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稲嶺惠一氏
"辺野古容認"の保守系候補が県知事選で圧勝。沖縄で起きている「地殻変動」の深層を、かつて基地問題に奔走した元知事が解き明かす
3選を目指した現職の玉城デニー氏(66歳)と、前那覇副市長で自民党をはじめ保守系6政党が推薦した古謝(こじゃ)玄太氏(42歳)による事実上の一騎打ちとなった沖縄県知事選挙(9月13日投開票)。結果は古謝氏が史上最多の42万票を獲得、「12年ぶりの保守系知事」「初の沖縄返還後生まれの知事」が誕生した。
2期8年の任期を通じて米海兵隊普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾[ぎのわん]市)の辺野古(へのこ/名護市)移設に反対してきた玉城氏に、辺野古移設容認を打ち出した古謝氏が大差をつけて勝ったことは、いったい何を意味するのか?
基地反対運動の抗議船が転覆し、修学旅行生を含む2人が死亡した今年3月の事故は、選挙にどう影響したのか? そして沖縄の「基地問題」は今後、どうなっていくのか?
「県民所得倍増」を掲げて圧勝した古謝玄太氏。辺野古移設については「普天間返還期日の明確化」を政府に求めていくという
基地移設問題を重視する高齢層に支持されながらも、景気・雇用を重視する現役世代の支持が伸び悩み、15万票差で敗れた玉城デニー氏
市街地に隣接する普天間飛行場の移設問題が沖縄の大きな政治課題となった契機は、1995年の米兵少女暴行事件。その後、初めての県知事選(1998年)で、革新系の現職・大田昌秀氏を破って当選したのが、アメリカ占領時代の沖縄で琉球石油(現りゅうせき)を創業した元参議院議員・稲嶺一郎氏を父に持つ稲嶺惠一氏(92歳)だ。
関東州大連市(現中国遼寧省)で生まれ、戦後は東京で生活、高校2年で初めて沖縄の地を踏み、りゅうせき社長・会長を歴任(現在は参与)した沖縄経済界の重鎮。
2期8年(1998~2006年)の知事任期中は日本政府や米政府・米軍との交渉、調整に奔走し、沖縄サミット(2000年)でも基地問題のアピールに尽力した。その稲嶺氏の目に、沖縄県政の未来はどう映っているのだろうか。
――知事選の結果をどのように総括なさいましたか。
稲嶺 ずばり「地殻変動」が起きたと見ております。急激に起きたのではなく、前兆はすでにいくつもありました。
最初に現れたのは、2025年の参議院選挙。いきなり本土出身者(和田知久氏)を擁立した参政党が12万票を取った。そのため保守票が割れて革新系が勝ち、自民が負けました。しかし、みんなは革新が勝った、反政府が勝ったと騒ぎ、その底流に何があるのか深く分析しなかった。
急速に進んでいるのは、若者を中心とする〝本土化〟、 保守化です。今年2月の衆議院選挙で、全4選挙区で自民系候補が当選したのがいい例です。しかし、地元メディアは革新陣営の内部分裂に注目し、時代の流れを本当の意味で察知しきれなかった。
「地殻変動」と言ったのは、30年続いたパターンが狂ったこともあります。一番の驚きは、選挙戦序盤の世論調査で、辺野古移設反対が30%台前半から45%だったことです。
大田知事時代(1990~1998年)から30年間、多少の上下はあってもだいたい6割が反対でした。だから私も仲井眞(なかいま/弘多元知事/在任2006~2014年)さんもほかの保守系候補者も、「6割反対」を前提としながら基地対策を練っていきました。
ところが、その壁がポッと下がったわけですよ。 それまで乗り越えるのがものすごく大変だったのが、乗り越えられる壁になっていったんです。これは衝撃でした。

――その「地殻変動」の要因はなんでしょうか?
