現代に、もし「リングウイルス」が出現したら? 筆者がウイルス学の道に進むきっかけにもなったある小説について考察する(イラストは筆者が生成AIで作成)。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第181話
『リング』の恐怖は、やがて『らせん』で科学へと姿を変えた。鈴木光司作品に魅せられたひとりの高校生は、ウイルスを研究する道へ進んだ。
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【ホラー映画『リング』の記憶】
2026年5月8日、『リング』の原作者である鈴木光司氏が亡くなった。
ご存じ『リング』とは、テレビから出てくる悪霊(?)「貞子」で有名なホラー映画で、1990年代後半に大ヒットし社会現象になった。鈴木光司氏は、この映画の原作小説を書いた作家だ。
『リング』、そして続編の『らせん』。この2冊を高校生の夏休みに読んでいなければ、ひょっとすると私はウイルス学者を志していなかったかもしれない。
――時は1990年代後半。ヒトゲノム計画が進み、人間の設計図がまもなく解読される! という近未来への期待感が社会に広がっていたように思う。
「ヒトゲノム大特集」と銘打たれた2001年2月15日号の科学雑誌『ネイチャー』。高校3年生だった私は、背伸びをしてこの号を小遣いで買った。Amazonなどもなかった当時、どうやってこの本を購入したのかまでは覚えていない。そして、高校生が英語の論文などを読めるわけもない。ただこの雑誌は、「高校生の私がバイオテクノロジーに興味があった」という証左として、実家から取り寄せ、私の教授室の本棚に並べている。
1996年にクローン羊「ドリー」が誕生したことなども相まってか、「生命科学」や「ゲノム」、「バイオテクノロジー」という言葉が、「アカデミア(大学業界)」の中だけではなく、大手メディアにも頻繁に登場していた。
田舎の根暗な高校生だった私は、その新聞記事を切り抜いては、スクラップブックにいそいそとまとめて悦に浸っていたのだった(1話。ちなみにこのスクラップブックも、やはり実家から取り寄せて私の教授室の本棚に並べている)。
そんな浮き足立つような近未来への期待感の一方で、1999年7月に「アンゴルモアの大王」によって世界が滅亡することを予言した「ノストラダムスの大予言」をめぐる終末論の空気感も、そこはかとなく充満していたように思う。
世界はこのまま進歩するのか、それともどこかで破滅に向かうのか? バイオテクノロジーへの期待感と、得体の知れない不安感。世紀末は、そのふたつが奇妙に同居していた時代だった。『リング』の大ヒットの背景には、この時代特有のそんな空気感もあったのではないかと思う。
【『呪いのビデオ』の正体】
『リング』がキャッチーだったのは、「テレビから(貞子が)出てくる」というインパクトあるホラー描写に加えて、「(貞子が映っている)『呪いのビデオ』を見たら、それをダビングして誰かに貸さないと1週間後に死ぬ」という、まさに昭和の都市伝説のような設定である。
私の記憶が正しければ、『リング』は、「貞子」と「呪いのビデオ」をめぐるホラーだった。それが続編『らせん』では一転、当時一世を風靡していた、バイオテクノロジーを骨格としたサイエンスフィクションへと変貌を遂げる。
「呪いのビデオ」のからくりは、ビデオを見ることによって視覚的に感染する、「リングウイルス」によるものだったのである(ちなみに原作小説の「リング3部作」は、さらなる続編『ループ』で完結する)。「呪いのビデオ」の正体は、人間の恐怖を利用し、「ビデオのダビング」という方法によって拡散・伝播されるウイルスだった――。
つまり、『リング』では「呪い・怨念」だった死の正体が、その続編『らせん』では、「ウイルス」という科学で解釈できるものとして説明されるのである。
いま振り返ると、もともとバイオテクノロジーに興味を持っていた私が、俄然「ウイルス」というものに惹かれるようになった背景には、この『リング』と『らせん』の影響もあったのだと思う。今回の鈴木氏の訃報に触れて、そんなことを思い出した。
高校生の夏休みの夜、なにかの理由で家族が外出し、私はひとり留守番をしていた。その日の真夜中、自室のベッドに横になりながら、そして恐怖感に震えながら、読書灯を点けて『らせん』の文庫本のページをめくり続けたことを覚えている。この夜がなかったら、もしかしたら私というウイルス学者は存在していなかったかもしれない。
【もし2026年に「リングウイルス」が流行ったら?】
さて、「ビデオのダビング」で拡散される「リングウイルス」であるが、この「拡散」という要素はある意味で、SNS全盛の2020年代のネットミームを先取りした設定のようにも捉えることができる。
私が中高生を過ごした1990年代後半は、まだインターネットが生まれたばかりで、ようやくパソコンやEメール、ウェブサイト(www、つまりワールドワイドウェブ)という概念が一般社会に定着し始めた頃だった。
大手メディア全盛で、情報源はもっぱらテレビだった。気になった番組は、テレビにつないだビデオデッキに、「VHS」というビデオテープを差し込んで録画した。
それからおよそ30年が経った2026年現在、ビデオテープやビデオデッキは姿を消し、テレビを持つ家庭も減った。すべての情報はパソコンやスマホで得ることができ、動画はSNSを介して一瞬で世界中に拡散される。
――そんな現代に、もし「リングウイルス」が出現したら?
