
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
* * *
「日本タイトルなんて、簡単に取れるんちゃうんか、と思っていたんですよ。でも、同じ日本チャンピオン相手に、2度挑戦して2度とも引き分けました。3度目の日本タイトル挑戦の相手が、竹原(慎二)君でした。結果は2回KO負けです」
寺地永はそう振り返ると、照れくさそうに口元を緩めた。
1992年2月17日、東京・後楽園ホール――。
当時27歳だった永は、3度目の日本ミドル級タイトルマッチに挑んだ。
「両選手、リングに入場です。はじめに青コーナーより挑戦者、寺地永選手の入場です」
天井の照明が落とされた暗い場内に、リングアナウンサーのコールが響いた。母校・立命館大学ボクシング部OB会から贈られた山吹色のガウンをまとって入場。静まり返った花道をゆっくり歩いた。いつも通りポーカーフェイスのままリングイン。
「続きまして赤コーナーより、チャンピオン、竹原慎二選手の入場です」
相手は、20歳の若き日本ミドル級王者、竹原慎二(沖ジム)。竹原の名前がコールされると、後楽園ホールは一転、割れんばかりの大歓声に包まれた。
のちに日本人初、世界ミドル級王者となる竹原は、当時からかなりの人気者だった。後楽園ホールで戦うのは、この日が11戦目。デビュー以来1試合を除いてすべてこの場所、日本ボクシングの殿堂で戦ってきていた。

一方の永は、後楽園ホールはデビュー2戦目以来2年4か月ぶりだった。ファンの大歓声に包まれて入場する竹原を見て、永はあらためて「自分はこれから敵地で戦うのだ」と強く意識した。
竹原は前年の10月28日、永が2度挑戦していずれも引き分けた、西條岳人(さいじょう・たけひと/サカエ)に7回KO勝利して新王座に就いていた。
「ジャブとフットワークを使ったボクシング。それが僕本来のスタイルなんです。でも敵地ですからね、『倒さんと勝ち目はないな』と思いました。竹原選手との試合に関しては、最初から『倒すか、倒されるかや』という覚悟で戦いました」
27歳だった永の戦績は、9戦6勝5KO3分。
20歳の竹原は11戦全勝10KO。
ともに無敗で高いKO率を誇り、プロデビューも同じ1989年。身長とリーチは、永が身長187cm、リーチ190cm。竹原が身長185cm、リーチ188cm。ミドル級としては、ふたりとも恵まれた体格の持ち主だ。ただし歩んできた道やボクシングスタイルは対照的だった。
立命館大学ボクシング部出身で、全日本選手権準優勝。アマチュアで培ったフットワークと的確なジャブを武器に戦う永に対して、竹原は16歳で広島から上京。アマチュア経験はなく、少年時代はケンカに明け暮れた不良少年だった。
エリートボクサーvs叩き上げの雑草ボクサー。
観客はおそらく、そんな色分けをして、この勝負を楽しんでいたかもしれない。
ただ、永がどんな人生を歩んできたのかを知る者は、ほとんどいなかったはずだ。
永はリングで自分の名前をコールされると、20歳の若き日本王者に対して、右拳を拳銃のように向けた。憧れていた「The Hawk」の異名を持つ、世界2階級制覇王者ジュリアン・ジャクソン(アメリカ)を真似てみせた。
レフェリーから中央へと呼ばれた。竹原がさきほどのお返しとばかりに、額がつきそうなほど顔を寄せて睨(にら)みつけてきた。不良少年同士がタイマン勝負をする前の儀式、いわゆる「メンチ切り」というやつだ。永も引かず、ポーカーフェイスで応戦した。

30年の時を経た2022年、竹原のYouTube動画チャンネルの企画で再会したふたりはおたがいに、「試合を盛り上げるためにしたパフォーマンスだった」と明かし、収録後ははじめてともに食事にでかけて、酒を酌み交わしながら懐かしい昔話に花を咲かせた。
だが当時は、竹原のメンチ切りと永のポーカーフェイスの応酬で観客の熱量はさらに上がり、試合は開始早々から白熱した。
