
布施鋼治
ふせ・こうじ
布施鋼治の記事一覧
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
総合格闘技で日本人選手として初めて吉田秀彦に土をつけた菊田早苗(左)
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第60回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。
「あの吉田秀彦に勝ったというのに、その割に名前は出ていないよね」
ある日、安生洋二はそう言いながら菊田早苗の気持ちを慮(おもんぱか)った。日本人男子として初めてアブダビ・コンバットで優勝したことは知れわたったが、それ以外にも菊田はあまたの勲章を残している。
そのひとつは2009年1月4日、『戦極の乱2009』で吉田秀彦を破った一戦だろう。知っての通り、吉田はバルセロナ五輪柔道78㎏級の金メダリスト。2002年8月28日にはMMA転向を果たし、UFCで総合格闘技の礎を築き上げたホイス・グレイシー(ブラジル)からグラップリングルールながら一本勝ちを奪うという快挙をやってのけた。
その後はドン・フライ(アメリカ)、佐竹雅昭、田村潔司から3連勝をマークするなど、期待に違わぬ活躍を見せ、総合格闘技でも一時代を築き上げた。菊田との一戦はキャリア晩年に組まれた大一番だったが、当時のマスコミは〝柔道世界一vs寝技世界一〟とあおった。
ちょうど日本格闘技界はPRIDE消滅に伴う再編の時期で、PRIDEのスタッフと同プロモーションのライバルだったHERO'Sが合体して新プロモーションのDREAMが誕生したばかり。その一方で、 木下工務店やドンキホーテを後ろ楯としたワールドビクトリーロード社によって新たなMMAイベント『戦極』が旗揚げされ、DREAMと真っ向から対立する図式となっていた。吉田vs菊田は戦極の新春ビッグマッチの目玉だった。
17年前の大一番を、菊田はアブダビでのトーナメント組み合わせとともに懐かしむ。
「アブダビではもう一方のブロックに、自分が脱走したUWFインターの田村さんがいた。戦極では、僕は大学の途中で柔道界を去ったのに、吉田さんと向かい合っていた。二度と会うことがないと思ってた人たちが、なぜか目の前にいる。僕の波瀾万丈の人生の象徴だと思いますね」
菊田は中学から大学の途中まで柔道に打ち込んだ。最高の成果は国体優勝。大相撲の番付のように柔道は「どのレベルの大会で優勝したのか?」で評価される実力本位の社会だ。その最上位にあるオリンピックの頂きを極めた吉田と、国体優勝の菊田では月とスッポンの差があった。
「極端な話、吉田さんや瀧本(誠)がオリンピックを目指している頃、僕は日体大で(下級生の雑務のひとつとして)掃除やゴミの分別をやっていた。ゴミ箱には先輩が吐いたゲロとかあって、『もう最初から別のところで吐いてくれよ』と泣き言を言いたくなるような世界でした(苦笑)」
菊田は「皆さん、そこのところをよくわかっていないと思うんですけど」と前置きしつつ、オリンピックで金メダルを獲得する柔道家のすごさを語った。
「彼らはまず第一に体力のプロなんですよ。異常な体力と運動神経を持っている。だから吉田さんがヴァンダレイ・シウバと打ち合ったとき、吉田さんに対して『柔道家なのに打ち合ってすごい』という評価もあったけど、逆なんですよ。そういう素質を持った柔道家と殴り合っているシウバがすごいんです」
吉田が出場したバルセロナ五輪で同じく金メダリストとなった古賀稔彦は、日体大柔道部で菊田の4年先輩だが、一度も稽古をさせてもらったことがないという。それだけ格が違ったのだ。菊田はただ古賀の練習を目の前で見ているだけだったが、「軽量級の古賀さんのテクニックはハンパじゃない」と評した。
「柔道は相手の道衣を握る手首の使い方に秘密があって、古賀さんの掴みに特化したテクニックは誰にも真似できない」
その一方で、柔道衣を着た柔道での強さと裸で闘う総合格闘技の強さは違うと力説した。
「古賀さんのような人は裸がさほど得意ではないかなと思います。瀧本もどちらかといえば、古賀さん寄り。吉田さんと小川さんは総合に向いてるまた違うタイプなんですよ」
瀧本はシドニーオリンピック柔道81㎏級の金メダリスト。のちに総合格闘技に転向し、2005年12月31日開催の『PRIDE男祭り』で菊田と激突したが、0-3の判定で敗れている。
ふたりの五輪金メダリストを破ったことを菊田はいまでも大きな勲章と受け止めている。
