
川喜田 研
かわきた・けん
川喜田 研の記事一覧
ジャーナリスト/ライター。1965年生まれ、神奈川県横浜市出身。自動車レース専門誌の編集者を経て、モータースポーツ・ジャーナリストとして活動の後、2012年からフリーの雑誌記者に転身。雑誌『週刊プレイボーイ』などを中心に国際政治、社会、経済、サイエンスから医療まで、幅広いテーマで取材・執筆活動を続け、新書の企画・構成なども手掛ける。著書に『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』(2009年、集英社)がある。
「鼻のかみ方」の研究で、故海野徳二氏が医学賞を受賞
笑えるが、考えさせられる研究に贈られるイグ・ノーベル賞。日本人の20年連続受賞を記念して、歴代の受賞研究を振り返る! 大真面目な研究の先に見えてきた、科学の意外な面白さとは?
9月3日にスイスで行なわれた「第36回イグ・ノーベル賞」の授賞式で、故・海野徳二氏(旭川医科大学名誉教授)が「鼻は片方ずつかむべきか、それとも両方同時にかむべきか?」という研究により医学賞を受賞した。
ちなみに、この研究が発表されたのは1977年。約50年の時を経て、今回の受賞に至ったのだ。
イグ・ノーベル賞とは、世界中のユニークな研究や発明などを表彰する賞のこと。今年はほかにも、世界25ヵ国以上で約1000枚のパンツを地中に埋め、2ヵ月後に掘り起こして土壌の状態を調べた研究なども受賞している。
約50年前に発表された研究が評価され、授賞式では代理出席した旭川医科大学の高原幹教授が鼻のかみ方を実演した
そんなイグ・ノーベル賞だが、実は日本人の受賞は今年で20年連続! この記録は果たして偉業と言えるのだろうか?
「掛け値なしに偉業と言っていいと思います!」
そう語るのは、イグ・ノーベル賞の日本担当ディレクターを務める立教大学理学部特任准教授の古澤輝由氏だ。
「そもそもイグ・ノーベル賞は1991年に、アメリカの科学ジャーナリスト、マーク・エイブラハムズ氏が中心となって、ノーベル賞のパロディとして創設された賞です。
本家のノーベル賞では授賞式への参加費用を主催者側が負担してくれますが、イグ・ノーベル賞は受賞者でも自腹。それなのに受賞者に贈られるのはヘンテコなトロフィーと、賞金の10兆ジンバブエ・ドルです(ジンバブエ・ドルは廃止されており、現在の価値はゼロ)。
そんなユーモアたっぷりの賞ですが、受賞する研究や発明には明確な選考基準があります。それは『人々を思わず笑わせ、そして考えさせる』というもの。この『思わず』というのが重要なんです」
案内人 サイエンスコミュニケーター・古澤輝由氏
どういうことか?
「イグ・ノーベル賞は『くだらない研究』や『なんの役にも立たない研究』を表彰する賞だと思われがちですが、受賞者は笑いを取ろうとしているわけではなく、いたって真面目に研究しているんです。
ところが、そんな研究が周りから見ると思わず笑ってしまうほどユニークだったり、意外な発見につながったりする。そうした研究を通じて、人々に科学への興味を持ってもらうことが、イグ・ノーベル賞の大切な目的なのです」
今年で36回目を迎え、今や約1万件のノミネートの中から受賞者が選ばれるというイグ・ノーベル賞。日本の受賞数はアメリカ、イギリスに次いで世界3位だという。
「選考過程は非公開ですが、選考委員会には過去のノーベル賞やイグ・ノーベル賞の受賞者、著名な研究者や科学ジャーナリストなどがボランティアで参加しています。
そうした一流の人たちが数多くの候補の中から選ぶ賞を、日本人が20年連続で受賞している。そう考えれば、すごさがわかると思います」
では、日本人はこれまでどんな研究で受賞してきたのか? 古澤氏の案内で、歴代の研究を見ていこう!
