2022年7月に発出されたエムポックスウイルスの緊急事態宣言(PHEIC)は解除されたが、2024年には別のタイプのエムポックスウイルスが流行し、コンゴ民主共和国を中心とした中央アフリカの国々で急拡大。再びPHEICが発出された 2022年7月に発出されたエムポックスウイルスの緊急事態宣言(PHEIC)は解除されたが、2024年には別のタイプのエムポックスウイルスが流行し、コンゴ民主共和国を中心とした中央アフリカの国々で急拡大。再びPHEICが発出された

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第93話

ついに日本国内でもエムポックスウイルスの感染者が確認されるが、肝心のウイルスそのものはなかなか手に入らない......。その後のウイルス入手までの裏側と、そこから見えてきた「100日ミッション」というハードルの高さについての率直な思いをつづる。

※前編はこちらから

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■ウイルスが手に入らない!

「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」の発出からまもなくの2022年7月25日。日本で初めて、エムポックスウイルスの感染者が確認される。その報を受けて、いろいろなところに、ウイルスの分与依頼をかける。しかしなぜか、どこにコンタクトしても、芳しい回答が返ってこない。

8月13日。国内での動向のみならず、先月に依頼をかけていた「European Virus Archive(EVAg)」からもなぜかまったく音沙汰がない。進捗がないので、EVAgに、メールで催促の連絡を試みる。

8月16日。EVAgから、「Please note that due to the holiday season in Europe, their answer might be longer than usual.(筆者対訳:ヨーロッパはホリデーシーズンなので、通常より回答が遅くなるかもです。)」という形式的な回答が届く。

この頃になると、日本でも複数の感染例が、大手既成メディアからも報道されるようになっていた。

そんな中の8月27日。東京・新宿の東京都健康安全研究センター(健安研)が、日本での感染例から、エムポックスウイルスの分離と、研究機関各所へのウイルスの分与準備を進めている、という情報を入手。幸いにして、これまでの新型コロナ研究を通して、健安研とはすでに密な連絡体制が整っていた(25話も参照)。

8月29日。健安研へ、エムポックスウイルスの分与を依頼する手続きを開始。

9月2日。健安研から、検体提供のための具体的な連絡を受ける。これによってウイルス入手の目処が立ったため、EVAgへの分与依頼はキャンセルすることにした。

そして10月7日、アウトブレイクを起こしているエムポックスウイルスが、ついに私のラボに到着した。

■G2P-Japanの「エムポックスプロジェクト」研究活動

6月20日に私のラボで「エムポックスプロジェクト」が緊急発進して以来、G2P-Japanのいくつかのメンバーの中で、もしウイルスが入手できたら「何をすべきか?」「どうやるべきか?」という議論はすでに進められていた。しかしメンバーの中に、エムポックスウイルスの専門家はいない。

それでもなんとかしようとするのがG2P-Japanである。ここでこのプロジェクトの船頭となったのは、東京科学大学のT(当時は京都大学に所属していた)。彼が得意とする「オルガノイド」と呼ばれる特殊な培養系を、エムポックスウイルスのプロジェクトに活用しよう、ということになったのである。

とはいえ、中編で解説したように、当時、G2P-Japanの中で、エムポックスウイルスの所持の許可を得ているのは、東京にある私のラボのみであった。しかし、実験に使うためのTの「オルガノイド」の実験システムは京都にある。新型コロナのときのように、ウイルスをコンソーシアムメンバーで自由に共有する、ということが、「三種病原体」であるエムポックスウイルスの場合には(法的に)できないのである。

そこで逆転の発想。ウイルスを京都に運ぶのではなく、実験に使うための「オルガノイド」を、Tおよび彼のラボメンバーが、東京の私のラボに持ち込んで、私のラボで感染実験をしよう、ということになった。「オルガノイド」とは、とてもデリケートな培養システムである。彼らは、京都大学のTのラボから京都駅までタクシーで、京都駅から品川駅まで新幹線「のぞみ」で、そして、品川駅から私のラボまでタクシーで、細心の注意を払い続け、それを運んだ。

それを受け取った私のラボのメンバーが、専用の実験施設で感染実験を実施。京都大学のTが中心となって結果をまとめ、研究成果は2023年5月に無事、論文として発表された。私が知るかぎり、アウトブレイクを起こしたエムポックスウイルスについての、日本初の基礎ウイルス学の研究成果ではないかと思う。そしてそれは同時に、G2P-Japanによる、新型コロナウイルス以外のウイルスを対象とした初めての研究成果でもあった。これによって、われわれG2P-Japanは、「新型コロナ以外の研究にもチャレンジできる!」という手応えを得た。

■「100日ミッション」との答え合わせ

――最後に、今回のコラムのそもそもの発端でもある、前編で紹介した、「100日ミッション」との答え合わせである。

ここでおさらいをすると、「100日ミッション」とは、「世界保健機関(WHO)がPHEICを発出してから100日以内にワクチンを実用化する」、ということを目指した提言である。これに、私たちのエムポックスウイルスの経験を照らし合わせてみよう。

エムポックスウイルスの「入手」に成功したのが、2022年10月7日。そこから遡って、その入手手続きを開始したのが、PHEIC発出前の、同年の6月20日である。計算すると、「(ウイルスを)入手しよう」と思ってから「(ウイルスを実際に)入手する」まで、109日を要している。

――それでは、「100日ミッション」が目標としている、「『WHOによるPHEICの発出』から『(ウイルスを実際に)入手する』まで」はどうだっただろうか?

エムポックスウイルスのPHEIC発出は、2022年7月23日。計算すると、PHEICの発出からウイルスの入手までに、すでに76日を要している。

もちろん、私たちの研究の主たる目的はワクチン開発ではなかったので、一概に直接比較できるケースではない。しかし、仮に私たちがワクチンの候補を先に作っていたとして、ウイルスの入手から、そのワクチンの候補の評価までに24日しか残されていなかったとしたら、それを評価して、実用化することが果たして可能であったであろうか?

繰り返すが、これはあくまで、私たちのケーススタディーである。しかし、極東での一例ではあれど、こうやって実際の日数と照らし合わせてみると、G7サミット(主要国首脳会議)が掲げる目標のハードルがいかに高いものなのかが見えてくるのではないかな、とも思う。

■2度目のPHEIC

なお、今回のコラムで取りあげた、2022年7月に発出されたエムポックスのPHEICは、翌2023年の5月8日に解除された。しかし2024年、また別のタイプのエムポックスウイルスの流行が、コンゴ民主共和国を中心とした中央アフリカの国々で急拡大。これを受けて、2024年8月14日、2度目のエムポックスのPHEICが発出された。このPHEICは、このコラムを書いている2025年2月現在も継続中である。つまり現在は、「エムポックスの緊急事態宣言下」にある。

この2024年に流行拡大したエムポックスウイルス株は、2022年に流行した株に比べて致死性が高いといわれている。幸いにして、日本国内での感染例はまだ報告されていないが、スウェーデンやタイ、アメリカでの感染例がすでに報告されており、脱アフリカがはじまっている。

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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