写真=福田直樹
2026年9月5日、東京・後楽園ホールで開催されたボクシングのWBOアジアパシフィックバンタム級タイトルマッチにて、同級王者の伊藤千飛(せんと、真正)は3回TKO勝利し初防衛に成功した。井上拓真、増田陸といった現役世界王者はじめ、休養王者の堤聖也や那須川天心など実力者がひしめく日本のバンタム級戦線に名乗りを上げた21歳の若者が胸に秘めた思い。そこには、トレーナー人生の集大成をかけて戦う名伯楽と、リング禍でグローブを置いた亡き先輩の存在があった。
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「東京のボクシングファンに名前を覚えてもらう意味でも、『絶対、倒さなきゃあかん』というプレッシャーはありました。でも、山下会長とめちゃめちゃ追い込んで練習してきた右ストレートでKOできたので、嬉しかったです」
試合を終えて移動した、東京ドームの脇にあるベンチ。イルミネーションの消えた真っ暗な闇のなかで、千飛はそう答えて安堵の表情を浮かべた。
2026年9月5日、東京・後楽園ホール――。
WBOアジアパシフィック・バンタム級王者の伊藤千飛(真正)は、3回50秒TKO勝ちで初防衛に成功した。デビュー以来、7戦全勝。うち6試合がKO勝利という文句のつけようのない戦績である。
関係者の間では早くからその実力を高く評価されてきたが、この日の鮮烈な勝利で、「伊藤千飛」の名はひろくボクシングファンに知られることになったはずだ。
間違いなく、世界チャンピオンになれる逸材――。
井上尚弥、拓真ら数多くの世界王者を輩出してきた大橋ジムの大橋秀行会長。「神の左」を持つ男と呼ばれた元WBC世界バンタム級王者、山中慎介。そして、これまで千飛をスパーリングパートナーとして招いてきた寺地拳四朗や堤聖也ら現役世界王者たちも才能を高く評価している。
デビュー当時は「ミライ・モンスター」「ネクスト・モンスター」などと呼ばれたが、ここ数戦で見せてきた成長ぶりを考えれば、もはや「ミライ」や「ネクスト」という言葉で形容するようなボクサーではない。
20歳でアジアパシフィック王座を獲得し、21歳で迎えた初防衛戦では得意の右ストレートで鮮烈なTKO勝利。「いつか世界へ」と期待されるだけの存在ではなく、現実にその舞台を見据えて歩み始めていた。


「はい、ワンツー!」
「いいよーっ」
初防衛戦まであと3日に迫った2026年9月2日、真正ジムを訪ねた。千飛は練習の総仕上げ、最後のミット打ちをしていた。
「ええパンチや。もういっちょ!」
「はいっ!」
パンチを受け止めるのは真正ジムの会長であり、千飛の専属トレーナーでもある山下正人。世界3階級制覇を成し遂げた長谷川穂積をはじめ、複数の世界王者を育てた名伯楽だ。いまは、男子ボクサーでは千飛のみ指導している。
窓を閉め切り、暖房を入れたジムの室内は蒸し暑かった。バンタム級のリミットは118ポンド(53.52キロ)。プロになって身体が逞(たくま)しさを増した千飛にとって、決して容易に調整できる階級ではない。
真っ赤な巨大なボディミットを装着し、黒いタンクトップに短パン姿。そんな山下に、長袖・長ズボンの黒いサウナスーツを着込んだ千飛が、次々とコンビネーションを繰り出す。
鋭い踏み込みから放たれる、力感あふれるパンチ。
減量の影響で頬はこけ、表情も険しい。それでも、大きく見開かれた瞳には生気が満ちていた。
「千飛、ここ最近、びっくりするぐらい成長してますよ。いまめちゃくちゃ強いです。今年の4月の試合、その少し前の3月ぐらいからかな。千飛の才能と、山下会長が教える技術が組み合わさって、一気に成長したように感じますね」
リング脇で見ていた元WBA世界スーパーバンタム級王者の久保隼は、右手に持ったスマートフォンでミット打ちの様子を撮影しながら話した。
4年前に現役を引退した久保。彼もまたかつて真正ジムに所属し、山下の指導を受けて世界チャンピオンになった教え子のひとりだ。現在はアスリートを支援する会社を立ち上げて奔走するかたわら、時折、こうして顔を出しては手伝いをし、関西で試合があればセコンドスタッフも引き受けている。
「以前、誰かに『そのジムがいいジムかどうかは、引退した選手がどれくらい来るかを見ればわかるよ』みたいなことを言われたんです。『久保さんはいまでも(真正ジムに)顔出してますもんね』って。山下会長だからじゃないですか。特に僕は、ものすごくお世話になりました」
久保は中学生の頃、「プロになるなら東京、帝拳ジムで」と決めていた。大学卒業後、一度はボクシングを離れた。ふたたびグローブをはめると決めた頃、山下から声をかけられた。初めてミットを構えてもらった時、気持ちはすぐに決まった。「この人について行く」と――。
山下が構えるミットは、「拳の力を最も発揮できる位置にある」と久保は話した。初めて構えてもらった時、サウスポーの久保がリードジャブを使うための右腕の使い方、サークリングの方法など、それまで誰からも教わったことのなかったような技術を、まだ入門すると決めたわけでもないのに惜しげなく授けてくれた。
「この人とならば、世界までたどりつけるかもしれない」