稲嶺 一番は、辺野古沖の事故の影響が想像以上にあると思います。従来の〝平和学習〟、沖縄の平和の原点は「命(ぬち)どぅ宝」。命こそが宝であり、これこそが〝沖縄の心〟だとみんながわかっている。
今回の事故では、宝である命が失われたことに対して、事故を起こした当事者がまったく対応しなかった。平和団体とは名ばかりで、本当の沖縄の心を持っていない。一挙に平和教育のイメージが失われたのではないでしょうか。
もうひとつは、やはりどんなに反対を掲げても着々と辺野古新基地の工事が進んでいる。しかも県は最高裁で敗訴している。ある程度の諦めもあったのではないかと思います。ただ、「地殻変動」があったから完璧に変わったかというとそうではない。
琉球新報の調査では、(辺野古移設への賛否について)30%が「わからない」という層です。この選挙によって基地賛成の考えが示されたんじゃなくて、「わからない」という県民が増えたということです。だから、安心はしちゃいけないと思います。
――稲嶺さんは1998年に知事に就任して以来、日本政府と対峙しながら普天間飛行場の移設先を辺野古沖に選定。受け入れ条件は、新基地の「軍民共用化施設」ならびに「15年使用期限」でした。
稲嶺 最初から15年って言ったわけじゃないですよ。大前提は〝使用期限を設ける〟こと。「例えばどうなの?」とマスコミに言われて、「では、15年」と言ったんです。日本政府が具体的に何も触れないまま、なんとなく「15年使用期限」の条件でアメリカとの交渉になったんですよ。
1998年に革新の大田さんを破って知事に就任して以来、政府と連携を取りながら移転先を辺野古に選定し、軍民共用空港、使用期限の設定を条件に普天間飛行場移設計画を進めてきました。使用期限の設定には具体的年数は設けていません。政府も閣議決定で「国際情勢に対応して」として、条件付きながらそれを受け入れています。
意識したのは、香港でした。1898年にイギリス統治下になってから返還までの香港返還99年。当時、清の政治家・李鴻章は「お土産付きで還ってくる」と。そのとおりになりましたよね。想像もつかないほどの国際的な大都市になって還ってきた。それが頭にあった。
一番困るのは還ってこないこと。将来、国際的観光地に寄与する〝やんばる空港〟として還ってくることを想い、固定化だけは絶対に避けるために、使用期限を設けるっていうのが先決でした。

――しかし、2006年の新たな閣議決定では、使用期限などの条件が破棄されてしまった。これはなぜですか?
稲嶺 あんまり言いたくないですが、自民党の政権派閥が変わると物事の見方が変わるということを認識しました。2001年、小泉純一郎さんが「自民党をぶっ壊す」と言って総裁選に出た。あれは、要するに「経世会をぶっ壊す」ってことなんですよ。
小泉政権は、旧経世会の得意分野すべてにメスを入れました。その取っかかりとしての郵政改革だし、沖縄問題も全部、旧経世会絡みなんですよ。橋本龍太郎、梶山静六(橋本内閣の官房長官)、小渕恵三、野中広務(小渕内閣の官房長官)。沖縄に心を寄せた彼らは皆、旧経世会なんです。
2000年3月、糸満市の平和祈念公園を訪れた小渕首相(右)と稲嶺知事(左)。しかしこの直後、小渕首相は病に倒れ、自民党は森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三と続く清和会政権の時代に
――今年3月の事故までつながる辺野古沖での海上抗議活動は、稲嶺県政2期目の2004年に始まっています。
稲嶺 辺野古沖に最初にやぐら(足場)を設けたとき、岸から2㎞も離れていましたので、当時は2隻の船のみで反対運動をやっていた。取り締まりをするのは防衛庁なのですが、どの部署も動きませんでした。
やがて反対運動が激化し、もう抑えるすべがなくなり、最後には守屋武昌防衛事務次官から「沖縄県で取り締まってくれ」と言われた。「おかしいじゃないか。県が協力すべきことは全部やりますが、これは国の事項ですよ」と突っぱねたら、「悪いのはすべて稲嶺だ」となったんです。
――そうして2006年5月11日、小泉政権は県の意向を軽視して辺野古沿岸部への移設と「V字型滑走路案」の受け入れを新たに決定。同30日には、「使用期限付きの軍民共用施設」という従来の閣議決定は廃止されました。
稲嶺 同年秋に内閣が変わって安倍政権になった途端、(反対運動の取り締まりに)全国から警察が来ましたね。
――稲嶺さんは知事時代、基地問題についてアメリカ側に直接ものを言う機会はあったのでしょうか。
稲嶺 ビル・クリントン大統領が2000年の沖縄サミットに来る際、1時間かけて「平和の礎(いしじ)」(糸満市の平和祈念公園にある慰霊碑)を案内し、スピーチ交流の時間をつくってもらいました。
宮沢喜一さん(元首相)の娘婿で当時、在日米国大使館首席公使だったクリストファー・ラフルアーとの事前打ち合わせで、基地問題に触れなきゃいけないと思い、「在沖米軍の整理・縮小の話をしますよ」と言った。
