1983年のHIVの発見以降、世界中の研究者が競って研究し、協力することで、エイズの治療法の確立にこぎつけた1983年のHIVの発見以降、世界中の研究者が競って研究し、協力することで、エイズの治療法の確立にこぎつけた

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第24話

エイズの原因ウイルスであるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の発見から40年。その後、世界中の研究者の尽力によって治療法が確立され、いまでは発見当時のようなおそろしい病気ではなくなっている。その経緯を振り返る。

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■1983年

1983年。これは、エイズの原因ウイルスとして、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)が見つかった年である。つまり、今年はちょうど、HIVが見つかってから40年の節目にあたる。

このウイルスが見つかった当時、ウイルス研究に従事していた人たちは、その発見から現在に至るまでの経緯を「プロスペクティブ(前向き)」に知っている。しかし、私は当時1歳だったので、当然そのときの世相や空気感などは知らない。

HIVの発見に端を発する全世界のエイズ研究の始まりと歴史については、大学院に進学してから、文献を読んだり、東京・神保町の古本屋で歴史書のような本を漁ったり、当事者の話を聞いたり、映画を観たり、そのルーツ(文脈)を辿ることで、自分なりのエピソード、ストーリーを持っている。

つまり、過去に起きた事実を自分なりに調べることで、現在に至るまでの発見から経緯を「レトロスペクティブ(後ろ向き)」に紐解いていった。これはミステリーの謎解きのような、探偵にも通じる行為のように思う。

「ルーツ(文脈)を辿ることの大切さ」はちょうど前回のコラム(第23話)で紹介したところであるが、自分なりのビジョンや独自の世界観を作り上げるためには、その自分の興味のルーツを辿る、掘り下げる、という試みが大切になってくると思うし、それ自体はとても心躍るものであると思う。

逆に言えば、「そのルーツを辿りたい!」という気持ちが湧かないものであれば、その程度のことなのだとも言えるのかもしれない。

■死の病、エイズ

閑話休題。エイズ(当時はもちろんまだ病名はなかった)の最初の症例が報告されたのは1981年。それから、世界中、特にアメリカとフランスで、その原因となる病原体の探索が精力的に進められた。

これは「レトロスペクティブ(後ろ向き)」に私が紐解いて理解した史実であるが、1983年当時、エイズはまさに「死の病」だった。新型コロナウイルスやインフルエンザウイルスは、感染しても自然に治る場合がほとんどである。もし重症化してしまったとしても、治す術がある。しかし、1983年当時のエイズは、その術がなにもなかった。

HIV感染症は基本的に性感染症なので、その感染を物理的に「予防」する術としてはコンドームがあった。しかしHIVは、一度感染してしまったら、体の中から絶対に取り除くことができないウイルスである。「治療」するための薬も当時はなかった。一度感染してしまったら、絶対に治せない。つまり、80年代に「HIVに感染する」ということ、それはイコール「死」を意味していた。

HIV感染症は、「慢性」の感染症である。「急性」の感染症である新型コロナやインフルエンザのように、感染してすぐに症状が顕れるものではない。HIVは、「CD4T細胞」(あるいは「ヘルパーT細胞」とも呼ばれる)というヒトの免疫細胞に感染し、時間をかけてそれをじわじわと破壊していく。

CD4T細胞は免疫の司令塔なので、この細胞が破壊されると、免疫がシステムとしてうまく働かなくなる。つまり、「免疫不全」になる。免疫不全になると、通常なら免疫によって体から簡単に排除されるような、われわれが日常的に接している、そこら辺にいる細菌やウイルスに感染しても、それを排除できなくなる。

そうすると、通常なら発症することのない感染症を発症する。これを「日和見感染症」という。このように、普段なら体になんの影響もないような病原体に侵されて、それを排除できず、最終的に死に至る病気こそが、「『後天的』に『免疫不全』になっていろいろな感染症になる病気」、後天性免疫不全症候群、つまりエイズ(AIDS: acquired immunodeficiency syndrome)である。

80年代当時のエイズにまつわる空気感は、私は主に、以下のふたつの映画から身につけた。ひとつは『ダラス・バイヤーズクラブ』という映画。これは素晴らしい映画で、当時のエイズについての社会的問題を描くだけではなく、「薬はあるのに使えない」というような当事者の憤りや、「でもそれは効果が確認・承認されたものではない」という医学的な背景や、「だから、使えない」「でも、使いたい」という患者側のメンタリティーなど、2020年初頭の新型コロナパンデミックにも通底するテーゼが示されている。

そしてもうひとつは、比較的最近の映画ではあるが、イギリスのバンド「クイーン」のヴォーカリストであったフレディ・マーキュリーの半生をフィーチャーした『ボヘミアン・ラプソディ』。これはフレディ・マーキュリーの自伝的映画であるが、フレディーがエイズだと勧告されるシーンを、上記の「死の病」という予備知識を持った上で観ると、その絶望感は筆舌に尽くし難い。そんな絶望の淵から、「ライブ・エイド」の伝説のライブに至るまで――。

もしまだこの映画を観ていない読者がいたら、ぜひご覧いただきたい。これは余談だが、海外出張の長期フライトの際、機内でこの映画が観られるときには、私は必ずこれを観て涙している。

■治療法の確立

1985年に、満屋裕明教授(現・国立国際医療研究センター、ほか)が、アメリカ・NIH(国立衛生研究所)に在籍中に、「AZT(アジトチミジン)」という化合物が、HIVの複製を抑える効果を示すことを世界で初めて発見した。

その後も複数の薬が開発・認可され、90年代半ばには「多剤併用療法」という、複数の薬を併用する療法が確立。これによって、エイズは「死の病」ではなくなった。私が大学院生としてHIVの研究を始めたのは、2000年代に入ってから。つまり、私がHIVの研究を始めた頃には、すでにエイズは、80年代のときのようなおそろしい「死の病」ではなくなっていた、ということになる。

「巨人の肩の上に立つ」とはまさに前回のコラムで紹介した内容であるが(第23話参照)、1983年のウイルスの発見・同定以降、世界中の研究者が競って研究し、協力することで、発見から10年以上の月日を要して、その治療法の確立にこぎつけたのである。

つまり、HIVの発見を「ルーツ」として、治療法が確立され、HIV/エイズに関する研究分野が勃興したと言える。(後編に続く)

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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