
布施鋼治
ふせ・こうじ
布施鋼治の記事一覧
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
9R、失速気味のエストラーダに容赦ない右アッパーを見舞う天心
4月11日、東京・両国国技館に足を運んだ者でならば、ネットにどんなにネガティブな声があがっていようと肌身で体感したはずだ。メインイベントで場内に渦巻いた熱気と緊張感を。それだけ那須川天心(帝拳)とファン・フランシスコ・エストラーダ(メキシコ)の間で争われたWBC世界バンタム級挑戦者決定戦は、ビッグマッチに相応しいピリピリとした空気が充満していた。
セミファイナルまでは波乱続きの興行だった。前日計量で前WBA世界ライトフライ級王者の高見亨介(帝拳)が体調不良により、メキシコの世界ランカーとの試合中止が発表された。第2試合に出場した異色の″逆輸入ファイター″秋次克真(日本/アメリカ) は、接戦の末WBCの世界ランカーに敗れた。
極めつけはセミファイナル。プロ転向後3戦全勝(2KO)と勢いに乗る坪井智也(帝拳)は、2Rに起こった偶然のバッティングにより元世界2階級制覇のペドロ・ゲバラ(メキシコ)が試合続行不可能となったため、不完全燃焼としかいいようのない負傷判定ドロー(のちにノーコンテストに変更)となってしまった。
坪井VSゲバラが終わると、観客席から「この興行はズタボロだな」という声が飛んだのも頷ける。しかし、天心が入場する場面になると、空気は一変した。赤コーナーの花道の両脇にはスマホを手にした観客が押し寄せ、再起を誓う天心の登場を待ったのだ。
試合前、客入れ前の国技館のリングを入念に確かめた天心は勝者のアピールの予行演習
デジャブ(既視感)。キックボクサー時代から天心を見続けている筆者は2019年夏、エディオンアリーナ大阪で見たムエタイの強豪選手が待つリングに向かう花道と重なり合った。その日、天心は大阪初登場だったが、期待感は想像以上に大きく、入場前から花道にファンが殺到し熱気が充満していたのだ。
その時点で天心はすでにRIZINにも登場しており、すでに知名度は全国区だったが、「天心は、格闘技の枠を超えたスターになる」と想像せざるをえなかった。あの日のエディオンアリーナの空気とこの日の両国のそれが結びついたのは偶然ではあるまい。
ボクサーとしての天心にとって、エストラーダ戦は井上拓真とのWBC世界バンタム級王座決定戦以来、5カ月ぶりのリングで、再起を誓う神童にとって大きな節目だった。そんなシチュエーションを観客は好意的に受け止めていた。拓真と闘ったときは大半の観客が「拓真の応援団ではないか」と勘繰りたくなるほど、「拓真コール」がこだましていたのだから、えらい違いだ。
「テンシン~ッ」
試合が始まると、観客席から子供からの温かい声援が目立っていた。そもそもキックボクサー時代から天心は子供たちのヒーローだった。その流れはボクサーとなった現在も綿々と受け継がれており、この日も全国の児童養護施設やファミリーホームで暮らす子供たちを会場に招待する「TENSHIN FAMILY PROJECT」を実施。会場入りすると、子供たちとの記念撮影に応じていた。
別に承認要求が強くてやっているわけではない。その証拠に、決戦4日前の会見後の囲み取材で天心は今回過去最大のプレッシャーがかかっているのかという問いに、次のような解答をしている。
「別にどう思われようと関係ない。本当に裸一貫やるだけというか」
子供のファンにやさしく接するのは当たり前。少なくとも、おざなりに扱ったことなど一度も目撃したことがない。ボクシングでも、天心は年配の支持層が多い世界に新たに子供のファン層を取り込もうとしている。
1R、エストラーダを鋭い眼光で見据える天心。逃げずに打ち合うと決めた男の姿だ
エストラーダの右を被弾する天心
176センチのリーチから繰り出す天心のロングフックがエストラーダに炸裂。試合序盤からお互い有効打の応酬を見せたが、踏み込む力とスピードは天心に軍配が上がる
知っての通り、試合は9R天心のTKO勝ちで幕を閉じた。ボディへのダメージが蓄積したエストラーダは棄権せざるをえないほどの状況に追い込まれていた。それでも外野からは「6ラウンドのバッティングが勝負の大きな分かれ目になった」という声も出た。
異論はない。ただ、このとき前に出たのはエストラーダの方で、天心からのアクションで発生したアクシデントではないではないか。
試合後、脇腹に痛みを訴え病院に緊急搬送されたエストラーダの代わりに会見に出席したメキシコのプロモーター、フアン・フェルナンデス氏も「バッティングはネガティブな状況を作ったかもしれないが、主な原因は脇腹の痛みだった」と敗因をシビアに分析した。
「天心のスピードに手を焼いた。わずかプロ8戦というキャリアだったが、スピードに関しては素晴らしいものがある」
しかも、このバッティングとほぼ同時に天心は左ボディアッパーを決めていた。その直後、左手を高々を挙げているのは、それでダウンを奪ったと思ったからにほかならない。
倒れた直後エルナンデスは天心の頭が当たった額を気にしていたが、同時に腹を縮めるような仕種をしていた。ボディが効いていなければ、こんな体勢はとらない。

6R、頭をぶつけ合いながら天心の左ボディが決まるとエストラーダはたまらずダウン。かと思われたがエストラーダがバッティングを訴え、スリップ扱いとなった
このときのボディアッパーを例にとるまでもなく、この日の天心はアッパーを多用していた。幻のダウンを奪った左のそれだけではなく、右の使い方も秀逸でアゴとボディを巧みに打ち分けていた。
過去8戦のボクシングのキャリアで天心がアッパーを使った記憶はない。拓真戦後、天心とコンビを組むことになった葛西裕一トレーナーとの練習で新たに身につけたテクニックだ。会心の勝利に、試合後の葛西は上機嫌だった。「右のボディのアッパーとか(通常の)アッパーが出ると、天心は負けない。(それが出ると)調子がいい証拠。今日はちょっと狙いすぎていましたけどね」
天心のアイデンティティも覆し、この試合からインターバルでイスに座らせた葛西トレーナー
拓真との闘いでは接近戦での対処が課題と指摘されていたが、今回はアッパーなどの攻撃を織り交ぜることでそれを見事に払拭したことになる。翌日、エストラーダの左のアバラ骨が2本折れていることが判明した。
天心は「腹だけではなく、上(顔)も効いていた」と打ち明ける。
「でもごまかし方がうまかったし、向こうが狙っている感じもずっとあったので、不用意に行くことはできなかった。ただ、しっかりとジャブを使って、自分の距離を作るというのはずっとできていた。前回の試合ではできなかったことなので、成長できたかなと思っていきます」
人は5カ月という短期間でも、大きく変わることができる。葛西トレーナーとのコンビで新たな一歩を踏み出した天心はそれを如実に証明した。一度の躓(つまず)きくらいでは挫けたりしない。子供たちも憧れるニューヒーローのサクセスストーリーはこれから始まる。
ファンに揉みくちゃにされながら花道を引き上げる天心。キック時代からの蓄積があった葛西裕一トレーナー(右奥)は、喜びを爆発させる愛弟子・天心の会心の勝利に満足げな表情を見せる