モーリー・ロバートソン「挑発的ニッポン革命計画」 『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、昨年末から続く松本人志氏関連報道をめぐる騒動に関連して、政治やテレビとお笑いの「あるべき距離感」を考察する。


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『週刊文春』が報じた松本人志氏の疑惑を巡る議論に踏み込む前に、まず私自身の立場を明らかにする必要があります。私は文藝春秋と現在進行形の仕事をしており、また一方では吉本興業が深く関わっている在阪テレビ局の情報バラエティ番組に準レギュラーのペースで出演してきました。

番組出演に際しての悩みは、「大阪万博に関する批判をどこまで口にするか」でした。報道も扱う番組でありながら万博礼賛一色となることが多く、吉本興業、メディア、大阪維新の会の"持ちつ持たれつ"に寄り添うか、それとも「空気を悪くする」かを突きつけられる構図は、中立性を維持するのが非常に困難です。

また、かつて『ワイドナショー』に呼ばれて露出を得た身として、大阪万博を正面から批判することはアンバサダーのダウンタウン、松本氏をはじめ吉本芸人の皆さんにも「迷惑をかける」のではないかと考えたことも否めません。つまり私自身も「忖度」の当事者でした。

話を本題に進めますが、今回の一連の展開では透明性が決定的に欠けていました。吉本側が発表した「当該事実は一切ない」、松本氏の「ワイドナショー出まーす」という言葉の軽さと、その後の二転三転。スピードワゴン・小沢一敬氏が所属するホリプロコムが「何ら恥じる点がない」とした後に発表された活動自粛。たむらけんじ氏が「飲み会はあった」と部分的に事実を認めたこと......。

ちぐはぐな発信が続く中、告発した女性たちを臆測で攻撃するネット書き込みが多発したことは、性被害を受けた人全般に対して「リスクを負って告発するメリットはない」と沈黙を選ばせる圧力になりかねない。公共性の観点からも、吉本興業や松本氏は自らの影響力を考慮し、すぐに記者会見を行なうべきでした。

一方で、スポンサーが松本氏の出演番組から早急に企業名を外させたのは「ジャニーズ以前」とは大きく変わった点です。今や大企業にとってはグローバルな価値観への適応が死活問題で、社内でもジェンダー平等、ダイバーシティ尊重、人権遵守を推し進めており、軒並み吉本興業ホールディングスの大株主となっている在京・在阪テレビ局の"鈍さ"とは対照的でした。

さらに言えば、「男たちの宴が盛り上がったら"女の子"を呼ぶ」という日本全国で今もって行なわれている慣習そのものが、男女間の権力勾配を利用したパワハラを内包しています。後輩芸人たちが先輩の誘いや指令を断れない構図も問題ですが、"要員"として呼ばれる利害関係のある女性たちはまったく異なる次元のプレッシャーを受ける。性的強要の有無以前に、この権力勾配がのさばっていることに対する嫌悪感の広がりにスポンサーは敏感でした。

松本氏が性的強要をしたのか、そのために周囲の芸人たちが組織的に動いたのかが最終的な争点ではありますが、その手前に見える光景――関係者の重苦しい沈黙、遠巻きにかばう芸人たち、積極的に切り込まないメディア――は、今や「お笑い」が巨大利権と化し、時代に風穴をあける存在から「変化を拒む側」となったことを象徴しています。

踏み込んだ言い方をするなら、権力者と資本に都合のいい物差しで評価され成り上がったスターは、結局のところ体制の擁護者でしかない。かつてコラムニストの小田嶋隆氏が指摘したように、ずらりと並んだ芸人やタレントたちが「流れや演出を理解し、手を叩いて笑うことが強制されている」ような空気を、私も確かにテレビ番組の現場で感じました。

松本氏が企画者・演者として特別な存在であったことは確かでしょうが、それ以前の構造問題として、巨大事務所とテレビ業界がスクラムを組んだビッグビジネスの仕組みが続く限り、「一見過激だが、実は保守的な笑い」が再生産されるでしょう。

今後は新興の資本が活路を提供し、コメディやエンターテインメントが利権から分離、独立することを望みます。そういったあり方そのものを風刺するような笑いが人気を博せば、汚職だらけの自民党、五輪の利権をほしいままにした電通、陳腐化した左翼、レガシーと化していく旧メディア......といったものと並ぶ、昭和の残滓(ざんし)的な「お笑い」とはまったく違った流れが生まれるはずです。

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