エイズを初めて克服した男、ティモシー・ブラウン氏 エイズを初めて克服した男、ティモシー・ブラウン氏

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第55話

今回は、筆者のもともとの専門であるエイズウイルス研究の話。エイズはいまだに「根治」することができない病だが、実は研究レベルでは「根治する方法」は存在するという。人類史上初めてエイズを克服した男、通称「ベルリン患者」のエピソードを紹介する。

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■エイズは、「治療」できるが「根治」できない

新型コロナの研究を始める前、私はエイズウイルスの研究を専門にしていた。この連載コラムでも紹介したことがあるが(2425話)、エイズの原因ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス(HIV:human immunodeficiency virus)は、1983年に発見・同定された。それ以来、40年以上にもわたって、莫大な研究費が費やされ、詳細な研究がなされている。90年代半ばには薬でエイズを「治療」する方法も開発され、現代のエイズは「死の病」ではなくなった、とも言える。

しかしここに、勘違いされやすい大きな理解のギャップがある。それは、エイズは、「『治療』はできるが、『根治』はできない」、ということである。

上で述べた通り、エイズを「治療」するための薬はたくさん開発されている。そのため、その薬を「服用し続ける」ことができれば、エイズの「発症を抑える」ことはできる。しかしここでのミソは、この「服用し続けなければならない」というところにある。

風邪やインフルエンザ、COVID-19という感染症は、多くの場合、「安静にする」「栄養をとる」、そして必要があれば「薬を服用する」ことで、その原因ウイルスをからだから「排除」し、治る、つまり、平常な状態に戻ることができる。そのようなことを「根治(英語では、『cure』あるいは『eradication』)」と呼ぶ。

エイズに残された最後の大きな課題のひとつはここにある。薬はあるので「治療」はできる。しかし、エイズの発症を抑えるためには、この薬を一生服用し続けなければならない。いくら薬を服用しても、エイズウイルスをからだから「排除」することはできないからだ。つまりエイズは、いまだに「根治」することができない病なのである。

――しかし、一般に適用するにはまだ尚早な、コストもリスクも計り知れない研究レベルの話ではあるが、エイズを「根治」する方法は実は存在する。

それはいったいどのようなものか? 今回のコラムでは、人類史上初めてエイズを克服した男、通称「ベルリン患者(Berlin patient)」のエピソードを説明していく。

■エイズを初めて克服した男、ティモシー・ブラウン

彼が「ベルリン患者」と呼ばれる理由は、この患者の治療が、シャリテー・ベルリン医科大学でなされたことに由来する。その患者の本名は、ティモシー・ブラウン(Timothy Brown)。プライバシー保護の観点から、当初は匿名化のために「ベルリン患者」と呼ばれていた。しかし彼は、エイズに苦しむ人たちの光となるため、そしてその研究の重要性を、研究者や医療従事者のみならず、一般社会の人たちにも理解してもらうために、顔と実名を公表した。広くメディアにも登場し、さまざまな学術集会にも顔を出していた。

――それでは、彼はどのようにしてエイズを克服したのか?

彼は、エイズだけではなく、白血病も発症していた。エイズの根治につながった治療はそもそも、白血病を治すためになされた治療の「副産物」とも言えるものだった(とはいえ、そこにはあくまで「期待」として、エイズの根治も想定されていたはずである)。

そこでなされたのは「骨髄移植」である。ただし、彼の治療の場合、一般的な白血病の治療とはちょっと違うところがひとつあった。それは、「CCR5D32」という、ある種の遺伝子変異を持った人が、骨髄移植のドナーとなっていた点にある。

■「CCR5D32」とは?

これはいささか専門的な話になるけど、これを説明しないことにはうまくストーリーが進まないので、少し説明します。

まず、エイズウイルスは、ヒトの免疫細胞の一種である「ヘルパーT細胞」あるいは「CD4T細胞」と呼ばれる細胞に感染する。この細胞を標的とする理由は、CD4というタンパク質が、エイズウイルスが細胞に感染するための「受容体」となっているためである。これはちょうど、ACE2というタンパク質が、新型コロナウイルスが細胞に感染するための「受容体」となっていることと同じ構図である。

しかし、新型コロナウイルスはACE2があれば細胞に感染できるのに対し、エイズウイルスはCD4だけでは細胞に感染することができない。エイズウイルスは、受容体としてのCD4に加えて、「共受容体」と呼ばれるもうひとつのタンパク質を必要とする。これがCCR5というタンパク質である。

ブラウン氏の白血病治療のための骨髄ドナーが持っていた「CCR5D32」という遺伝子変異は、「『CCR5』というタンパク質をコードしている遺伝子に、『D32(delta32)』という『欠損変異』が入っている」というものであり、平たく言えば、「CCR5というタンパク質を作れない」というものである。

ここで重要なのは、「『CCR5D32』の人は、CCR5というタンパク質を作れない」ということにある。上述のように、CCR5はエイズウイルスにとって、細胞に感染するために欠かすことができないタンパク質である。「CCR5D32」の遺伝子変異を持つ人には、CCR5を作れない。ということはつまり、エイズウイルスは、「CCR5D32」の遺伝子変異を持つ人には感染することができないのである。

骨髄移植の前には、からだの中の免疫細胞を空っぽにするために、放射線が照射される。エイズウイルスが感染するCD4T細胞も免疫細胞の一部であるので、放射線照射によって、一時的にではあるが、ほとんどすべてのエイズウイルスが体内から除かれることになる。

その後、ブラウン氏の白血病を治療するために移植されたのは、「CCR5D32」の遺伝子変異を持つ人の骨髄細胞、つまり、CD4T細胞を含む血液細胞の元になる細胞だった。これによって、CD4T細胞を含むブラウン氏の血液細胞は、移植された「CCR5D32」の遺伝子変異を持つドナーに由来するものに置き換えられたことになる。上述の通り、「CCR5D32」のCD4T細胞はCCR5を作れないので、エイズウイルスはこれに感染することはできない。そのため、ブラウン氏のからだから、エイズウイルスが「排除」されてしまったのである。

こうして2009年、ブラウン氏は「ベルリン患者」として、すなわち、「人類史上初めてエイズを克服した男」として、最高峰の医学雑誌『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』に報告された。

※後編はこちらから

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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