2015年、ミネアポリスにて。ルーベン・ハリス教授に促されて、生まれて初めてのカーリングに興じる筆者
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第61話
G2P-Japanのコアメンバー、熊本大学のⅠを介して共同研究をする機会を得た、ミネソタ大学のルーベン・ハリス教授は、筆者のロールモデルのひとつにもなっている。彼との交流を通して、「世界と対等にやりあえる研究をする」という具体的なイメージが芽生えはじめた。
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■カリフォルニア州、パームスプリングス
エクアドルのキトから、アメリカ・カリフォルニア州のパームスプリングスというところに向かう。東京からキトに向かう便も深夜便だったが(58話)、キトを発つ便もやはり深夜便であった。キト、ヒューストン、サンフランシスコ、パームスプリングス。それぞれの飛行時間は大した長さではないが、3度の乗り継ぎを含め、トータル約20時間の長旅である。
カリフォルニアに来るのはなんと16年ぶりで、2007年に初めての海外出張でロサンゼルスを訪れて以来の訪問である(52話)。海外にはいろいろ出かけるようになったのに、アメリカもいろいろな都市を訪れていたのに、なぜかカリフォルニアに来る機会には恵まれなかった。
パームスプリングスへは、エイズウイルスに関する研究集会に参加するために訪問した。エイズウイルスの研究集会といえば、ニューヨーク州のコールドスプリングハーバー研究所で毎年5月開催されるものについて、この連載コラムでも紹介している(53話)。
パームスプリングスで開催されるこの研究集会も、毎年この時期に開催されているものだが、筆者が参加するのは今回が初めてである。ちなみに余談だが、54話で紹介した、エイズ根治に成功した世界初の患者である「ベルリン患者」ことティモシー・ブラウン(Timothy Brown)は、この地で闘病し、最期を遂げている(*)。
この研究集会には、私だけではなく、G2P-Japanのコアメンバーである熊本大学のⅠと、宮崎大学のSも参加していた。奇しくもこの年(2023年)の6月に欧州ツアー(40話)を組んだときと同じ顔が、パームスプリングスに揃うこととなった。
■マンハッタンでの過ごし方
コールドスプリングハーバーの研究集会で感じた「日本からいかに世界とたたかうか?」という気概については、この連載コラムでも触れたことがある(53話)。
G2P-Japanのコアメンバーであり、その中でも私といちばん付き合いの古い熊本大学のⅠとは、昔から折々にそんな話をしていた。熊本大学に着任する前、Ⅰはアメリカ・ミネソタ州のミネアポリスにあるミネソタ大学にポスドク(博士研究員)として留学していた。当時の私にとって、コールドスプリングハーバーの研究集会に参加し、その後にIが在籍するミネソタ大学に訪問する、というところまでが、毎年5月の海外出張の定番コースとなっていた。
まずはマンハッタンでⅠと合流し、グランド・セントラル駅併設のハイアットホテルにチェックイン(相部屋)。メジャーリーグをテレビ観戦し、それに飽きたらウルフギャング・ステーキハウスかベンジャミン・ステーキハウスでステーキを食べる、という、年に一度の贅沢な夜を過ごす。
翌朝は、ホテル近くの「Grumpy」というカフェでアイスラテを飲み、グランド・セントラル駅から地下鉄と電車を乗り継いでコールドスプリングハーバーに向かう。研究集会が終わった後は、半日だけマンハッタンで過ごし、翌日の便でミネアポリスに向かう。Ⅰがミネアポリスに留学中の5月は、だいたいこんなサイクルが定番になっていた。
■ミネアポリスで学んだこと
この連載コラムでも何度か触れたことがあると思うが、私はいわゆる「海外留学」をしていない。海外志向がなかった訳ではない。それはむしろ常人のそれよりも勝っていたようにも思うが、いろいろなタイミングの妙で、海外に留学をしないまま現在に至っている。
どのようにしてそのギャップを埋めようと試みたかについてもこのコラムで触れているが(53話)、このミネアポリス訪問もそういう、ギャップを埋めるための試みの一環だった。
Ⅰの留学先のボスであるミネソタ大学のルーベン・ハリス(Reuben Harris)教授は、日本人の性格を理解した、面倒見のいい、かつストイックな男だった。Ⅰを介して私は、ルーベンと共同研究を進める機会を得ることができた。しかしあるとき、Ⅰと私の仲が良いことを察すると彼は、研究打ち合わせのために、コールドスプリングハーバーの後にミネアポリスに訪問することを私に勧めてきた。
そしてミネソタ大学に着くと、彼は研究打ち合わせはそっちのけに、コールドスプリングハーバーの研究集会の「聴講報告」をするよう私に促してきた(というか、強制してきた)のである。「聴講報告」とは通常、そのラボに所属するメンバーが、参加した研究集会の中で興味深かった研究内容を、参加しなかった他のラボメンバーに紹介するためにするものである。
それを、「よう、ケイ、俺のラボに来たんなら、お前もコールドスプリングハーバーの聴講報告をしろよ」と、ニヤニヤしながら半ば無茶振りをしかけてきたのである。
ほぼ初対面の面々の前で、英語での発表の無茶振り、である。まったく想定も準備もしていなかったので、慌てて紹介する内容をまとめてわたわたとプレゼンをする。ルーベンはそこで四苦八苦する私の姿を見て面白がっていたのは間違いないが(基本的にサディスティックな男である)、そこには私に対する教育的意識もあったように感じている。
ルーベンから学んだことは多い。私は彼のラボに所属する立場ではなかったものの、いろいろな場面で示唆を与えてくれた。いち共同研究者としてフランクに接してくれることもあれば、教育的指導もあったり、ミネアポリスの自宅に、Ⅰと一緒に私を招いてくれたこともあった。
来日した際には、私が当時在籍していた京都大学のラボに足を運んでくれたりもした。いま思い返せば、留学経験のない私にとって、彼は私のPI(研究室主宰者)のロールモデルのひとつになっていると思う。
■世界と「たたかう」姿勢
繰り返しになるが、私は海外留学を経験していない。それでも私は、熊本大学のⅠとのやりとりや、ルーベンからの教育的指導、コールドスプリングハーバーでの研究集会への参加(53話)などを通して、日本にいながらも「世界と対等にやりあえる研究をする」という意識を保ち続けることができた。そのような意識が、現在の私を形作るひとつの大きな要素になっている。
G2P-Japanとして世界と互角以上に「たたかう」ことができているのは、それまでのエイズウイルスの研究で培った学術的な基礎体力と筋力があったこと、そして、「世界とたたかう」という意志を共有できる仲間たちがいたからにほかならない。
この連載コラムでも少し触れたことがあるが(10話)、G2P-Japanの活動には、なぜかいろいろとケチがつけられることがままある。しかし自分で言うのもなんだが、日本発で、ゼロベースで、ボトムアップで、基礎研究の文脈で、ここまで世界と「たたかえる」体制を作ることができたこと。それくらいは素直に評価してほしいなあ、と思ったりもする。
※後編はこちらから
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