【短期集中連載⑦】寺地拳四朗 Double/ふたつの拳 「My Sweet Home<後編>」

取材・文・写真/会津泰成


2026年7月20日、東京・両国国技館――。 

プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。 

物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。

*  *  *

「Now Round One(ナウ、ラウンド、ワン)!」

2017年5月20日、東京・有明コロシアム――。

拳四朗はプロ10戦目、25歳で、初の世界挑戦(WBC世界ライトフライ級タイトルマッチ)の日を迎えた。

相手はメキシカンのガニガン・ロペス。35歳のロペスは前年3月、当時王者だった木村悠(帝拳)に挑戦し判定勝利で王座を獲得していた。同年7月の初防衛戦にも勝利し、拳四朗との対戦が2度目の防衛戦だった。

サウスポースタイルのロペスに対して右構え、オーソドックススタイルの拳四朗は、フットワークを駆使しながら左右前後に動いて距離を作り、ジャブを軸に試合を組み立てた。

「左のリードジャブを軸にして距離、空間を支配。右のカウンターにつなげる」

「自分が攻撃したあとは頭の位置を動かして、相手の反撃に備える」

「無駄な被弾はしない。ボクシングはケンカではない。勝敗を争うゲーム」

寺地永は拳四朗に、ジャブを軸にして距離、空間を支配するボクシングを徹底的に教え込んでここまでたどり着いた。拳四朗もそれを愚直に守り続けた。永と拳四朗。ふたりで積み重ねた時間は、いま世界の舞台で表現されていた。


※※※

拳四朗がボクシングを始めたきっかけは、高校に進学するためだった。

「中学までは、ボクシングは一切やってません。中学は軟式テニス部でした。中学3年生のとき、高校進学の三者面談が春か夏頃にあって、担任の先生は『拳四朗君は、行ける高校はありません』と言うたんですよ。通信簿が『1とか2ばかりなので......』と。わたしは、『選ばなければ、どこかに入れる高校は、ありませんか』と先生に言うたんです。少子化の時代ですし、と。でも先生は、かたくなに『ありません』と。

何かそのとき、自分の息子が学校や先生から見捨てられた気がしたんです。それで『ほな、自分で探します』と言って、わたしのアマチュアボクシング時代にお世話になった方が、高校のボクシング部の顧問にもいらっしゃったので、その方に相談しました。『うちの子供、ちょっとお願いします』と。スポーツ推薦で2校を受けたら、2校とも受かりました」

高校進学のために始めたのは、受験勉強ではなくボクシングだった。

拳四朗が高校3年になる2009年、奈良県では全国高校総体「近畿まほろば総体」の開催が決まっていた。県内では大会に向けて高校運動部の強化が進められ、永によれば、公立高校にもスポーツ推薦の枠が設けられていたという。

永は、アマチュアボクシング時代のつてを頼った。

声をかけたのは、南京都高校(現・京都廣学館高校)。そして、奈良工業高校の流れをくみ、2007年春に奈良商業高校との統合校として開校する奈良朱雀(すざく)高校(2024年閉校)だった。特に奈良朱雀高校のボクシング部を指導する高見公明(ひろあき)は、ロサンゼルス五輪に出場した元アマチュアボクサーで、永とは旧知の間柄だった。高見は指導者としても、アマチュアの日本代表選手、中学生時代の村田諒太をはじめ、のちにプロで世界王者になる選手も大勢育てた。

「うちの息子、面倒みていただけませんか」

永は両校の指導者に頭を下げて、息子がスポーツ推薦を受けられるようにお願いした。当時は現在のように中学生が出場できるジュニア大会も少なく、推薦を受けるために大会での実績はさほど必要なかった。所属しているジムが、いつからボクシングに取り組んでいるのかを証明することができれば、あとは個別の信頼関係で推薦入試を受けることができたそうだ。


とはいえ、ズブの素人のまま預けるわけにはいかない。高校入学までの間に、ボクシングの基本技術を教え込み、迷惑をかけないで済む状態までは育てなければならないと思った。

永は拳四朗に、ふたつの道を示した。

「高校に行きたいなら、ボクシングやれ。行かないなら、アメリカの自分の知り合いの居酒屋で働け」

ふたつ年上の長男も、高校卒業後にアメリカへ渡り、およそ3年半、現地の居酒屋で働きながら学校に通っていた経緯があった。アメリカ行きの話は、拳四朗のやる気を促すための、単なる脅しではなかった。親としてどちらも強制するつもりはなかったが、どちらかを選ばなければ、息子の人生は路頭に迷うことになる。永はそう思った。

