『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』竹内裕二/YUJI TAKEUCHI編・前編「野球の試合がある日に休みが取れないサラリーマンにだけはなりたくなかった(笑)」

取材・文/とり 撮影/佐々木里菜


あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していくインタビュー連載が、週プレ創刊60周年を記念して復活。第四弾となる今回は、放送中の『仮面ライダーゼッツ』に出演しグラビアでも人気を博す小貫莉奈さんのグラビアを手がけるほか、ファンションでも活躍する竹内裕二氏が登場。

業界では野球好きとしても知られる氏の写真との出会いとは? 写真家・ホンマタカシ氏に師事していた時代のエピソードもたっぷり聞いた!

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――竹内さんは野球がお好きなんですよね。以前、名刺をいただいたとき、野球をモチーフにした写真を使った名刺を5種類も作っておられて、驚いた記憶があります(笑)。

どの名刺がもらえるかは、その時のお楽しみ?どの名刺がもらえるかは、その時のお楽しみ?
竹内 野球はずっと好きですね。生まれが広島で、地域全体がカープを応援しているような環境で育ったんですよ。子供の頃は親父に広島市民球場(現在は解体)に連れて行かれ、学校での話題はもっぱら野球。日本シリーズが始まったら先生がテレビを付けちゃうくらい、当たり前に野球が身近にあったんです。西武(ライオンズ)との試合で、秋山幸二選手にバク宙ホームインされた名場面は、テレビで見ていた記憶がありますね。

――竹内さん自身も野球少年だったんでしょうか。

竹内 小学4年生から2年間だけ少年野球をやっていました。というのも、昭和の少年野球あるあるみたいな話ですが、両親が試合に来れる子を優先して出すようなチームだったんです。全然、実力を見てもらえない。それにガッカリして、すぐ辞めてしまったんです。実際に実力があったかは何とも言えませんが(笑)。ただ、最近は少しお休みしていますが、草野球は30歳頃から10年以上続けていますね。

――実際に野球を楽しむようになったのは、大人になってからなんですね。

竹内 そうですね。中高時代はバスケ部に所属していました。野球部はヤンキーが多かったんですよ。軽トラに乗って暴れたり、校舎の上に登ったり。ドラマ『スクール☆ウォーズ』みたいに荒れた校風で。バスケ部を選んだのは、他に入りたい部がなかったのと、マイケル・ジョーダン全盛期の影響もある気がします。あと、小学生の頃から習字、水泳、ピアノ、英語と習い事は色々やっていて。

特に習字は高校生まで続けて、賞を獲ったこともありますし、楷書だけじゃなく、行書や草書も含め、結構本格的にやっていました。その書道教室の先生の息子が大東文化大学という書道が有名な学校に進学して。「自分も推薦もらえないかなー」なんて、その道も少しは考えましたね。

――書道家になる人生もあり得たかもしれない、と。

竹内 それなりに楽しんで続けていましたから。でも結局、高校の先生に推薦されて神戸の大学に進学しました。しかも、なぜか法学部に(笑)。パンフレットを見ると神戸の華やかそうな場所にある学校だったのに、実際に通ったのは明石の田舎のほうだったんですよね。で、ちょうど入学した年に阪神淡路大震災があって。法学部の勉強に身が入らなかったこともあり、大学1、2年生の頃は学校にほとんど行かず、復興の土方バイトばかりしていました。登録していた派遣会社でユンボ(ショベルカー)の資格を取らせてもらえたので、日給1万2千円だったんですよ。

――ちなみに、大学生にもなると将来のことを考え始める時期かと思います。当時はどんなふうに考えていらっしゃったんですか?

竹内 親父が土日出社のあるサラリーマンで、仕事を休めず野球の試合を観に行けないことが度々あったんですよ。その姿を思い出しては、絶対にサラリーマンだけにはなりたくないと思っていました(笑)。サラーリマン以外の仕事に就くために、宅建や行政書士の資格を取ることも考えましたね。そんな中、大学3年の夏休みに帰省した際、親父からフィルムカメラをもらったんです。撮り方が分からなかったので、試しに大阪のカメラ教室に行ったら、関西を拠点に仕事されているプロの写真家の方の教室で。軽い気持ちでカメラを手にしたつもりが、その方との出会いをきっかけに「こういう仕事もあるんだ」と、わりとすぐに将来の選択肢になったんですよね。

――いきなりカメラが登場しましたね。それまで写真に興味は?

竹内 特になかったけど、ファッション誌は好きでよく読んでました。街角ファッションスナップを見ては、友達や、アメ村にいる奇抜な格好の人に声をかけて写真を撮らせてもらっていましたね。知り合いの美容師が関西発のヘアスタイル誌『カジカジ H(ヘア)』(交通タイムス社)にカタログを載せるというので、その写真を撮らせてもらったこともあります。アマチュアながら、自分の写真が雑誌に載って、どんどん楽しくなっちゃって。その写真教室の先生にも、いくつか現場に連れて行ってもらいました。大学卒業後は、先生の弟子が大阪で運営していたスタジオを手伝わせてもらったりして。

――東京ならまだしも、関西にいながら、それだけプロの現場に立ち会えるのはすごいですね。

竹内 でもやっぱり、東京に比べたら地味な仕事ばかりでしたよ。京都の着物教室の先生を撮る、とか。当時は篠山紀信さんや荒木経惟さんらの写真が流行っていたので、それらに比べると、カッコいい写真とは思えなかったです。ただ、その写真教室の先生はもともと東京でお仕事されていたこともあり、「本気で写真で食っていきたいなら東京に行け」と言ってくれたんですよね。ただ上京しても仕方がないので、誰かのアシスタントに就こうと。写真集を見てビビッと来たホンマタカシさんに、神戸から履歴書を送りました。全然、返事は返ってこなかったですけど。

――当時のホンマさんは人気も凄かったはず。同じような問い合わせはいっぱい来ていたんじゃないですか?

