連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第10話
今年のノーベル賞の皮切りは、新型コロナワクチン開発に大きな貢献をしたふたりの研究者だった。この受賞から見えてくる、科学における「基礎研究」の重要性とは?
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■「ノーベルウィーク」
毎年恒例、10月の第1週は「ノーベルウィーク」である。2023年10月2日の月曜日、例年どおり、生理学・医学賞が先陣を切って発表された。受賞者は、アメリカ・ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ教授とドリュー・ワイスマン教授のふたり。
その受賞理由は、英語原文が「their discoveries concerning nucleoside base modifications that enabled the development of effective (messenger) RNA vaccines against COVID-19」。
直訳すると「COVID-19に対する効果的な(メッセンジャー)RNAワクチンの開発を可能にしたヌクレオシド塩基修飾に関する発見」となる。つまり平たく言えば、大手既成メディアから報道されている通り、「新型コロナワクチンの開発につながる研究」が受賞対象となった、ということになる。
「新型コロナワクチン、あるいはメッセンジャーRNAワクチンの開発がノーベル賞の対象になるだろう」ということは、新型コロナワクチンの接種が始まり、その著効性が明らかになった2021年初頭からよく耳にしていたので、今回の受賞は、私個人としては特に驚くものではなかった。
むしろ、2021年にすぐに受賞となるかと思われたがそうはならず。結果、世界保健機関(WHO)が、新型コロナウイルスの「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」の終了を今年5月8日に宣言し、新型コロナパンデミックが「事実上」終わりを迎えたことを受けたタイミングでの受賞になったと思われる。
つまり、「パンデミックの終焉を可能にしたワクチンの開発の元となる技術の発見」に対してノーベル賞が授与された、と噛み砕くことができる。
■なぜモデルナやビオンテックではないのか?
「『新型コロナワクチンの開発』が受賞理由なのであれば、なぜモデルナやビオンテックではないのか? メッセンジャーRNAワクチンを開発したのはこの2社なのに?」と思われる方もいるかもしれない(余談だが、「ファイザー・ビオンテックのメッセンジャーRNAワクチンを開発したのはビオンテックであり、ファイザーはその技術を「買い上げた」にすぎない」)。
ノーベル賞の対象になる研究のミソはここにあって、「(開発の)元になる技術の創出につながる発見」が対象となる。つまり、新型コロナワクチンの「開発そのもの」ではなく、その「シーズ(種)」となる発見が評価対象となる。
そしてそのような研究は、「最初から開発や実用化のゴールが見えるもの」である場合よりも、「それが何の役に立つんですか?」と揶揄されがちな、基礎研究である場合の方が多い。
今回のカリコ、ワイスマン両氏の研究はそのわかりやすい一例であるともいえる。当時、メッセンジャーRNAを大量に細胞に入れると、細胞がそれを「異物」と認識し、炎症反応が誘導されてしまっていた。
彼らは、メッセンジャーRNAの一部を「シュードウリジン」という人工物に変えることで、それが「異物」と認識されづらくなり、炎症反応が誘導されなくなることを明らかにしたのである。コレが、今年のノーベル賞の受賞対象となった研究成果である。
これだけを切り取ると、「それが何の役に立つんですか?」と思うかもしれない。しかしこの発見によって、「細胞に安定してメッセンジャーRNAを導入する」という技術が開発されたのである。
つまり、この発見がなければ、「メッセンジャーRNAワクチン」という技術はそもそも開発できなかったと言っても過言ではない。
さらに余談ついでに紹介をすると、日本人も実は、メッセンジャーRNAワクチンの開発に大きく貢献している。古市泰宏(ふるいち・やすひろ)氏と、ヤマサ醤油である。
