
布施鋼治
ふせ・こうじ
布施鋼治の記事一覧
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
総合格闘技では数々の強豪を打ち破ってきた菊田早苗だが、最初の夢はプロレスラーになることだった
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第54回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
今回は、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。
「バキッ!」
骨の異常を示す音が鳴り響くと、菊田早苗は「ウワッ~」と断末魔の叫び声をあげた。
時は1994年7月、ちょうど22歳のときに受けた、髙田延彦を不動のエースとするUWFインターナショナル入団テストの最終種目、山本健一(現・喧一)とのスパーリングでの出来事だった。菊田は左腕を脱臼させられてしまったのだ。
柔道出身の菊田は寝技に少々覚えがあったが、柔道衣を着用していなければ事情は変わってくる。しかも、坂道ダッシュ、ブリッジ、スクワットなどの基本トレーニングをひとりで1時間以上行なったあとのスパーリングだった。
菊田は「真夏だったので、道場の室温は軽く40度を超えていたように思います」と振り返る。
「もうそれをこなすだけでフラフラでした。水? たぶん飲んでいないですね」
途中、山本を何度か投げた記憶は残っているが、リング下から見ていた選手たちからは「投げたってしょうがないんだぞ」と野次を飛ばされた。
「(裸の相手に対する)極め方がわからないから、投げても押さえ込んでも終わらない。ヤマケンさんも僕に負けたら、あとで先輩たちから何をされるかわからない。必死だったと思います。たぶん20~30分くらいはやっていたんじゃないですかね」
勝負の分かれ目は疲労の色を隠せない菊田が気持ちを緩めてしまったことにあった。長時間に及ぶテストだったので、時間が経つにつれ集中力が弱まるのは仕方ないことだった。
「最後は気持ちが折れ、左手を許してしまった」
そのとき脱臼させられた左ヒジは40歳を過ぎてから歴戦のダメージも手伝い、手術せざるをえないほどだった。いまも、そのときの痛みは残っている。
「もうプロレスラーになることは諦めよう」。折られたヒジを抱えたまま、菊田は長年胸に秘めていた夢を諦める決意をした。
非情にも手負いの菊田に声をかける者はいなかった。その中で安生洋二だけは「早く病院に連れていったほうがいいんじゃないか」と、菊田の容体を気にかけた。
「みんな冷たかったけど、安生さんだけはやさしかった。(何十年も経ってから)お礼を言いました」
それにしても、なぜ一介の入門志願者が大ケガを負うまでのスパーリングをしなければならなかったのか。傍らからみると、過剰なシゴキにしか映らない。いまだったら菊田から訴えられても不思議ではない。
しかし、UWFインターには菊田に対してきつく審査しなければならない事情があった。というのも、菊田はそれ以前に一度UWFインターに新弟子として入門したものの、途中で逃げ出してしまったという、いわくつきの過去を持っていたのだ。いわば、出戻り。団体側としたら、菊田の覚悟をシビアに測る必要があった。
結局、UWFインターから合否の通知は何もなかった。スパーリングの内容で落とされたことは明らかだった。プロレスラーとして失格の烙印を押されたことが後に大きな転機となるが、このときは知る由もない。
入団テストでヒジを脱臼させられた山本喧一と2011年に『GRABAKA LIVE!』で対戦し、マウントパンチでTKO勝利
当時、UWFインターの司令塔として活動していた宮戸優光との付き合いは長い。そもそも最初にUWFインターに弟子入りしたときも、宮戸とのつながりがあったことがきっかけだった。小学6年のときから菊田は佐山サトルが運営する世田谷区瀬田にあったスーパータイガージムに通っており、そこでインストラクターをしていた宮戸と顔見知りだったのだ。
「それで宮戸さんにお願いして、テストを受けさせてもらったわけです」
いまのようにSNSによって誰でも憧れの団体にコンタクトできる時代ではない。プロレスラーになりたければ、専門誌に時折掲載される入団テスト案内を見て応募するか、各団体の事務所や興行に直接足を運び直談判するしかなかった。菊田のように何らかの形でコネを作り、テストを受けさせてもらうケースも珍しくはなかった。
それはそうと、せっかく入門許可が下りたのに、なぜ菊田は最初の入門からすぐ逃げ出してしまったのか。原因は合宿所での息が詰まりそうな生活にあった。
1992年4月に入門した菊田は自分より半年ほど早く入った高山善廣や金原弘光と相部屋だった。当然プライベートな時間は限られてくる。だったら外出すれば問題はないと思うが、当時のUインターの合宿所は縦社会のルールを遵守しなければいけないような空気に支配されていた。
「それでも普通デビューしたら、外出できるというじゃないですか。でも、当時のUインターの合宿所は外出できなかったんですよ」
新弟子が外出できない原因は、合宿所でトップに位置していた田村潔司の存在が大きい。
「練習はきつかったけど、耐えることができた。でも、練習が休みの日曜は大掃除をして高山さんと僕が食事を作って終わるような感じでした」
何かをされたわけではないが、菊田は無言の圧力を感じた。
「もう常に(田村が)合宿所にいるので、逃げ場がないんですよね。お風呂も先輩たちが入らないと後輩は入れなかったので、僕が入るのは決まって夜中の0~1時でした。それでも朝6時には起きなければいけない。ずっと5時間睡眠。起きたらすぐ掃除という日々でした。それでだんだん精神的にきつくなっていってしまったんでしょうね」
それでも、合宿所から逃げ出すことなんてこれっぽっちも考えていなかった。とはいえ、追い詰められた人間は何をきっかけに突拍子もない行動を起こすかわからない。
案の定、Xデーは突如訪れた。合宿所でたまたまひとりになる機会があったときのことだ。ふと心の奥底から今まで湧いてこなかった感情が頭をもたげた。
「逃げるなら、今しかない」
自分の荷物はバックひとつだったので、荷造りをする必要もなかった。
「よし、もうこんな世界とはオサラバだ」
心の中でそう呟いた菊田は、誰もいない部屋でひとりガッツポーズをしてから脱走した。記憶が正しければ、入門してからわずか11日後の出来事だった。次に何をしようかなど、具体的に何か考えていたわけではない。ただ、自分が置かれている環境から逃げ出したかった。
(つづく)
格闘技ジム「GRABAKA」を主宰する、現在の菊田早苗(撮影/布施鋼治)
●菊田早苗(きくた・さなえ)
1971年生まれ、東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。「ザ・トーナメント・オブ・J」を96年、97年と連覇し、リングス、PRIDE、パンクラスなどで活躍。2001年にアブダビコンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝。総合格闘技戦績31勝9敗3分1無効試合。