さらば伝説! 天山広吉、36年目の集大成(ラストマッチ)

取材・文/南ハトバ 撮影/宮下祐介 写真提供/新日本プロレス

天山広吉。圧倒的なすごみと天然キャラで愛されたプロレス人生......仲間たちが明かす仰天エピソード、そして本人が激白する「8.15両国」への思いとは?天山広吉。圧倒的なすごみと天然キャラで愛されたプロレス人生......仲間たちが明かす仰天エピソード、そして本人が激白する「8.15両国」への思いとは?

新日本プロレス一筋36年、傷だらけの"猛牛"天山広吉が8月15日の両国大会でついに引退する。激闘を生き抜いた不屈の歩みと、盟友たちが語る素顔、そしてラストマッチへの覚悟に迫る。

【プロレス界の不屈の象徴】

傷だらけの〝猛牛〟が、ついに最後のリングへ歩み出す。天山広吉、55歳。新日本プロレス一筋36年。頑強な肉体と威圧的なビジュアルが醸し出すたたずまいは、まさにプロレス界の「不屈の象徴」と言える。

新日本最高峰の「IWGPヘビー級王座」を幾度も戴冠し、生涯のパートナー・小島聡との〝テンコジ〟タッグでは数々のタッグ王座に輝いた。

一方、リング外では「天然伝説」を残し、多くの人から愛される存在でもあった。

一流レスラーとして輝き続けてきた猛牛が8月15日、両国国技館大会でそのプロレス人生に幕を下ろす。天山の引退に仲間たちは何を思うのか。

天山のラストマッチとなる両国国技館大会では、長年タッグを組んできた小島聡との対戦が決定。チケットは7月下旬時点で完売となった天山のラストマッチとなる両国国技館大会では、長年タッグを組んできた小島聡との対戦が決定。チケットは7月下旬時点で完売となった

【歯を食いしばり生き抜いた「第三世代」】

天山と同じく1990年代初頭にデビューしたプロレスラーは「第三世代」と呼ばれる。新日本の〝低迷期〟と呼ばれた2000年代初頭も共に会社を守り抜いてきた同志・永田裕志は、当時の出来事を鮮明に覚えている。

「02年1・4東京ドームの後、多くの選手やスタッフが新日本を去る噂が流れました。道場で偶然会った天山さんは、盟友の小島さんも全日本に移籍するとあって『なんでコジまで辞めてしまうんや』と本当につらそうでしたね。

それでも『われわれでこの会社を支えていこう』と固い握手を交わしました。あのときの強烈な握力は忘れられません」

永田裕志永田裕志

固い誓いとともに会社を支え始めたが、さらなる苦難が待ち受けていた。

「新日本は格闘技路線を模索した試合で失敗し、世間から強い逆風を受けました。内外から『第三世代がだらしない』『それでもあいつらは会社に守られている』と批判を浴びる中、天山、中西学、私で歯を食いしばり耐え続けました。誰かが泥をかぶらなければ会社が潰れる危機感がありましたから。

今ではファンの方々に『第三世代は僕らの青春だった』と言っていただけることも多い。あのときみんなで踏ん張って良かったなと思います」

共に耐え抜いた同志だからこそ、永田は天山の現役続行を誰よりも願っていた。

「去年の5月に腰の手術をされた際にお見舞いに行くと、つえもつかずに歩いて部屋に招き入れてくれたんです。

『これならいい状態で復帰できるのでは』と期待したのですが、長年の壮絶なダメージ蓄積があったのだと思います。

天山さんには最後、悔いを残さず〝天山広吉〟を思う存分リングで披露してもらいたいですね」

【自分より後輩の体を気遣う優しい先輩】

「辞める姿が想像できなかったので、引退と聞いて驚きました。天山さんは体がどれだけギリギリの状態でも、リングに立ってスイッチが入ると、僕らの知る圧倒的なすごみを持つ天山広吉になるんです。

15年に俺が『天山はもう終わってる』とあおった後のシングルマッチでも、すさまじいスイッチが入って叩きのめされました。やられながらも『やっぱりすごい、あの頃の天山だ』と痛感した。

どれだけ満身創痍でもスイッチひとつでよみがえる人だからこそ、これからもずっとリングに上がり続けるものと思っていました」

そう語るのは、若手時代に2年半、天山の付き人を務めた「ロス・トランキーロス・デ・ハポン」の内藤哲也だ。

「付き人時代、街中でファンから『あ、天山だ!』と呼び捨てにされると、天山さんは『呼び捨てにすんな!』と本気で怒るんです。僕が慌てて『天山さん、落ち着いてください!』となだめるのが役割でした(笑)。

