今も大物助っ人の「失敗例」として語られることの多いバンプ(写真=共同通信社) 今も大物助っ人の「失敗例」として語られることの多いバンプ(写真=共同通信社)
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第6回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第6回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎が、自身も務めた「2番バッター」について論じる。(文中敬称略)

■年俸差10倍の大物メジャーリーガーとの2番争い

プロ入り3年目の1983年シーズン、それまでの9番から「1番・福本豊」「3番・簑田浩二」の間の2番バッターを任されるようになった弓岡は、以後、3年連続リーグ最多犠打(83~85)を記録するなど、2番バッターとして「繋ぐ役割」に徹して上田阪急に貢献した。

「シーズン当初、2番を打ってたバンプが、2番バッターとして機能しなかったんですね。バンプは、バントしたがらない。で、打撃も不調になったんで、たまたま僕はそこにうまいことハマったんですよね。 オフに山内(一弘)さんから教えてもらって打撃もだいぶよくなってきた。1年目、2年目も9番でずっとバントしてましたからね。繋ぐ役目の2番いうのは、全然問題なかった。 当時は初回からでもバントしてました」

バンプ・ウィルスはメジャー通算196盗塁、俊足と堅い二塁守備が特徴のスイッチヒッターで、83年シーズンから年俸1億円・4年契約で阪急ブレーブスに入団した。

「上田阪急、優勝のキーマン」と期待されたバンプだが、同じタイミングで入団したブーマーが日本式の野球を理解しようとコーチに助言を求めて努力したのとは対照的に、メジャーリーガーとしてのプライドが非常に高く、コーチはおろか上田利治監督の助言にさえ耳を貸さず、日本の野球に馴染もうとはしなかった。

ちなみに年俸1億円のバンプに対して、ブーマーの初年度の年俸は移籍金と合わせても4000万円に届かなかった(それでも3A時代の5倍だったという)。

阪急が6年ぶりにリーグ優勝した翌84年シーズン、バンプは極度の打撃不振に陥っても相変わらず身勝手な行動が目立ち、首脳陣とも衝突を繰り返す。ついに堪忍袋の尾が切れた上田監督はバンプに二軍行きを命じた。ところがフロントからは「契約上それはできない」と止められてしまい、逆に上田監督が、翌日の試合指揮を拒否する内紛劇にまで発展した。

結局、バリバリの現役メジャーリーガーとして活躍を期待されたバンプはシーズン途中の8月に帰国、同年限りで退団した。

3年連続リーグ最多犠打を記録した弓岡のバント技術(写真=共同通信社) 3年連続リーグ最多犠打を記録した弓岡のバント技術(写真=共同通信社)
一方、3A時代にスカウトされて入団したブーマーは、84年シーズンに来日外国人選手初の三冠王に輝いてリーグ優勝に貢献して以降もさまざまなタイトルを獲得。身長2m、体重100kgの巨漢ながら堅実な守備でゴールデングラブ賞も2度受賞した。

穏やかで謙虚な人柄で上田監督はじめ首脳陣、チームメイトからも信頼を得て、通算10シーズン日本でプレー。最高年俸も2億円近くまで跳ね上がり、ジャパニーズドリームを手に入れた。

年俸1億円のバンプに対して、83年シーズン当時の弓岡の年俸は1000万円にも届かなかった。しかし、同シーズンの弓岡は2番バッターとして、バンプの代役以上の仕事をし、リーグ優勝した翌84年は盗塁こそ減ったものの、リーグ最多記録の犠打はもちろん、打率、打点、本塁打そして盗塁まで、バッターの成績に関するほぼすべての項目で大物メジャーリーガーを上回った。

■村田兆治のデッドボールで救急車に

「2番で何が大事か。ワンアウト1塁で、2番の僕が打席。ここでゲッツー喰ろうたたらあかんわけですよ。もしヒット打てなくても、必ずランナー残さなあかんわけです。ほんなら、フライ打つか、三振か、どっちかなんですよ。とにかく自分がアウトになっても、3番の簑田さんにランナー残すというのを気つけてました。セーフティーバントしたりとかね、サインもないのに、それはようしてましたね。

プレッシャーはまったくありませんでした。とにかく繋いだらええ、自分の仕事をすりゃあええだけで、サインが出たらサイン通りに動いて、意図を汲んでやればええわけで。僕の性格からしたら、2番バッター、性に合ってるなと思ってました」

