こんな「ばえる」空間で仕事ができることもたまにはある。2023年6月、オランダ・ロッテルダムにて。 こんな「ばえる」空間で仕事ができることもたまにはある。2023年6月、オランダ・ロッテルダムにて。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第18話

これまで、いち早く変異株の特性を次々と明らかにしてきたG2P-Japan。ただ、なぜそんなに急ぐ必要があるのか? また活動の原動力となったものは何か?

前編はこちらから

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■なぜそんなに急ぐ必要があるのか?

「中編」で紹介したように、G2P-Japanのいちばんのスクランブルプロジェクトは、2021年11月25日に立ち上がり、12月25日に論文を学術誌『ネイチャー』に投稿。翌2022年1月26日に論文が採択され、2月1日にそれが『ネイチャー』のウェブサイトに掲載されることで完了した。およそ2ヵ月の早業であった。

このエピソードを講演などで紹介すると、「なぜそんなに急ぐ必要があるんですか?」と訊かれることがままある。その理由であるが、まずはなにより、「科学・研究は競争だから」というのがそのひとつめである。一般的に、基礎研究の成果というものは、「最初に公表した人」のみが評価される。つまり、誰かに先を越されてしまうと、それまでの努力が水の泡になってしまう、ということを意味する。

新型コロナ研究の場合、その社会的需要の高さから、「同着一位が複数」ということはよくあった。しかし、先行グループから周回遅れだったりすると、その評価は一気に急落してしまう。つまり、そのトピックの需要が高いうちに、つまり、「旬」のうちに論文化する必要がある。

しかし、新型コロナの変異株についての研究を急ぐ理由は、そのようなアカデミックな理由だけではない。たとえば、新しく出現した変異株の特性が、ワクチン施策や医療に影響する可能性がある。

事実、2021年末当時は、「メッセンジャーRNAワクチンは2回接種でOK」という状況だった。しかしオミクロン株には、ワクチン2回接種で獲得された中和抗体がまったく効かず、ワクチンを3回接種した人の中和抗体は効いた。この事実が判明したことによって、3回目のワクチン接種が性急に進められた、という経緯もある。

また当時は、「ロナプリープ」という抗体カクテル療法が、新型コロナの治療として採用されていた。しかし、われわれを含めた迅速な研究によって、オミクロン株には「ロナプリープ」がまったく効かないこともわかった。つまりこれは、オミクロン株が流行している状況で、この治療法を使ってもまったく効果がない、ということを意味する。

そしてなにより、新たに出現した未知の変異株の性質をできるだけ早く明らかにすることで、一般社会に募る不安感をできるだけ早く払拭したい、それに資する科学的知見をできるだけ早く提供・公表したい、という思いがあった。

この使命感のようなものが、私だけではなく、G2P-Japan全体の活動の原動力のひとつとなっていたのは間違いない。

■これからの「カンヅメ」スタイル

定宿に「カンヅメ」をして、チェーンスモーキングしながら文章をしたためる。そんな昭和の文筆家のイメージに憧れて「カンヅメ」を始めたところもなくはないが、G2P-Japanのスクランブル論文、「中編」で紹介したオミクロン株のふたつの論文は、平時のテンションでは絶対に書き上げることはできなかった。

ある種の躁状態になって勢いで書き切らないといけないので、ロックミュージックをがんがんに鳴らしながら、タバコを吸いながら、基本的に徹夜でひたすらMacBookとにらめっこ。当時の私が見つけた、スクランブル論文の完成に向けての最適解、その唯一の解答は、このようなやり方だった。

そういうわけで、タバコと論文執筆は、私にとって切っても切れない関係にあったわけだが、昨年の9月にすっぱりとタバコをやめた。それ以来、新しい論文執筆のスタイルを模索している状態にある。

もともと裸眼で両目とも1.5あるくらいの視力が仇となって、最近は老眼がはじまりつつあるのだが、論文を書くときに、初めて作った老眼鏡をかけてみたりはずしてみたり、いろいろ模索しているが、しっくりくる新しい執筆スタイルはまだ確立できていない。

■音楽と記憶のつながり

「中編」で紹介したようなオミクロンスクランブルのときは本当に無我夢中で、普段の記憶もないくらいだったが、それ以外のG2P-Japanの活動、特に初期のそれは、当時聴いていた音楽と記憶が強く結びついている。

たとえば、2020年末の紅白歌合戦で初めて聴いたこともあって、2021年の始めは、通勤時によくYOASOBIを聴いていた。それもあって、「夜に駆ける」や「群青」を耳にすると、2021年1月にG2P-Japanを立ち上げたばかりの、最初のプロジェクトの頃のこと(第6話参照)が想起される。

また、2021年夏に日本の第5波の原因となったデルタ株の論文を書いていた頃には、もっぱら斉藤和義の「攻めていこーぜ!」を聴いて自らを鼓舞していた。ちなみにこのデルタ株の論文は、G2P-Japanが初めて学術雑誌『ネイチャー』に発表した論文となった。

「ホテルにカンヅメをして執筆」、というある種の私的な夢は、奇しくもG2P-Japanのスクランブル論文のおかげで叶うこととなった。しかしできることなら、そんな極限状態で安いビジネスホテルに篭るのではなく、東京・御茶ノ水にある、文豪に愛された「山の上ホテル」を定宿にして、文化人のような執筆活動をしてみたい。もちろんこの夢はまだ叶っていないが、いつの日か......。

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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