「和歌山毒物カレー事件」から28年。「林眞須美の子供は幸せになれない」の呪いを解くために

取材・文/栗田シメイ

孝司が3歳のときの家族写真。長女、次女も含めて家族がそろった現存の写真としては、ほぼ唯一のものだという孝司が3歳のときの家族写真。長女、次女も含めて家族がそろった現存の写真としては、ほぼ唯一のものだという

1998年7月25日、小学生を含む4人の死者を出し日本中を震撼させた無差別殺傷事件「和歌山毒物カレー事件」。その犯人として逮捕された林眞須美には2009年に死刑判決が確定しているが、まだ執行されていない。

そんな中で今も母の無実を訴えるのが長男・孝司(仮名)だ。21年に姉が、今年6月には父・健治が亡くなった。なぜ彼はたったひとりになっても闘い続けるのか? "死刑囚の息子"が数奇な半生と共に複雑な心境を明かした。

【動かない父とふたりっきり】

1998年の夏のある日――。当時10歳の少年は、以降の人生を犯罪者の子供としての運命を背負って歩むこととなった。「死刑囚の子供」として過ごし、すでに17年の歳月が経過している。

今や日本一有名な死刑囚を生んだ「和歌山毒物カレー事件」。当事件で実刑判決を受けた林眞須美(65歳)の長男である孝司(仮名、39歳)は、加害者家族として数奇な人生を歩んできた。

林家の4人の子供は事件後、児童養護施設での生活を余儀なくされた。事件の余波が与えた影響は大きく、誹謗中傷やイジメなども数え切れないほど経験してきた。当然、進学や就職、結婚などにも大きな弊害が生じている。しかし、本人が選んだ道は「和歌山にとどまり自分の役割を全うする」ということだった。

2009年に林眞須美の死刑判決が確定後、3度にわたり再審請求を繰り返している。事件を起こす動機や、逮捕後の自白も、確たる証拠もない。それが孝司を突き動かす原動力となっている。以降、獄中にいる母と面会や手紙のやりとりを重ね、和歌山の地から母の〝冤罪(えんざい)〟を世に訴えかけてきた。

母と訪れた大阪府泉南郡にある「みさき公園」の遊園地で。現在は閉園しているが、林家の憩いの場であった母と訪れた大阪府泉南郡にある「みさき公園」の遊園地で。現在は閉園しているが、林家の憩いの場であった

家族の中で、そんな選択肢を取ったのは孝司だけである。長女は21年6月に関西国際空港の連絡橋から車で子供と一緒に海に飛び降り、命を絶った。父である林健治(享年81歳)は、今年6月に右下葉神経内分泌腫瘍のため鬼籍に入った。

次女と三女は、事件とは距離を置いている。残された孝司は、今後ひとりで矢面に立ち、林家の〝業〟を背負い生きていくことになった。孝司が言う。

「父が亡くなり3ヵ月たちますが、いまだにしんどい。葬儀も親族を呼べないため、父とふたりでした。葬儀屋さんに、『呼べる親族がいない』と言うのが恥ずかしくて......。ただ、一方で最後まで父と向き合ったというある種の達成感もありました。

犯罪者である父(保険金詐欺で実刑6年)を放ったらかすのではなく、近くで見守り続け再犯もさせなかった。『ちゃんと息子をやれた』と、自分に言い聞かす感じでもありました」

取材に応じる孝司。黒い服を好むそうで、その風貌はどこかミュージシャン風だ取材に応じる孝司。黒い服を好むそうで、その風貌はどこかミュージシャン風だ

再審請求中とはいえ、林眞須美はいつ死刑が執行されてもおかしくない。母からも、「もう事件から離れて自分の幸せを考えてほしい」と諭されたこともある。それでも孝司は、母の事件は自身の人生の問題として向き合わなければならないという認識だ。

「この事件を解決しないと、もしくは一区切りさせないと、一般的な幸せをつかむことができない。今まで生きてきて私が感じた現実です。だから、自分の人生を前に進めるために発信を続けている。母の事件の真偽を問い続けるのは、自分のためでもあるのです」

本稿では「たとえ家族ひとりになっても母を信じ続ける」と決意を明かす孝司の、人生の変遷をたどっていく。

* * *

夏祭りに提供されるカレーに亜ヒ酸が混入され、67人が急性ヒ素中毒になり、うち4人が死亡した無差別殺傷事件は、98年の7月25日に起きた。

孝司は、当日の母の様子を鮮明に記憶している。

「事件の当日、私と次女、母と父は夏祭りには行かず、カラオケに行きました。そこで母は上機嫌にテレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』をいつもどおり熱唱していた。殺伐とした雰囲気も一切なく、です。

