
布施鋼治
ふせ・こうじ
布施鋼治の記事一覧
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
初のバーリトゥードマッチで、無数のパウンドを浴び続けた菊田早苗
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第57回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。
スポットライトを浴びているはずなのに、菊田早苗の視界は真っ暗だった。
1996年7月7日、東京ベイNKホールで開催された『バーリトゥード・ジャパン'96』。前年までワンデートーナメントで行われていた試合はワンマッチに代わり、メインイベントにはヒクソン・グレイシーの実弟ホイラー・グレイシーが登場し、〝奇人〟朝日昇と闘った。
菊田は第2試合でムスタク・アブドゥーラ(イラク)とヘビー級8分3ラウンドマッチで拳を交わした。現在のMMAの母体となるバーリトゥードでのデビュー戦だった。
「早く闘いたい」という気持ちにはならなかった。むしろ試合直前になっても「なぜ、自分はここにいるのだろうか」という疑問が解消されることはなかった。
そう感じる理由はあった。寝技の練習を積んできたとはいえ、総合格闘技の打撃は菊田にとって未知数だったのだから。同年3月の『トーナメント・オブ・J』や前年12月のアマチュアシュートボクシングの全国大会での優勝がモノをいって、『バーリトゥード・ジャパン'96』から出場のオファーが舞い込んだ。声をかけたのは、当時プロモーターの見習いをやっていた中井祐樹だった。
アブドゥーラ戦からちょうど30年となる今年、菊田は「試合前、パウンドの練習なんかしたことがなかった」と衝撃の事実を筆者に打ち明けた。
「打撃の練習はちょっとでしたね。寝技の練習とは別々にやって。今なら普通なんですけど、オープンフィンガーグローブをはめて全部その状態で練習するということすらやっていなかったんです。だから何でもありの試合は本当にぶっつけ本番でした」
大会当日、会場入りして控室で出番を待つ間、「これから何が起こるのだろう」と考えると不安になって仕方なかった。計量前日から大会当日までの2日間は眠れなかったという。
「試合前から吐き気をもよおすというか、総合格闘技のアマチュア経験もないのに、プロの総合格闘技の試合に初めて臨む。しかも、相手は体重97㎏もあるレスリングがベースのイラク人で、『彼を打ちのめさないといけない』と思うと、生きた心地が全くしなかった。当時は今みたいに総合が競技格闘技という感じではなく、一種変わった人が出て行く、殺し合いのような雰囲気がありましたからね。ルールもまだ整備されていなかったし」
試合前、この試合を担当した『格闘技通信』の記者の質問には以下のように受け答えしている。
──初めてのバーリトゥード戦ですが。
「怖さはないです」
──相手はレスリングで実績を持つ選手ですが」
「タックルされても構わない。たとえ切れなくても下から攻めればいいんですから」
表向きの発言と本音は全く違っていたことになる。
菊田はのちに、UFC初期に活躍し、PRIDEにも出場するマーク・ケアーが試合に向かう恐怖や葛藤から逃れるために鎮静剤など薬物に溺れていく様を描いたドキュメンタリー映画『The Smashing Machine』を観た。
「ケアーは試合前にトイレで戻していたみたいですね。僕は薬物に全く頼っていないけど、精神的には似たような状況でした。本当に試合が恐怖だった」
控室を出て廊下を歩き、花道を闊歩する自分が想像できなかった。
「そういう感じだったので、試合が始まったら、もうわけがわからなかった」
向かい合うと、アブドゥーラの目は明らかに血走っていた。
「明らかにおかしい。やっているときの力もすごかったけど、ずっと興奮している。確証はないけど、何か興奮剤的なものを服用していたんですかね」
バーリトゥード・ジャパンは第3回を迎えていたが、選手にドーピング検査を課すという発想はまだ持ち込まれていなかった。この日のアブドゥーラを〝クロ〟と推察するわけではないが、ドーピングに関していえば、やりたい放題という時代だった。
菊田にもチャンスはあった。1R序盤、ヒールホールドやヒザ十字固めにトライする場面があったのだ。とりわけ前者の仕掛けでは観客の多くが「極まった」と予感させる、どよめきが起こるほどだった。しかし、中腰のアブドゥーラはパウンドを放つことで危機を回避した。続くヒザ十字固めも、アブドゥーラが右のパウンドでプレッシャーをかけると、菊田の仕掛けは崩れた。
再びスタンドの展開になると、菊田はアブドゥーラが仕掛けた打撃戦に付き合ってしまう。そしてグラウンドになると、MMAではタブーともいわれる亀の態勢をとってしまい、パウンドによる追撃を許した。
寝技を師事する平直行からさんざん「亀になるな」と忠告を受けていたのに、慣れぬ打撃の連打を食らうと、三つ子の魂百までではないが、柔道家時代の癖が出てしまったのだ。
立ち上がろうとしても、立ち上がれない自分がいた。気持ちではそうしようとしているのに、体が思うように動かない。後日観た試合映像で菊田は事の推移を理解した。
「寝技で蹴りを2発顔面に入れられたあと、パンチを連打されている。最初の2発は特にひどかった。それから5分ほどずっと殴られていました。今だったら、間違いなく途中でレフェリーストップが入ってTKO負けですよ」
この大会を速報した格闘技通信増刊『日本最弱』に掲載されたアブドゥーラ戦の試合リポートで菊田は「セコンドにタオルを投げてほしかった」と語っている。しかし、セコンドがタオルを投げることはなかった。
「いつまでも僕の目が開いていたからですかね。心の中では『もう立てないんだよ』と叫んでいたんですけど」
「だったらレフェリーが...」と思う人もいるだろうが、なんという時代だったのだろうか、この大会ではレフェリーは試合をストップする権限を持ち合わせていなかった。
フィニッシュはチョーク。アブドゥーラの左前腕部による喉押しだった。
「拷問でしたね。そのまま首を横にして預けちゃった(タップした)んですよ」
その後、ダメージが深い菊田は救急病院に搬送された。
「とにかく頭の中がグルグル回っていたので、脳内出血でもしているんじゃないかと不安になりました」
CTを撮ると、幸いにも異常なしと診断されたが、頭の中が回っている感覚はずっと取れなかった。
「結局、2週間ほどその症状が続きましたね。極度の気持ち悪さに襲われ、常に船酔い状態。『ヤバい世界に飛び込んでしまった。このままどうなっちゃうんだろう』と思いました。その一方で、悔しくて悔しくて、ベットの中でずっと試合内容を悔いてました。今だったらもっとやりようがあったと思うけど、とにかくおっかないという気持ちが先行していた感じで、とんでもない一戦でしたね」
ぐうの音も出ない完敗だった。ホイス・グレイシーの闘い方から、菊田は「俺でもいける」とインスパイアを受けたが、それが即座に具現化することはなかった。
(つづく)
格闘技ジム「GRABAKA」を主宰する、現在の菊田早苗(撮影/布施鋼治)
●菊田早苗(きくた・さなえ)
1971年生まれ、東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。「ザ・トーナメント・オブ・J」を96年、97年と連覇し、リングス、PRIDE、パンクラスなどで活躍。2001年にアブダビコンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝。総合格闘技戦績31勝9敗3分1無効試合。