するとクリストファーは「客人を呼ぶのに大変失礼だ。それなら大統領を沖縄によこさない」と怒り出し、けんか別れしてしまいました。日本の外務省からも抗議の電話が入りました。
そのとき調整役に入ったのが、外務省から出向していたサミット推進事務局長の山田文比古。彼が間に入ってアメリカ側と直接、何度も細かく打ち合わせをしてくれたようです。最終的にはアメリカ側から「住民の投票で選ばれた知事が、住民の意向を受けて大統領にものを言うのは当然」と言い出したんですから。
とはいえ、外交・防衛は国の専権事項です。それに配慮して会談の最後、クリントンに「今日、私の言ったことに失礼はありませんでしょうか」と尋ねると、「大変いい話を聞けてありがとう。私のできることはできる限りやります」と言ってくれて、ほっとしましたね。
2000年7月、サミットのため来沖し、平和祈念公園で演説するクリントン大統領と稲嶺知事。この直後、稲嶺氏は在沖米軍の整理・縮小についてクリントン氏と直接話をしたという
――これまで米軍基地整理・縮小が叫ばれ続けてきましたが、具体的な県外への移設の話はあったのでしょうか。
稲嶺 ありました。知事としてフィリピンを訪問した際、数千人の観衆が私を拍手で出迎えてくれるなど、ものすごい歓待を受けたんですよ。どうしてかというと、在沖米軍の訓練をフィリピンで行なってほしいと要望する訪問だったんです。
もともとフィリピンにあったクラーク米空軍基地とスービック米海軍基地は、1991年6月のピナトゥボ山大噴火をきっかけに完全撤退したのですが、その結果、中国が南シナ海で勢力を拡大した。かといっていまさら米軍派遣を要望するわけにもいかず悩んでいたので、この案に対して大歓迎してくれたんです。
もちろん、こちらも下準備はしてありました。当時の中川秀直官房長官と、フィリピンの下院議員との、沖縄での事前打ち合わせがあってのことです。これまでの経緯からフィリピン側も直ちに「イエス」とは言えませんでしたが、大歓迎で気持ちを伝えてくれたのです。
その後、部隊の移転はありませんでしたが、フィリピンでの米軍の訓練は今も続いています。この件について、ここまで詳細に話したのは今日が初めてのことです。
――宜野湾市民に取材すると、今や大多数が「普天間飛行場は返還されない」と思っています。これについてどう感じますか?
稲嶺 それが本音なのかはわかりません。というのは、国際情勢がものすごく影響している気がするんですよ。
戦後、たまたま沖縄がアメリカの統治下にあったために米軍基地が急速に配備され、特に岐阜と山梨にあった海兵隊陸上部隊の基地がキャンプ・シュワブ(名護市~国頭郡)に移転した1950年代には、〝内灘闘争〟(石川県)をはじめ米軍基地反対運動が全国各地で広がりました。
ただ、当時は朝鮮半島が米ソ冷戦の対立から軍事衝突にまで発展する地域でしたので、それに備えていたと思うんです。1990年代初頭に冷戦が終結すると、2006年頃には海兵隊グアム移転の話が頻繁に出るようになり、軍事的な要としての沖縄の重要性が薄れていくのでは、という雰囲気を感じました。
だから、使用期限の問題についてもそれほど深刻に考えていなかった。2006年5月に合意された「再編実施のための日米のロードマップ」でも、普天間飛行場の移設、沖縄の海兵隊の一部をグアムへ移転、嘉手納(かでな/空軍飛行場)以南の基地の整理・統合・縮小などが盛り込まれ、基地がだんだん撤退していくような兆しがありました。
その頃と今とで、ずいぶん変わってきたのは中国の存在です。当時は中国をアメリカがバックアップしていましたから。優秀な留学生を受け入れ、積極的に投資して中国を豊かにすることによって中流階級がどんどん形成され、共産主義が自然に崩壊の方向へ――というのが頭にあったんだと思います。
しかし、それが今や、中国はアメリカをも揺るがす超大国に成長した。このことも宜野湾市民の心情になんらかの影響を与えていると思います。
1995年の米兵少女暴行事件を受けて開かれた県民大会。稲嶺氏によれば「軍用地主会を除くほとんどの各種団体」が参加したという
――普天間返還と辺野古新基地建設反対を掲げ、翁長雄志(おなが・たけし)元知事(在任2014~2018年)が結集させた政治勢力「オール沖縄」の崩壊が、今回の選挙結果を招いたという指摘もあります。
稲嶺 近年のオール沖縄は〝プロパガンダ〟ですよ。本当の意味でのオール沖縄は、軍用地主会(個人参加は自由と通知)を除く沖縄の各種団体がほぼ参加した1995年の県民大会だけです(米兵少女暴行事件を受け、県議会や各市議会で米軍への抗議決議が採択され、10月21日に開催。8万5000人が集った)。
当時、私は「沖縄には〝マグマ〟があり、それが爆発した」と言いましたが、今、辺野古移設について「わからない」という30%の層は〝小マグマ〟ですよ。完全に(移設容認に)変わったんじゃない。もし沖縄の県民の心を本当に揺さぶるような問題が起きたら、この30%がマグマに転じて爆発する可能性があります。