母は保険金詐欺を行なったようにお金に執着があった。そんな母がお金にもならない無差別殺傷事件を起こすとは子供ながらに思えなかった。母と面会するようになり27年がたちますが、ずっと変わらず『ママはやっていない』と言い続けている。その様子は、私が母を信じるよりどころにもなっています」

父・林健治と母・眞須美の貴重なツーショット写真。和歌山市内のスナックには家族で足しげく通っていた父・林健治と母・眞須美の貴重なツーショット写真。和歌山市内のスナックには家族で足しげく通っていた

事件から2ヵ月が経過した10月4日、林眞須美は保険金詐欺と殺人未遂容疑、健治は保険金詐欺と同未遂容疑で逮捕された。同年12月には眞須美のみ、和歌山地検が殺人罪などで起訴した。以降、眞須美は一貫してカレー事件への関与を否認し続けている。一方、健治には2000年10月に詐欺罪で6年の実刑判決が下っている。

残された4人の子供は両親が獄中にいることから、児童養護施設に入った。しかし、林家の子供たちは施設にも学校にも居場所を見つけられずにいた。言葉を選ばずに言うなら、子供たちにとって地獄のような日々であった。

孝司は現在180㎝近い高身長で、肩まで伸びた長髪がよく似合う青年だ。そして、母とよく似て目鼻立ちがはっきりしており、異性にモテそうな風貌でもある。そんな孝司は施設の洗礼を受けた。

「入所早々に、先輩の男性に襲われる性被害に遭います。その後は、施設の職員の女性から性的虐待を受けた。最初の性体験がゆがんでいるからか、肌と肌が触れ合う感覚がずっと気持ち悪かった。正直、言い寄ってくる異性は少なくなかったけど、年を重ねても性行為に対しての嫌悪感は消えず、交際しても長続きしませんでした」

【ヒロトよりもヒロジに引かれ】

きょうだいは学校では「林」姓のまま生活を続けた。父の仕事を尋ねられても「夜勤で弁当を作っている」とかわし、祖父の家から通学していると嘘を重ねた。しかし、狭いコミュニティの中で、林の姓がつくきょうだいが目立たないわけがない。

「こちらは普通に接しているつもりでも、嘘をついている後ろめたさは消えなかった。友人たちは自分の素性がわかっても普段どおり接してくれていたんですが、これまでのイジメを受けた経験から心の開き方がわからない。『なんか距離が遠いやつ』『友達に嘘をつくやつ』という烙印を押されるのも無理はなかったと思います」

校内の大半が林眞須美の子供と知っていたと気づいたのは、後になってのことだ。

高校進学後は生徒ばかりではなく教師からも腫れ物として扱われた。高校生頃になると悩まされたのが「林眞須美の子供が学校にいる」というような噂ややじ馬の存在だった。ネットの掲示板などでも無責任な情報が垂れ流された。

長女の学校の入学式にはマスコミややじ馬が押し寄せ、孝司も同様だった。高2の夏休み前、教師に呼ばれ「単位はあげるから卒業まで来ないでくれ」と告げられた。その後、通学したのは卒業式の一度のみである。

大学進学を検討する学力はあったが、金銭的な事情で断念。施設の同居人たちの就職先は、工事現場仕事か自衛隊が多くを占めた。孝司も自衛隊に出願したが、「定員が埋まっている」という不可解な理由で採用には至らない。飲食店でアルバイトを始めた際も、こんなことが起きた。

「お客さんに『君は林眞須美の子供でしょ』と素性を言い当てられたことがあるんです。すると店長から、『店の衛生上よろしくない』とクビを言い渡されました」

この頃には、大人になっても「死刑囚の子供」であることがより重くのしかかることを悟った。そんな孝司にとって唯一といっていい趣味が音楽であった。

「施設の先輩の影響で『ザ・ブルーハーツ』をよく聴いた。曲を聴いて勇気づけられたりもしたんですが、イジメも差別もいっこうに収まらなかった。正直、この歌は僕のような境遇の人にとってはきれい事で、『ヒロトもマーシーも僕を救ってくれない』という感覚にもなった。バンドメンバーからも、『君の後ろでドラムを叩きたくない』なんて言われたりして......。