古市氏は、メッセンジャーRNAワクチンに必要な「キャップ構造」を発見した研究者である(ここでは詳細は割愛するが、ネットで調べれば詳しい記事がすぐに出てきます)。カリコ、ワイスマン両氏の「シュードウリジン」の発見同様、古市氏の「キャップ構造」の発見がなければ、「メッセンジャーRNAワクチン」という技術は開発できなかった。
古市氏は昨年逝去しており、ノーベル賞は存命の人だけが受賞の対象となる。そのため、残念ながら受賞とはならなかったが、上記の文脈から、古市氏の功績が、ノーベル賞と比肩する輝かしいものであることに異論はないと思う。
そしてヤマサ醤油は、1980年代から「シュードウリジン」を研究用に生産・販売していた。2020年末、新型コロナに対するメッセンジャーRNAワクチンの使用がイギリスで緊急承認された。
しかし、それが承認されても、大量に作るための材料がなければ、そもそもワクチンを作ることができない。ヤマサ醤油は、そのような事態を避けるために、それが承認される前から、「シュードウリジン」の増産体制をあらかじめ整えていたのである。
このように、研究にはいろいろなエピソードが絡み合っているのである。日本人が受賞するかしないか、という上っ面の浅はかなことだけではなくて、その受賞の背景にあるエピソードを紐解いていくことも、ノーベルウィークの醍醐味のように思う。そうすることによって、「縁の下の力持ち」としての日本人の貢献も見えてくることがある。
新型コロナに対するメッセンジャーRNAワクチンは、全世界ですでに130億回以上の接種が行なわれたといわれる。また、このワクチンの使用によって、2000万人以上の命が救われたという推定結果も公表されている。
このワクチンについてはその安全性を懸念する声が今も後を絶たないが、ノーベル賞の受賞はこの議論のひとつの終止符であり、人類を救った素晴らしい功績として認められたと言うことができるのではないだろうか。
■基礎研究とそれに従事する若手研究者
基礎研究の重要性については、近年ノーベル生理学・医学賞を受賞された山中伸弥先生(2012年)、大村智先生(2015年)、大隅良典先生(2016年)、本庶佑先生(2018年)らが、受賞した際に口を揃えてそれを必ず強調されている。
それが大手既成メディアの誌面やブラウン管を賑わせるまでが、日本人科学者がノーベル賞を受賞するひとつの風物詩のようになっているが、それは残念ながら本当に「風物詩」に過ぎず、体制としては一向に改善が見られる気配はない。
その中でも、私自身が最近特に肌感覚で感じるのは、基礎研究の重要性の「理解の枯渇」に加えて、基礎研究に従事する「(若手)研究者の枯渇」である。基礎研究に積極的に従事できる若い研究者が増えないと、そして彼らが楽しくのびのびと研究できる環境を整えないと、つまりなにかしらの「テコ入れ」をしないと、日本の科学がこのままずるずると衰退の一途を辿ってしまうことはもう明白な状況にある。
そして、基礎研究への「理解の枯渇」も、まだ大きな問題のひとつとしてどっしりと鎮座している。たとえば、われわれG2P-Japanの研究活動も、「あんなのはサイエンスじゃない、ちゃんと科学的に意義のある研究をしろ」と「指導」されたりすることがままある。
これはおそらく、この連載コラムの第6話の喩えでいう「週刊誌じゃなく小説を書け」という意味合いだと思うが、こういう(私から見たら)狭窄した視野からくる「指導」という名のクレームは、正直ちょっと胸につかえるものがある。
また別のところからは、「もっと実用化につながる研究をしてほしい」という「要望」を受けたりもする。今年の受賞研究からも、実用化のゴールが見えることだけが重要ではないことは明らかだと思うのだが......。
われわれG2P-Japanは、新型コロナ変異株の研究を通して、日本の基礎研究を活性化し、その底上げのために頑張っているつもりである。しかし、それがこのような形で評価されないシーンに直面するにつれ、それじゃあいったい何をすればいいのか、と頭をもたげてしまうこともままある。
賛否両論あるかもしれないが、「アカデミア(大学業界)」こそが科学の一丁目一番地である。私は、そこをもっと活き活きとした場所にすることこそが、日本の科学を救う唯一の道であると考えている。そしてG2P-Japanの活動が、その一助となることを信じている。
●佐藤 佳(さとう・けい)
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。
公式X(旧Twitter)【@SystemsVirology】