「試合始まってから、そこそこプレッシャーはかけてたんです。あそこまでプレッシャーかけたら、大抵の選手は引いてくれました。でも、竹原選手は一歩も引きませんでした。途中で気づいたんです。『これは試合やない、ケンカや!』って」
永は普段よりも両腕を高く上げて脇を固めた。得意とする軽快なフットワークとジャブを駆使したスタイルは捨てて、みずから接近戦を挑んで先制攻撃を仕掛けた。
竹原は引かない。手数は少ないものの「スキあらば一発で沈めてやる」といわんばかりの殺気に満ちあふれていた。プレッシャーをかけたつもりの永は、逆にプレッシャーをかけられているように感じた。
「それまで対戦してきた相手とは、まるで違いました。技術ももちろん高かったですけど、それ以上に殺気を感じました。『プレッシャーかけてるのに、なんで引かへんのや』って。『なんでや、なんでや』と思いながら戦ってました」
初回は甲乙つけ難い展開――。
ただ、試合の流れ自体は永が握っているように思えた。当時テレビ中継の試合解説を担当した具志堅用高氏も、永のボクシングスキルに感心していた。
2回開始52秒、右ストレートが竹原の顔面を捉(とら)えた。さらに、やや外側からの左ジャブ、右ストレートのワンツーが綺麗にヒット。
「これで主導権を握れる」
と永は思った。だがやはり竹原は引かない。それどころか、さらに殺気を増して向かってきた。
「ダウンする前に効かされたパンチは、まったく覚えていません。あとで映像で確認したら、左フックでしたね。でも、試合中は見えませんでした。最後の追い打ちの右ストレートは、おまけみたいなもんです」

一瞬の出来事だった。
2回終了まであと40秒。同時にパンチを出し合ったタイミングで、左フックでアゴを打ち抜かれた。永は脚に力が入らなくなった。踏ん張っているつもりでも身体が言うことを聞いてくれない。
最後は顔面に綺麗な右ストレートを浴びた。
「ダーゥン!」
実況アナが叫ぶ。後楽園ホールは大歓声。腰から砕けるようにして尻餅を突き、ロープに後頭部をぶつけた。ここから先、永は記憶がない。
後日、永は録画したビデオで映像を確認した。すぐに立ち上がったものの、何もできないまま滅多打ちにされていた。キャンバスに大の字になった自分を見て、レフェリーが試合を止めていた。
「引き分け、引き分け、KO負け......。独身やったら全然、構わないですが、結婚して子供もふたりいたんで、『もうええかな』と。『自分、ボクシングは向いてないのかな』と思い、このときに一度、『ボクシングは辞めよう』と考えました」
永は当時すでに結婚し、子供もふたりいた。長男は2歳で、次男は生まれて1か月あまり。ちなみにその次男というのが「拳四朗」だった。
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永がボクシングを始めたのは、高校1年生の終わり頃だった。アニメの「あしたのジョー2」を見て憧れを抱き、京都伏見にある京都拳闘会の門を叩いた。ちなみに中学までは野球少年だった。
1981年9月16日、アメリカ・ラスベガスのシーザーズ・パレス――。
シュガー・レイ・レナード(アメリカ)とトーマス・ハーンズ(アメリカ)による世界ウェルター級王座統一戦をテレビで観て、憧れはさらに強くなった。中量級を代表するスーパースター同士による世紀の一戦。保証ファイトマネーは、レナードが800万ドル(約18億円)、ハーンズが500万ドル(約11億円)。試合当日のドル円相場は1ドル約227円と、当時は現在よりはるかにドル高だった時代にもかかわらず、報酬は桁違いだった。
その頃、日本ボクシング界最大のスターは、具志堅用高。世界戦のテレビ中継は視聴率30パーセントを超えることも珍しくなく、スポーツの枠を超えた国民的英雄と呼べる存在だった。具志堅氏は後年、世界王座を初めて獲得したときのファイトマネーは、「100万円にも満たなかった」と振り返っている。その後、13度の世界王座防衛を重ねても、最高額は約7000万円だったそうだ。ちなみに1981年当時、日本プロ野球で最高年俸をもらっていたのは山本浩二(広島東洋カープ)で、5200万円(推定)だった。