竹内 後から聞いた話ですが、まさにおっしゃる通りの状況だったそうです。でも、東京にいないと呼ばれたときにすぐ行けないと思って、親に頭下げて、とりあえず上京だけはしました。ちょうど弟が東京の大学に進学したので、そこをあてに出来たのは良かったですね。とはいえ、待てど待てど返事は来ない。当時は雑誌に事務所の住所や電話番号が普通に載っていたので、思い切って電話しました。「履歴書を送った竹内ですけど......」って。アシスタントの方が出てくださったのですが、「本人に伝えておきます」とだけ言われて進展はなく。それを7、8回続けたところで、ようやく会ってもらえることになったんです。

――7、8回も電話を!? 3回目でダメだったら諦めそうなものですが、すごい執着ですね。

竹内 ホンマさんに就くために上京したんだから、会わないうちに諦めるわけにはいかなかったんですよ。本当は、その辺のスタジオを紹介して終わらせようとしていたみたいですが、「いや、僕はスタジオに行きたいんじゃなくて、ホンマさんにつきたいんですよ」と何度も食い下がったら、「合わなかったらすぐクビにするから、とりあえずの食いぶちとして、バイトだけ決めてこい」と、アシスタントにつかせてもらえることになったんです。すぐに休みの融通が利きやすいテレアポのバイトを決めました。

――強引さは否めませんが、そこはついたもの勝ちですよね(笑)。

竹内 でも、急に何かを任されることはないわけです。「何かやることありますか?」と聞いても「自分で考えろ」と言われるので、まずは手始めに散らかっていた事務所の掃除からスタートしました。その後は、車の運転や掃除、事務所の電話番、犬の散歩なんかもやりましたね。掃除が出来ること、車の運転が出来ることは、それなりに良く見てもらえた気がしますね。半年間は掃除していた記憶しかないですけど、事務所に置いてあった大量の写真集を読破しようと決めて、実際に全て目を通しました。海外でしか買えないような貴重な写真集がたくさんあって、とても勉強になりましたね。

――アシスタントには何年くらいつかれていたんでしょう?

竹内 4年です。一応、3年と決まっていたのですが、なかなか下のアシスタントが決まらなくて。というのも、当時のホンマさんはブラジリアン柔術にハマっていて。朝7時に事務所に呼ばれ、格闘技用のマットを敷いては練習相手をさせられ。お風呂に入っている間にササミ、ブロッコリー、ゆでたまごを詰めた弁当を作り、師匠を道場まで送ったら、事務所に戻って撮影準備、そして現場で合流というルーティンが週4くらいであったんです。ロケでニューヨークに行った際、待合室で「時間があるからやるぞ!」と、他のお客さんがいる中で技をかけられたのは恥ずかしかったなぁ......。それで「次のアシスタントは格闘技が出来るヤツにしよう」となったのですが、ホンマさんにつきたくて格闘技が出来る人なんて、なかなか見つからないわけですよ。結果的には見つかったのですが(笑)。

――それにしても、ホンマさんのペースについていく竹内さんもなかなかタフですね。

竹内 そこは間違いなく、中高6年間のバスケ部生活が活きましたね。あと当時はアシスタント同士の繋がりもあって。それこそTakeo Dec.さんが先輩で、ホンマさんの事務所を間借りして作業されてる時期があったのですが、一緒になると「竹内くん、これでご飯食べてきな」って、お小遣いをくれることもあって。他の先輩も「いい感じに力抜いてやりなよ」と言ってくださり、とても支えられましたね。それに、今考えても貴重な現場にたくさん連れて行ってもらったんですよ。案件も大きいものが多かったし、海外にも何度も行きました。フィルムの時代で、ミスしてクビになった先輩の話も多々聞いていたので、プレッシャーもすごかったですけどね。


●竹内裕二(たけうち・ゆうじ)/YUJI TAKEUCHI(BALLPARK) 
1976年生まれ、広島県出身。 
趣味=草野球 
写真家・ホンマタカシ氏に師事し、2004年に独立。2016年に株式会社 BALL PARK設立。ファッション誌や広告を中心に、数々の俳優、モデルを撮影。長谷川潤ファーストフォトブック『Thankyou Sun』(ワニブックス)や広瀬アリス写真集『born to be happy』(ワニブックス/他、撮影:藤代冥砂、佐野方美)、など写真集も手がけ、2017年頃からグラビアの撮影も増加中。自身の野球観戦の記憶=ROOT(ルーツ)を撮影した作品集『ROOT ROOT ROOT』(ワニブックス)発売中。

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