息子の答えは明快だった。

「やります」

ただしこう続けた。

「ぼくはお兄ちゃんのように、アメリカに行くのは怖いから......」

永は拳四朗に、ボクシングの基本を一から教え始めた。

するとすぐ、我が息子ながらセンスの塊と気づいた。何を教えても吸収が早い。基本の構えに始まり、ジャブ、ストレート、フック、ワンツーといったパンチの技術。さらにステップワークのリズム、何よりパンチを打つタイミング、当て感の良さは、教えて身につくものではなかった。

「高校進学のために」というよりも、拳四朗本人はアメリカ行きを拒むために必死だったのかもしれない。それを差し引いたとしても、その動きと感覚は、初めてボクシングを教えてもらう素人とは、到底思えなかった。

「才能という面に限って言えば、自分よりも、はるかに上」

と永は思った。息子は教えられた技術を短期間で次々と身につけ、形にしていった。これならば胸を張って高校推薦のお願いができると、永は安心した。

拳四朗はどちらの推薦入試にも合格し、高見のいた公立の奈良朱雀高校を選んだ。永の記憶では、同校のボクシング部にはスポーツ推薦で入った生徒が7、8人いたという。拳四朗が高校3年になる年に奈良で開催されるインターハイを見据えた選手強化だった。


拳四朗は高校2年でインターハイ初出場。初戦で敗れたものの、3年時には地元・奈良で開催されたインターハイのモスキート級で準優勝し、秋の国体では3位入賞した。

中学3年生のとき、素人同然で始めたにもかかわらず着実に成長した。ただいずれの大会でも、拳四朗の前に立ちはだかったのは、当時まだ高校1年生だった井上尚弥だった。

「高校時代の拳四朗の夢は、競艇選手でした。大学も推薦で関西大学にお世話になりましたけど、顧問の先生には言うたんですよ、『拳四朗の夢は競艇選手です。なのでボクシング部に入っても、競艇選手の試験に受かった時点で大学は辞めます』って。『それでも構わないなら、スポーツ推薦で受験させてください』と伝えました。『それでも構いません』と言われたので、関西大学に進学しました。高校受験のときとはまるで違いましたね。結局、4年間在籍して、無事に卒業証書もいただけました」

大学卒業後の2014年8月3日、拳四朗は、国体優勝、全日本選手権準優勝という実績が認められて6回戦デビューした。

相手は、OPBF東洋太平洋ミニマム級11位のヘリ・アモル(インドネシア)。アマチュアでの実績があるとはいえ、デビュー戦にしてはかなりの難敵を選んだ。

試合は4回にダウンを奪うなどして判定勝利。続く2戦目はセミファイナルをまかされ、タイ人ボクサー相手に2回TKO勝利を飾った。そして3戦目で初の東京進出。日本ボクシングの殿堂、東京・後楽園ホールのリングに立った。

相手は10戦全勝6KO、2012年度の全日本フライ級新人王、長嶺(ながみね)克則(マナベ)だった。拳四朗はプロ3戦目ながら、すでに日本ミニマム級4位に入っていたが、長嶺は2階級上、フライ級の日本ランカーだった。拳四朗のプロ転向後の評判が知れ渡ったせいか、「ファイトマネーを積んでも、なかなか対戦を受けてくれなかった」と永は振り返る。唯一、マッチメークに応じてくれたのがマナベジムだった。

「左のジャブと右のカウンター。それだけで大丈夫」

永の教えを守り、ジャブとフットワークで翻弄(ほんろう)した拳四朗は7回TKO勝利した。

競艇学校の試験は、高校時代と大学時代に1度ずつ、合計2回受験したが、いずれも不合格だった。プロボクサーになってからも、拳四朗はその夢を諦めてはいなかった。日本ランキングの上位に入れば、特別試験を受ける資格が得られた。当時の拳四朗にとってボクシングは、競艇選手になる夢を叶(かな)えるための手段だった。だがこの試合を見て、永は確信した。