「まずは、日本でイグ・ノーベル賞の知名度を大きく上げた、2008年の中垣俊之氏らの『粘菌が迷路の最短経路を見つける研究』です。
これはアメーバに似た原生生物の粘菌を迷路に置き、入り口と出口に餌を置くと、粘菌が試行錯誤しながら迷路の最短経路を見つけることができるという研究です。
なんと、中垣氏の研究グループはその2年後にも『粘菌による効率的な鉄道網設計』で2度目のイグ・ノーベル賞も受賞しています。
これは、首都圏の地図を模した容器の東京に当たる位置に粘菌を置き、周辺の主要都市の位置に餌を配置したところ、粘菌が各都市を結び、実際の鉄道網に似た効率的なネットワークを形成したという研究です。
脳を持たない粘菌が、迷路の最短経路を見つけるだけでなく、効率的な鉄道網まで作ってしまう。これは『知性とは何か?』という問いを、私たちに考えさせてくれる研究だとも言えます」

続いて、11年に化学賞を受賞した「わさびのにおいを使った火災警報器」の研究だ。
「光や音ではなく、においで火災を知らせる研究です。寝ている人をにおいの刺激で起こすには、どんなにおいが適しているのか?
コーヒーやトースト、汚れた靴下のにおいなど、さまざまなにおいを試した結果、わさびの刺激臭にたどり着き、実際にわさびのにおいを使った火災警報器を開発しました」
でも、なぜわざわざにおいで起こす必要が?
「もともとは聴覚に障害のある人に、どうやって火災の危険を知らせるかというのが研究の出発点なんです。一見、風変わりですが、実は真面目な『社会の役に立つ研究』の一例と言えます」
わさびの刺激臭で眠っている人を起こす火災警報器。実験では14人中13人が、においが届いてから10秒~2分で目を覚ました。実際にろう学校などにも導入されている
イグ・ノーベル賞には、私たちの生活に役立っている研究も少なくない。
「例えば、13年の化学賞を受賞した今井真介氏らの『タマネギで涙が出るメカニズムの解明』という研究。ハウス食品はその成果を応用して、切っても涙が出にくい『辛くないタマネギ』を開発・商品化しています。
また、23年に受賞した宮下芳明氏と中村裕美氏による『電気刺激で味を変える箸・ストローの開発』も、実用化につながった研究のひとつです。
食器に流した微弱な電流によって食品中のイオンを操作し、同じ塩分でも塩味を強く感じさせることができるというもの。高血圧などで減塩が必要な人も、食事を楽しめるようになる技術なんです。
さらに、昨年の受賞研究『牛をシマウマ模様に塗る吸血害虫対策』も面白いです。牛の体に白い塗料でシマウマ模様を描くという、一見すると冗談のような研究ですが、実際に吸血害虫を寄せつけにくくする効果が確認されています。牛に着せるしま模様の服まで開発されました」
2014年に物理学賞を受賞した「バナナの皮の摩擦係数」の研究。研究者の馬渕清資氏の本職は人工関節の研究。関節の滑りやすさを追究する中で、バナナの皮に着目した
もちろん受賞研究のすべてが役に立つことを目指した研究なわけではない。
「例えば、17年の生物学賞を受賞した『雌雄逆転生殖器を持つチャタテムシの発見』。
ブラジルの洞窟に生息するチャタテムシの仲間には、なんとメスにペニス状の器官があり、オスにはそれを受け入れる生殖器があるんです。交尾の際にはメスがその器官をオスに挿入して精子を受け取るという、一般的な昆虫とは雌雄の生殖器の形が逆転していることを発見した研究です。イグ・ノーベル賞はこういう、いわゆる『下ネタ』も大好物なんですよ」
ちなみに、今年は長年日本で研究を続けているフランス人のレオナルド・シャバス氏らによる、ゴキブリが子供に与えるミルクのタンパク質を調べた国際共同研究も化学賞を受賞した。
日本科学未来館で行なわれた記念イベントでは、シャバス氏が流暢な日本語で「ゴキブリは大嫌いですが、このタンパク質を使ってパンやビールを作ってみたい」と語った。
「最近の日本では、すぐに役立つ研究が重視される傾向にあります。でも、科学の面白さは、必ずしも実用性だけで決まるものではありません。
イグ・ノーベル賞の受賞研究にも、『知りたい』という純粋な好奇心から生まれたものがたくさんあります。そうした研究を自由に追究できる環境があるからこそ、思いがけない発見や新しい技術も生まれるのだと思います。
日本人が20年連続でイグ・ノーベル賞を受賞しているのは、それだけ多種多様な研究が行なわれているということ。イグ・ノーベル賞を受賞するような研究が生まれ続けているのは、日本にはまだ、研究者が自由に好奇心を追求できる豊かな土壌がある証しだと思います」
●古澤輝由(ふるさわ・きよし)
立教大学理学部共通教育推進室(SCOLA)特任准教授。「イグおじさん」の愛称で、テレビ番組の解説や企画監修などを通じ、科学の面白さを伝えている