ウイルスの伝播力の指標のひとつとして、「基本再生産数」という数値がある。これは、「そのウイルスに感染したことがない集団の中で、ひとりの感染者が生み出す感染者の数」を指したもので、専門的には「R0」と書いたりもする。
1990年代後半のリングウイルスの伝播様式は「ビデオのダビング」なので、基本的に接触感染、つまり、ビデオテープの受け渡ししか伝播の方法がない。であるからして、その基本再生産数R0はタカが知れている。
しかしこれが、2020年代の「SNSのネットミーム」ならどうだろうか。「#拡散希望」あるいは「#呪いのビデオチャレンジ」などとハッシュタグをつけてその動画をTiktokやInstagramやXに載せれば、それは何百万人というフォロワーを抱えたインフルエンサーたちによって一瞬で世界中に拡散され、指数的かつ爆発的に広がるだろう。その基本再生産数R0は、「ビデオのダビング」とはまさに桁違いである。
それではこの場合、世界中に瞬く間に拡散された動画によって、世界中の人が死んでしまうだろうか?
おそらくそうはならないだろう。
繰り返しになるが、上で紹介した「基本再生産数(R0)」とは、「そのウイルスに感染したことがない集団の中で、ひとりの感染者が生み出す感染者の数」という、ある種の仮想世界を前提としている。
それに対して、現実世界では、感染やワクチン接種で免疫を獲得する、マスクをつけて感染対策をする、外出を控えるなどの影響によって、「感染しない人」、あるいは「感染を意図的に避けようとする人」が出現する。これらの影響を考慮した、現実世界でのウイルスの伝播力を表す指標が「実効再生産数(Re)」である。R0もReも、1以上になれば流行は拡大し、1を下回れば流行は収束する。
話は戻って、2020年代の「SNSのネットミーム」によるリングウイルスの拡散であるが、感染源となるその動画だけではなく、「見たら死ぬ」という情報もおそらく同時に、高い確度をもって拡散されるだろう。
たとえば、「本当に1週間で死ぬか検証してみた」というようなライブ配信動画が並行して拡散されることによって。あるいは、SNSの運営会社や各国政府がその危険性をいち早く察知し、この動画を片っ端から「BAN(視聴禁止)」するかもしれない。そのような理由によって危機感が生まれ、好奇心からその動画を視聴する人は激減するだろう。
つまり、2020年代の「SNSのネットミーム」の場合、基本再生産数R0の桁違いの高さによって、その危険性も同時に拡散されてしまう。それによって「行動変容」が生まれ、「意図的にその動画を避ける人」の割合も一瞬で跳ね上がるだろう。そのせいでおそらく、実効再生産数Reはすぐに1を下回り、その「流行」は制御されるのではないだろうか。
――それでは30年の時を遡って、1990年代後半の「ビデオのダビング」の場合はどうだろうか?
先に紹介したように、当時はSNSなど存在せず、インターネットもほとんど普及していない。そのような状況であれば、ビデオをダビングしなかった人が1週間後に本当に死んでも、それはおそらく都市伝説にしかならない。つまり、その危険性を確度高く拡散する術がないので、その動画の視聴を妨げるような力は働きづらい。
そのため、「ビデオのダビング」という伝播様式そのものの基本再生産数R0はそれほど大きくないものの、「行動変容」が生まれず、その実効再生産数Reは、好奇心によって1以上に高く保ち続けられるのではないだろうか。
――バイオテクノロジーへの期待感と、世紀末の得体の知れない不安感。そんなふたつの感覚が奇妙に同居していた1990年代後半。「貞子」を生んだ「リングウイルス」というのは、まだ都市伝説がはびこる余地のあった時代背景に見事に適合したウイルスだった、と言えるのかもしれない。
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