競艇の世界に進めなくても、ボクシングで生きていける。日本チャンピオンには間違いなくなれる。世界も決して夢ではない、と――。

※※※

拳四朗はこの頃、競艇選手になる夢に区切りをつけ、プロボクサーとして生きる道を本気で見据え始めた。長嶺戦のあとも順調に勝利を重ね、5戦目でWBCユース・ライトフライ級王座を獲得。続く6戦目で日本ライトフライ級王座、8戦目でOPBF東洋太平洋ライトフライ級王座も手にした。その歩みのさなか、日本ライトフライ級王者になって間もない頃に、永は拳四朗の後援会立ち上げに動いた。

永は、自身の現役時代にお世話になった方々にお願いし、「3年以内に必ず、世界チャンピオンになります」と約束した。後援会は2016年3月に発足。 発足記念パーティーでは、拳四朗自身も、出席者120人を前に「必ず世界チャンピオンになります」と表明し、1か月後の4月14日には、初回TKO勝ちで日本ライトフライ級の初防衛に成功した。そして、約束した期限の半分以下の時間で、支援者との約束を果たす。その舞台が2017年5月20日の世界初挑戦だった。

拳四朗は10戦目、25歳で世界挑戦の切符をつかんだ。

永自身はたどり着けなかった世界の舞台。どれだけ勝利を重ねて待ち続けても、舞台に立てるチャンスはめぐってこなかった。

夢は、引退とともに消えたわけではなかった。

灰の下の残火(ざんか)のように、胸の奥でくすぶり続けていた。それは思いがけず、息子の拳を通してふたたび燃え上がろうとしていた。

「ジャッジ、三者ともに77対75。3対0。拳四朗選手、リードです」


拳四朗の世界初挑戦――。

WBCの公開採点方式が採用されたこの試合で、8回終了時の採点結果がアナウンスされると、東京・有明コロシアムはひときわ大きな歓声に沸いた。

9回のリングに向かう前の青コーナー、永は表情を変えることなく、椅子に座る拳四朗と向き合った。タオルで汗を拭きながら意見を交わし、9回に向けた指示を淡々と伝えた。左側からは永の相棒、息子のトレーナーも引き受けてくれた篠原茂清がアイシングを施した。右側からは、この日初めてセコンドに入った加藤が、左手に拳四朗の口をすすいだ水を受けるスピットバケツを持ち、右手で眉のあたりにワセリンを塗った。

「9回目、Now Round Nine(ナウ、ラウンド、ナイン)!」

残る回は4つ――。

9回、拳四朗は変わらず小刻みにステップを刻み、時々、大きくバックステップをして追撃をかわした。公開採点でリードを許していることを知り、逆転を狙いさらに圧力を強めるロペス。拳四朗は左右に大きく動いて圧力をいなし、ジャブ、そして右のカウンターを確実に当てた。

10回、ロペスが強引にロープ際まで詰めて連打を浴びせてきた。11回は、両者激しい殴り合い。3分間を終えて自陣に戻ってきた拳四朗の唇は切れていた。椅子に座ると胸と腹を大きく上下させて何度も深呼吸。8回までの公開採点で得たリードはロペスの追い上げもあり、予断を許さなくなっていた。

勝負の行方は見えないまま、最終12回を迎えた。

「ケンいいか、この回は絶対、ポイント取れ!」

12回、前へと出てきたロペス。拳四朗も足を止め、頭が触れ合うほどの距離で応戦した。根性比べのようなボディーの打ち合い。残り30秒を切っても、おたがい手数は減らない。会場の拳四朗コールは一段と大きくなった。リング中央からロープ際へと場所を移し、最後まで拳を交わした。

試合終了のゴング――。

コーナーに戻る両者。勝敗の行方は3人のジャッジに委ねられた。

表情を変えず、拳四朗の身体についた汗と血を拭き取る永。

それを手伝う篠原。

給水する加藤。

拳四朗は荒い息を整えながら発表を待った。

  • 会津泰成

    会津泰成

    あいず・やすなり

    ノンフィクションライター。1970年生まれ。93年、FBS福岡放送にアナウンサー入社。プロ野球、Jリーグなどスポーツ担当。99年に退社しフリーランス。第10回Numberスポーツノンフィクション新人賞受賞。著書に『天使がくれた戦う心(チャイ)』(情報センター出版局)、『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童(こ)「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)ほか。
    Instagram:@yasunari_aizu

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