャッチボールから大事にやること。

「今後の進路はどうするのか」「できれば西武でコーチをしてほしい」

引退発表後、内海の元には西武の若い投手たちからも、そんな電話がかかってくるという。

●内海哲也(うちうみ・てつや) 
1982年生まれ、京都府出身。東京ガスから2003年ドラフト自由獲得枠で巨人入団。3年目に主戦投手となり、11、12年には2年連続最多勝。18年オフ、炭谷銀仁朗のFA獲得に伴う人的補償で西武へ。今年5月には通算2000投球回を達成