東京・渋谷のスクランブル交差点の人混み 東京・渋谷のスクランブル交差点の人混み

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第34話

そもそも筆者が、新型コロナ研究をはじめた最初のきっかけはなんだったのか? 新型コロナパンデミックが日本でも広がりつつあった2020年3月下旬、筆者は新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)とSARSウイルス(SARS-CoV)の相同性に目をつけた。今だから明かせる新型コロナ研究のはじまり、緊迫の「京都疎開編」スタート。

* * *

■2020年3月

研究コンソーシアム「G2P-Japan」は、昨今の私の研究活動の代名詞になりつつある。

G2P-Japanがどのようにして立ち上がったのかについては、この連載コラムの第6話で紹介した。今回はそれよりも前の話、私の新型コロナ研究のはじまりの話を紹介しようと思う。

――2020年初頭。最初は、日本海で隔てられた先の、海の向こうの国だけで起きている出来事だった。それが、ある大型旅客船が横浜港に寄港することになり、状況が急変する。船内では、新型コロナウイルスの感染が充満し、テレビなどの大手既成メディアはそれを連日トップニュースで伝えた。

そうこうするうちに、日本国内でもちらほらと感染者が見つかり始める。当初は「ヒトからヒトへの感染例は報告されていない」としていながらも、中国への渡航歴のない感染者も出始める。やがて、知人のウイルス学や感染症学の研究者たちをテレビで目にすることも珍しくなくなり、ついに3月18日には、外務省から感染危険情報が発出される。その対象は、「全世界」――。

"8割おじさん"こと西浦博教授(京都大学。当時はまだ"8割おじさん"ではなかったし、所属は北海道大学だった)とは旧知の間柄であったが、彼が厚生労働省の「新型コロナウイルス クラスター対策班」の中核メンバーとして、最前線で奮闘していることも知る。

そんな西浦さんからある日、SNSのダイレクトメールで一通の連絡が届く。メディアに出て、新型コロナについての解説や対応を手伝ってほしい、というニュアンスのメッセージだった。

当時の私は、「ウイルス学者」ではあるものの、その看板に書いてあるのは、新型コロナウイルスとはまったく似ても似つかない、エイズウイルスに関することだった(第5話参照)。

そもそも、新型コロナは出現したばかりのウイルスで、科学的な情報は当時は皆無だった。そんな状況で、しかも私のにわかな知識で、一般向けに解説をすることなどできるはずもない。「ウイルス学者」を看板とする者としては内心忸怩たる思いだったが、この依頼は断らざるを得なかった。

――しかし。そんなときだからこそ、いちウイルス学者として、何かできることはないのか?

この連載コラムの第1話で紹介したように、私はずっと、「ウイルスと宿主(ヒト)の相克と相生」をテーマに、エイズウイルスの基礎研究にいそしんでいた。そのため、薬やワクチンの開発に役に立つような研究の経験はほとんどない。それでも、社会のために、私にできることはあるのだろうか――?

■SARSウイルスにあって、新型コロナウイルスにないもの?

そんな2020年の3月下旬。新型コロナについていろいろと調べたりしていると、ふとひとつのアイデアが浮かんだ。その浮かんだアイデアの点は、するすると「大前提」と線でつながれていき、ひとつのプロジェクトの萌芽となった。それは、以下のようなものであった。

新型コロナウイルスの正式名称はSARS-CoV-2。この名前は、ウイルスゲノムの配列が、2002年から03年に東アジアでアウトブレイクを引き起こした、重症急性呼吸器症候群(SARS)の原因ウイルスであるSARSウイルス(SARS-CoV)と似ていることに起因する。その相同性は約80%。

この頃には、新型コロナウイルス感染症、つまりCOVID-19の病態についても少しずつ情報が得られ始めていた。もっとも興味深かったことのひとつが、「新型コロナに感染しても、無症候(感染しているのに症状がないこと)の人が結構いる」ということである。

そして、重症化リスクはあれど、一般的なCOVID-19の病態や致死率は、SARSのそれよりも低いことが示唆され始めていた。

COVID-19とSARSの病態の違いは、いったいどこにあるのか? それを明らかにするための鍵として、私は「80%の相同性」に目をつけた。「80%が同じ」ということは、裏を返せば、「20%は違う」ということを意味する。

つまり、この「20%」に、COVID-19とSARSの違いが隠されている。それはいったい何か?

「ウイルスと宿主(ヒト)の相克と相生」というテーマのひとつとして、私は、エイズウイルスのタンパク質と、ヒトのタンパク質の「相克」に着目した研究をしていた(第5話)。エイズウイルスと新型コロナウイルスは、ウイルスとしての種類や性質は違えど、「ヒトに寄生して増える(そしてヒトに病気を起こす)」という「ふるまい」は同じとも言える。

そうであれば、「ヒトに寄生して増える」ために必要なウイルスのタンパク質の役割には、さほど大きな違いはないとも言える。つまり、「ウイルスのタンパク質」に着目した研究であれば、きっと私にもできることはある。

新型コロナウイルスとSARSウイルスの違いは20%。そこに、COVID-19とSARSの病態の違いに関係するウイルスのタンパク質がコードされているはずである。それをコードするウイルスの遺伝子はいったい何か?

■浮かんだ仮説

そこで私が目をつけたのは、「インターフェロン」という、さまざまな方法でウイルスの増殖を抑えるように作用する、キープレーヤーたるヒトのタンパク質である。ヒトがウイルスに感染すると、ヒトの細胞はそれを感知し、インターフェロンという物質を作る。

これがたくさん作られるとウイルスとしてはたまったものではないので、大抵のウイルスは、ヒトのインターフェロンの産生を抑えるためのタンパク質を持っている。私が目をつけたのは、この「インターフェロンの産生を抑えるウイルスのタンパク質」である。

ここまでをまとめると、当時の私が立てた仮説は、以下のようなものであった。

浮かんだ仮説 浮かんだ仮説

ーー新型コロナウイルスとSARSウイルスの違いは20%。COVID-19とSARSの病態の違いという「大前提」は、この"20%の違い"にあり、その違いは、インターフェロンの産生を抑える能力にあるのではないか?

SARSウイルスは、インターフェロンの産生を強く抑えることができる。そのため、感染した人は、SARSウイルスの増殖をうまく抑えることができず、重症化してSARSを発症する。

それに対し、新型コロナウイルスは、インターフェロンの産生を強く抑えることができない。そのため、新型コロナウイルスの増殖は、感染した人の細胞が作るインターフェロンによって抑え込まれてしまう。だからCOVID-19の病態は、SARSのそれに比べて軽くなるのではないか?

「SARSウイルスにあって、新型コロナウイルスにないもの」。つまりそれは、「インターフェロンの産生を強く抑えることができるウイルスのタンパク質」。それこそが、COVID-19とSARSの違いを決めるファクターなのではないか?

これこそが当時の私の、新型コロナ研究に取り組むためのたったひとつの取っかかりであった。

(2)はこちらから

★不定期連載『「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常』記事一覧★

佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
公式X【@SystemsVirology】

佐藤 佳の記事一覧