ただ、『エレファントカシマシ』の宮本浩次さんの曲はすごく刺さった。きれい事ではない、人間のありのままのエゴ、孤独を歌う姿が私の心に染みたんです」

【長女の訃報】

林家のきょうだいにとって親代わり的な存在が長女だった。社会人となりひとり暮らしを始め、彼氏ができて浮かれる様子は、孝司からしてもうれしい出来事だった。その半面、どうしても不安は消えない。孝司さんは幸せ気分の姉に冷や水をかけることに心を痛めながらこう語りかけた。

「林眞須美の娘、息子は幸せになんかなれないよ。僕たちは道の真ん中を歩けるような人生じゃない。子供を産んで幸せになろうなんて間違いだよと伝えました。姉は複雑な表情を浮かべましたが、その後に結婚して子供を産み、林家とも次第に距離を取るようになっていきました。結婚後は、14年ほど姉と会わない時間が続きました」

そんな長女の訃報を21年に聞いたとき、孝司はなかなか現実を受け入れられなかった。報告のため母に面会に行くと、「信じられない」「結婚して幸せをつかんだと思っていたのに」と、言葉を詰まらせたという。孝司は「長女は長年ネット上での誹謗中傷に苦しんできた」と話す。

「事件から時間がたっても、長女や次女の犯人説が流布されていました。当然、すべてが臆測です。噂がひとり歩きし、臆測で無責任なネット民のアクセス稼ぎのための道具になってしまった面はある。

林家に生まれた呪縛のようなものはずっと後の人生につきまとった。仕事でも子育てでも、人間の嫌な面に直面していた長女が苦しんできたのは間違いありません」

健治の死後、眞須美が生前お世話になった人たちへの感謝を伝えた手紙。眞須美は晩年の夫の体調を気にかけていた健治の死後、眞須美が生前お世話になった人たちへの感謝を伝えた手紙。眞須美は晩年の夫の体調を気にかけていた

孝司に対して無罪を訴えている眞須美の手紙。何かしらの形で公開することを前提に、文面では「長男君へ」と記すことがふたりの間の決まり事だ孝司に対して無罪を訴えている眞須美の手紙。何かしらの形で公開することを前提に、文面では「長男君へ」と記すことがふたりの間の決まり事だ

眞須美の死刑台への思いが吐露された一文。自民党支持者であったという彼女は、法務大臣が代わるごとに経歴や思考を必ず調べ上げたという眞須美の死刑台への思いが吐露された一文。自民党支持者であったという彼女は、法務大臣が代わるごとに経歴や思考を必ず調べ上げたという

そして、やはり孝司も同じような経験をしてきた。

「どんな女性と付き合って楽しそうな顔を見ても、結末には責任は取れない。真実を伝えると自分の元から離れてしまうと思っていた」と、孝司は回想する。それでも、25歳で出会った女性だけは違った。林眞須美の子供であることをカミングアウトしても、「親と子供の人格は違うからそれでもいい」と受け入れてくれた。

この頃には長距離トラックのドライバーとして小さな会社で働くようになっていた。月に1度は母と面会をしつつ、女性との同棲生活も始めた。だが、次第に小さなズレも生まれ始める。

「できればお母さんと離れて、私との未来をつくっていってほしい」

結婚を見据えたその女性から、こんな詰問を受ける時間が増えていく。ちょうど再審請求が始まるタイミングで、母を見捨てることは選択肢にはなかった。

「両方(を取るの)はダメかな?」

喉元まで出かかった言葉を押し殺し、無理やり答えを出したふうに振る舞った。

彼女の実家に挨拶に行くと、両親は好意的だった。新婚旅行や結婚式の費用は父親が持つ、と提案された。だが、林家への挨拶は固辞するしかない。両親を交通事故で亡くしたという嘘の設定で通していたが、あまりに無垢に喜ぶ彼女の両親の様子に罪悪感が募っていく。同時に、「もしかしたら、このご両親なら大丈夫と言ってくれるかもしれない」と淡い期待もあった。

「実は林眞須美死刑囚の息子なんです」

意を決して打ち明けると、しばらくの沈黙の後、父親からこんな返答があった。

「死刑囚の息子に嫁にやるために、大事な娘を育てたわけではない。すぐに出ていけ」

父親の気持ちに立つと、恨みよりもどこか納得する気持ちのほうが強かったという。孝司にとって、事件解決を決意した出来事でもあった。

もし、林家の子供として生まれなければどんな人生を歩んでいたのか。和歌山から離れたら少しは状況が改善するのか。そんな自問自答を繰り返してきたが、出した結論はシンプルだった。