弓岡は、自他共に認める「フォア・ザ・チーム」精神の持ち主で、あらゆる方法で確実にランナーを進めて得点を奪う、いわゆるスモール・ベースボールに適応した生粋の2番バッターだった。ただしバントについては、ある投手との対戦をきっかけに、以後は恐怖心と戦いながら積み重ねていた。

「若い頃に一発、村田兆治さんの球喰らったんです。当時はピッチャーが、バッターをビビらせるためインハイの際どいコースに投げるいうのも当たり前でした。それがちょっとずれて、ガーン!と当たって倒れた。

救急車乗って兵庫医大、行きましたわ。検査を受けてどこも異常なかったんで、次の日試合出たら、村田さんからもロッテ球団からも一切謝罪あらへんのですよ(笑)。村田さん、当てたときも『避けんかい!』いうような態度でした。まあすごかったね。すごい時代や。今やったら大ごとですよ。それからはバントするとき、怖うなりましたね」

村田兆治のマサカリ投法からのデッドボールを喰らった(写真=共同通信社) 村田兆治のマサカリ投法からのデッドボールを喰らった(写真=共同通信社)
弓岡の現役時代はもちろん、平成の時代までは、日本の野球で2番打者と言えば「繋ぐ役割」というイメージが強かった。しかし現在、2番バッターは大谷翔平をわかりやすい例に、メジャーリーグでは「2番打者最強説」が浸透しつつある。

メジャーリーグの流れは日本のプロ野球でも広まり、2番は繋げる職人タイプよりも、高打率で打点の稼げる中長距離バッターが多くなった。特に、確実に得点を奪うためとはいえ、初回からバントで攻撃する作戦はプロに限らず少年野球などアマチュアでも敬遠されがちだ。

「最近、僕もあんまり最初からバントのサインは出さんようにしてます。そらあ足の速い選手をランナーに置いたりして、ゲッツーのリスクがなかったらバントをやってますけどね。前半はできるだけ打たせる。でも、ここぞというときは、1回でもバントします。雨降りそうかなとか、今日このピッチャーからは点が取れそうもないというときはね。

今の少年野球なんか、バントさすなって言うとるわけですよね。『子どもにそんなバント教えて何が楽しい? 打たしたってくれ』っていうような親も、ようけおるみたいなんで(笑)。世間がそういうふうになってきとるからね」

■4番でもバントせなあかんときはある

プロアマ問わず野球界の流れは、犠打はもちろん、セーフティー、スクイズも含めて、「バント」というプレーに対して好印象を持たない人たちも多くなっているようだ。少年野球でも子供たちに野球の楽しさ、面白さを教えるため「バント禁止」という大会もあるようで、バント練習自体しないチームもあると聞く。

かつてプロで生き残るため、バント技術に磨きをかけた弓岡自身も「得点できるなら何がなんでもバント」とは思っていない。しかし、バントも野球における大切な武器のひとつであり、ヒットやホームランと同じように野球の魅力を表現する技術であってほしいとは願っている。

今年3月のWBC準々決勝、日本vsイタリア戦。3回、1アウト1塁の場面で、先発マウンドにも登っていた「バッター大谷」は、先制点につながるセーフティーバントを見事に決めてみせた。試合は9対3で日本の快勝。試合後、大谷は「無理に(打ちに)いってゲッツーが最悪のシナリオなので。リスクを回避しながらハイリターンを望めるチョイスをした。ビッグイニングを作れてよかった」とコメントしている。

「高校野球でも、あんまり名門じゃないチームでもそないして、バントせず打たしとるでしょ。それも大事なことかも知らんけどね。せやけどプロの3番、4番打っとっても、バントせなあかんときはある。やっぱりバントも教えないかん。少数派になればなるほど、それができる人の価値は上がりますよね。 『おおっ、あいつは長距離打てるのに、意外にバントも上手やないか!』というのも、あってもええと思うんです」

野球の醍醐味は、豪快なホームランやヒットで得点を奪うことだけではない。時には小技を駆使してチャンスを広げたり、安打なしで貴重な1点を絞り取るようにして勝利を掴むことも面白さのひとつ。弓岡の話を聞きながら、そんなことを実感した。

(第7回につづく)

バントの大切さも含めて愛媛の若い選手を指導する弓岡 バントの大切さも含めて愛媛の若い選手を指導する弓岡
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

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会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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