プロデビューからおよそ4年後、久保は12戦目でその夢を叶えた。
「山下会長のミット技術は世界一だと、自分は思います」と久保は話す。ただしそのすごさは、リング脇で眺めているだけでは、なかなか見分けられないそうだ。見た目は決して派手ではない。むしろシンプルな動きばかり繰り返す。だが、実戦で使える動きを選手の身体に染み込ませようとすれば、こうした地味な反復練習こそが大切だと、久保は山下から学んだ。
山下のミットを正しく打ち抜けたあとは、背中の筋肉に心地良い張りを覚えたという。その張り具合で、調子の良し悪しも確認できた。「なぜ、ここで打つのか」「なぜ、その場所を狙うのか」。ひとつひとつの「なぜ」の理由を理解できる段階まで到達して初めて、山下と交わすミット打ちの、本当のすごさがわかるのだそうだ。
「山下会長も千飛も、すごく楽しそうにやっているな、という印象ですね。ふたりのミット打ちを見ていると、やっぱり昔を思い出しますね。千飛が少し、うらやましいかな。山下会長、『自分がミット構えられるのは、千飛が最後や』って、いつも話していますからね」
現在64歳。長谷川穂積から始まったトレーナー人生もまもなく30年を迎える。
現役でミットを構えられるのは、千飛が最後――。
だが本来、トレーナー人生の最後を懸けようとしていたボクサーは別にいた。
穴口一輝――である。

●伊藤千飛(いとう・せんと)
2005年6月25日生まれ、21歳。兵庫県伊丹市出身。元プロキックボクサーの父親の影響で4歳からキックボクシングを始め、ジュニア日本王者に。同時にボクシングにも取り組む。興国高校進学後、ボクシングに専念し、選抜2冠、アジアユース&ジュニア選手権銅メダル獲得。2024年4月20日に真正ジムからプロデビュー。今年9月、WBOアジアパシフィックバンタム級チャンピオンの初防衛に成功。次戦は、日本王座最強挑戦者決定戦に出場する予定。通算戦績7戦全勝6KO。
●山下正人(やました・まさと)
1962年4月30日生まれ、63歳。高知県生まれ。真正ボクシングジム会長兼チーフトレーナー。高校卒業後、兵庫県警警察官となり、主に暴力団対策本部の刑事として勤務。35歳の時、体を鍛える目的で入会した千里馬神戸ジムで長谷川穂積と出会い、36歳で警察官を退職しトレーナーとしてともに世界を目指し始める。以来、男女合わせて5人の世界王者の育成に携わる。2005年度、優れた実績を残したトレーナーに贈られる最高の名誉、エディ・タウンゼント賞受賞。
●穴口一輝(あなぐち・かずき)
2000年5月12日生まれ。大阪府岸和田市出身。芦屋学園高時代は選抜&国体の二冠。芦屋大進学後は東京五輪出場を目指すも予選敗退。ボクシングから離れるも山下にスカウトされて再起。井上尚弥4団体統一記念杯バンタム級モンスタートーナメントに出場し、2023年12月26日の決勝では、のちにWBA世界同級王者になる堤聖也と激闘を繰り広げた。同試合後に右硬膜下血腫で意識を失い、翌年2月2日永眠。生涯戦績7戦6勝(2KO)1敗。享年23歳。