「もう自分の境遇から逃げない。仮に結婚して子供ができて幸せをつかんでも、母の死刑執行をニュースで見る日を想像してしまう。本当にこれで幸せだ、と子供に伝えられる自信もなかった。

何十年か後に、日本の司法はこれで本当に死刑にしたのか、という時代が訪れたときのことを考える自分もいる。そのとき、その息子や家族が何をしていたのか、と問われたときに恥じないような人生を歩みたい。だから法は絶対に犯さないことを肝に銘じて生きてきました」

【「死刑囚の子供には生まれたくなかった」】

息子から見た、父と母の関係性は特異なものである。裁判資料上、父の健治は母から保険金詐欺を仕掛けられた〝被害者〟だ。獄中の林眞須美からは、健治に対して何度も離婚届が届いたこともある。それでも婚姻関係は継続してきた。

「父が母に最後に会ったのは去年の5月。父は体調の問題から、年に1度の頻度で面会しました。互いを『健ちゃん』『マミー』と呼び合っており、判決文にある、毒を夫に飲ませ殺そうとした関係にはとても見えず、仲が良い夫婦にしか映りませんでした。父は私に『マミーが本当にやったと思うか?』と折を見ては問いかけていましたね」

父の死後、孝司は母と3度面会している。その様子は印象深いものだった。

「最初に伝えたときは、母の全身にじんましんが出るほど取り乱し、面会が一時中断に。その後は、『再犯をせずに懸命に生きた』としみじみ話していた。

最後は、小鳥が囚人部屋の前で鳴き声を上げた様子を見て、『最後に健ちゃんが会いに来てくれた』と言っていました。ふたりの関係は、子供から見ても不思議なものでした。そんな母の様子を見て、自分だけは母と最後まで向き合わなければいけない、とも決意しました」

筆者は孝司と同じ年だ。出身も関西の田舎と重なる部分も多く、その発言には思わず相づちを打つものも多かった。孝司はいつも明るく、事件や家族のことを聞いても、冗談交じりに近況を明かす。

酒席でも必要以上に周囲の空気感を気遣うような性格の持ち主だ。しかし、それらの性質も「死刑囚の息子」として生き抜き身につけた処世術の一環であるのかもしれないと感じることもあった。孝司が言う。

「どうしたらイジメられないか、こうしたら人が仲良くしてくれる、と顔色をうかがうことはもう癖になってしまった。ネットの声も気になるから、エゴサーチもしてしまう。それが加害者家族として生きて身についたリアルでもあります。

林家に生まれたから、いろんな方と会えたし、貴重な経験もできた。でも、本音で言うならやっぱり死刑囚の子供には生まれたくなかったです。希死念慮もあったし、長女の選択をうらやましく思ったこともある。それでも、『やっていない』と言っている母を信じる役割を、息子として最後まで果たすつもりです」

1998年10月4日、大勢の報道陣が見守る中、逮捕された林眞須美容疑者を乗せて、自宅から和歌山東署に向かう車。報道の過熱ぶりはやがて林眞須美の家族にも向けられ、子供たちに大きな傷を残した(写真提供/共同通信社)1998年10月4日、大勢の報道陣が見守る中、逮捕された林眞須美容疑者を乗せて、自宅から和歌山東署に向かう車。報道の過熱ぶりはやがて林眞須美の家族にも向けられ、子供たちに大きな傷を残した(写真提供/共同通信社)

事件から今年で28年。現在は、3回目の再審請求中であり、証拠の補充などを進めている。それは孝司にとって、自分の人生を前に進めることと同義なのだろう。

●栗田シメイ
1987年生まれ、兵庫県出身。広告代理店勤務、ノンフィクション作家への師事、週刊誌記者などを経てフリーランスに。世界40ヵ国以上でスポーツや政治、経済、事件、海外情勢などを幅広く取材。 著書に『コロナ禍を生き抜く タクシー業界サバイバル』(扶桑社新書)、『ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス』(毎日新聞出版)。新著は『檻の中のルフィ 闇バイトを生んだ者たち』(講談社)

  • 栗田シメイ

    栗田シメイ

    くりた・しめい

    1987年生まれ、兵庫県出身。広告代理店勤務、ノンフィクション作家への師事、週刊誌記者などを経てフリーランスに。世界40ヵ国以上でスポーツや政治、経済、事件、海外情勢などを幅広く取材。 著書に『コロナ禍を生き抜く タクシー業界サバイバル』(扶桑社新書)、『ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス』(毎日新聞出版)。新著は『檻の中のルフィ 闇バイトを生んだ者たち』(講談社)

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