「アメリカでボクシングしたら、たった1試合で、こんな夢みたいな報酬がもらえるんやなあ」
最初はそんな漠然とした憧れだった。それは紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、次第に目標へと変わった。
大学は1年間の浪人を経て立命館大学に進学し、ボクシング部に所属。同校にアマチュアの日本ミドル級ランカーがいることを知り、一緒に練習したいと思ったからだ。
4年時には主将に選ばれた。全日本選手権でも準優勝し、ソウルオリンピックの日本代表にもあと一歩まで迫った。アマチュアの通算成績は52戦49勝(25KO)3敗だった。
写真=篠原氏提供
大学卒業後は輸入衣料を扱う商社に就職し、大阪にある会社でサラリーマン生活を始めた。ボクシングは一度ここで辞めた。アマチュアで現役続行する道も、プロ転向の道も選ばなかった。
「未練はありませんでした。就職もせんと、ボクシングだけで生活していけるようになるとは思えませんでしたし、妻とも結婚を考えてましたので」
社会人生活も慣れてきた頃、「少し身体を動かしたい」と思い訪ねたのが、大阪の東成(ひがしなり)区にオープンしたばかりの陽光アダチジムだった。東成区は高校卒業後の浪人時代、新聞奨学生で住み込みで働きながら予備校に通っていた頃に過ごした馴染(なじ)みの土地だった。ただしあくまで、「気分転換で軽くサンドバッグを叩ければ」という程度の気持ちだった。この時点では――。
プロ転向は25歳のときだった。
「寺地、どうせジム通うんやったら、プロなれや。試合したら、ええ小遣い稼ぎになるで」
安達哲夫会長からある日、そう声をかけられた。アマチュア時代の経歴は誰にも話していなかった。おそらくどこかで噂を耳にしたのかもしれない。結婚して第一子も誕生し、給料は生活費としてすべて妻に預けていた。
「自分の小遣いは、ボクシングで稼いだらええか」
それが現役復帰、そしてプロ転向の理由だった。デビュー戦は初回KO勝利。2戦目も圧倒してKO勝利。安達会長の言葉通り、「ええ小遣い稼ぎ」になった。アマチュア時代、重量級離れしたフットワークと洗練されたジャブで勝利を重ねた技術は、錆(さ)びていなかった。
デビュー以来4連勝。わずか5戦目、プロ転向から1年も経(た)たずに、永は日本ミドル級タイトル挑戦までたどり着いた。
「日本タイトルなんて、簡単に取れるんちゃうんか」
と永は思った。
人生、そう簡単にはいかない。
タイトル初挑戦は引き分け。続くノンタイトル戦でも、タフな韓国人ボクサーを相手に引き分けた。その後、ふたたび西條岳人に挑んだ日本タイトル戦も引き分け。2戦連続でKO勝利を重ねたあと、「3度目の正直」と思い挑んだのが、竹原との日本タイトルマッチだった。
「竹原選手に負けて、もうボクシングは辞めるつもりで京都に戻りました。そしたら立命館大学のボクシング部の大先輩で、たまたま地元、城陽市役所の収入役の方がおられた。その方が、わざわざ東京まで応援に来てくれてはったんです。京都に戻ってきてから『ボクシングは辞めます』とご挨拶しに行ったら、『後援会を作ったるから、もうちょっと頑張ってみい』と背中を押していただけました。そんなありがたいお話をいただいてへんかったら、その時点で辞めていたと思います」
後援会ができたことで、しばらくは生活の心配もなくなった。会社には辞表を提出。「日本タイトルを獲得するまでは、ボクシング一本の生活に絞る」と決めた。将来のことは、ボクシングを引退してから考えれば良い。永は試合に負けたことで初めて、「人生を賭けてボクシングと向き合う」という覚悟ができた。
時を同じくして、ある大きな出会いをした。
「寺地会長、はじめは寡黙だったですね。僕のこと、どんなやつかもわからへんもんね、はっきり言うて。竹原さんとの試合については、寺地会長から後で聞いて知りました」
4度目の日本タイトル挑戦の少し前に知り合い、現役生活を最後までともに歩むことになる男。
いまは息子、拳四朗を支える、篠原茂清(しげきよ)だった。