「吉田さんと瀧本に組み技で勝負しにいって勝てたことは僕の中ではいまだ誇りです。打撃で勝つのとでは意味が違うんです」
菊田が主宰する新宿スポーツセンターでの合同練習にも柔道界の超大物が現れたことがある。当時、和術慧舟會に所属していた村上一成に連れられ、小川直也がやってきたのだ。
そのときの小川の尋常ではない強さは、その場に居合わせた選手たちの間でいまだ伝説になっている。寝技のスパーリングは重量級の小川が下になってスタートしたが、上になった者がことごとく返されてしまったというのだ。菊田も「裸であんなに強いとは思わなかった。レベルもセンスも違っていた」と振り返る。
そのとき小川は柔道衣を着用していたわけではない。菊田たちの練習スタイルに則り、グラップリング仕様の服装だった。なぜ小川は裸でも強かったのか。柔道時代の小川の恩師を知る菊田は仮説を立てる。
「明大に坂口征二さんと同期の関勝治という先生がいました。僕も教わったことがあるんです。関先生から『裸で寝技をやれ』という指導を受けたことが何度もあったと聞きました。だからPRIDEに出たときには、すでに裸で闘うことに免疫があったんですよ」
小川の実力を知っているがゆえに、2005年12月31日の『PRIDE男祭り』で小川が吉田と闘うことになったとき、菊田は小川有利の予想をした。
「途中でアクシデントもあったけど、ああいう結果(1R6分4秒、腕ひしぎ十字固めで吉田の一本勝ち)になるとは思わなかったですね。吉田さんの底知れぬ強さを見ました」
アクシデントとは、吉田が仕掛けたアンクルホールドによって、小川の左足首が骨折してしまったことを指す。折れた状態のまま、小川は戦い続けたのだ。その約3年後、自分のところに吉田との一戦のオファーが舞い込むと、菊田は「小川直也を破った吉田秀彦と自分が闘うなんて」と気持ちを高ぶらせた。
菊田の性格はネガティブに見えて実はポジティブ。周囲の心配とは裏腹に、「こうすれば、吉田さんに勝てるんじゃないか」という気持ちが上回った。
「アブダビのときと一緒ですね。絶対無理と予想されればされるほど燃える性質なんですよ(微笑)」
得体のしれない自信ではない。「勝てる」という具体的な根拠もあった。
「まず絶対パスガードされない自信はありました。試合になったら吉田さんに投げられるだろうけど、足関節を狙うふりをすれば上になれると思いました」
柔道家時代の吉田が絶対王者の立場だったことも、総合格闘技では逆にアドバンテージになると考えた。
「吉田さんは寝技で下になったことなんて、たぶん人生の中でほとんどなかったと思う。だったら、寝技で下になったら弱い、と思ったんですよ」
その一方で最悪のパターンも予想した。
「吉田さんに投げられ、そのままケサ固めで抑え込まれる。柔道を通して、僕はケサの恐ろしさを知っていたので、投げられる前に引き込むしかないと思いました」
いざ試合になると、試合はほぼ菊田の思惑通りに進んだ。1R中盤に寝技の展開になったが、上になったのは菊田のほうだった。下になったのは2R。自ら引き込むようにして吉田を寝技の世界へと誘う。立ち上がってパウンドを狙う吉田にヒールホールドやアキレス腱固めを仕掛ける場面もあった。その後も菊田は下から徹底して吉田の足関節を狙い続けて試合を優位に進め、マウントポジションやバックマウントを奪い、吉田にパウンドを打ち込んだ。
スコアは2-1だったが、吉田に票を入れたジャッジにその理由を聞きたくなるほど、菊田の完勝に見えた。最大の勝因を訊くと、菊田は「微妙に足関節技を混ぜたから」と答えた。
「正道会館で本間(聡)さんに足関をやられまくったおかげで、足関を防ぐことは得意になっていた。一方、柔道には足関がないので、『足関をとるぞ』と見せかけ、上になるというプランもありました。それを何度も何度も繰り返したわけです」
菊田は瀧本戦も吉田戦とほとんど同じ作戦だったと明かす。
「吉田さんと同じように、瀧本も引っかかってくれた」
〝寝技世界一〟の称号は伊達ではなかった。ルールが違えば、強さのスケールも違ってくる。菊田戦後、吉田は総合格闘家としての引退を示唆した。
(つづく)
●菊田早苗(きくた・さなえ)
1971年生まれ、東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。「ザ・トーナメント・オブ・J」を96年、97年と連覇し、リングス、PRIDE、パンクラスなどで活躍。2001年にアブダビ・コンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝。総合格闘技戦績31勝9敗3分1無効試合。