外ではそんなふうにスイッチが入る怖さもありましたが、僕の前ではとにかく穏やかで優しい方でしたね。

会うたびに『膝大丈夫か? ちゃんと体のケアしろよ』と心配してくれて。絶対に天山さんのほうがやばい状態だったんですけどね......」

内藤哲也内藤哲也

さらに付き人時代の記憶をたどると愛すべきエピソードが次々と飛び出す。

「若い頃、天山さんは道場に原付で来ていたのですが、頭が大きすぎてヘルメットが入りきらないんです。頭の上に『ヘルメットらしきもの』をちょこんと乗せて走っていました(笑)。

あと、天山さんのスーツケースはとにかく重い上に車輪が壊れていて、転がせないから常に抱えて運ぶ必要があった。『ごめんな~、直すからな~』と100回くらい言われたけど、結局一度も直してくれませんでした(笑)。

おかげで、俺の筋肉はかなり鍛えられましたよ......」

幼い頃から熱狂的な新日本ファンだった内藤にとって、天山は憧れのスターだった。

「父親の影響で幼少期からプロレスを見ていて、父からは天山さんのモンゴリアンチョップについて『あの技は危険だから絶対に人にやるなよ』と注意されていました。

中学3年生のとき、当時、六本木にあった闘魂ショップに朝早くから並んで、初めてサインをくれたのも天山さんでした。整理券を手に入れた瞬間はうれしすぎて興奮気味に母親に電話したほどです。

そんなふうに憧れ続け、付き人としてもそばで見守ってきた大好きな選手が引退するのは本当に寂しい。リングを降りる最後の一瞬まで、頑丈でタフで強い天山広吉を目に焼きつけたいですね」

【リングの内外で高め合った「テンコジ」の絆】

「1+1は2じゃないぞ。俺たちは1+1で200だ! 10倍だぞ、10倍!」

プロレスファンならずとも一度は耳にしたことがあるであろうこの名(迷)言は、天山の長年のタッグパートナー・小島聡が放った言葉だ。

「1999年から〝テンコジ〟タッグとして共に活動してきました。所属団体が異なる時期もありましたが、何年かに1度は必ず天山さんと交わる機会があった。

四半世紀もの時間を共に過ごした、不思議な巡り合わせのタッグだったと思います」

小島聡小島聡

テンコジはリングの内外で深い縁があった。

「名コンビではありますが、プロレスラーとしては僕のほうが1年後輩なんです。選手としての心構えなどを優しく、時に厳しく教えていただきました。食事中におにぎりの『筋子』のことを『せつこ』と呼び間違えていたのには驚きましたが......。

あとは、東京ディズニーシーが開業したばかりの頃、お互いに結婚する前の今の妻を連れて、4人でダブルデートをしたのは良い思い出です。チュロスを食べてパレードを見て、本当に楽しかったですね。僕にとって天山さんは、本当に兄のような存在です」

ふたりにとって、テンコジタッグとはいったいどのような存在だったのだろうか。

「テンコジという名前を背負って闘うことで、力が湧き上がってくるんです。時にケンカをしたり離れたりもしましたが、それで逆に絆を深め、ここまで来ることができた。

お互いがプロレスラーとして自立しつつ、ふたりそろえば最強のタッグになれる。そんな対等で特別な関係性を築けていたからこそ、ここまで長く続いてきたのだと思います。天山さんとは、これからもずっと仲良くさせてほしいですね」

そう語る小島には、天山の引退発表直後から胸に秘めていた強い思いがあった。5月に天山が引退を表明した際、小島は試合後の取材で目に涙を浮かべながら、「勝手に対戦相手をやれるものと思っている。これからの試合、天山にいろんなものを届ける」と熱く語り、最後の相手に名乗りを上げていたのだ。

そして7月、天山自身の口から、最後の対戦相手として小島の名が正式に指名された。四半世紀を共にしたパートナー同士による、最初で最後の〝引退マッチ〟。

小島が涙ながらに訴え続けた熱い思いと悲願が、ついに実を結んだのだ。

【「妻には一番最初に引退を報告した」】

7月某日、新日本プロレス本社で、天山自身に引退に向けた現在の心境を語ってもらった。

――今回の引退はどのようなコンディションから決断されたのでしょうか。

天山 去年の5月に腰の手術を受け、リハビリを続けていましたが思うように回復しなくて......。両足のしびれが取れず車の運転もストップがかかり、制限が増えました。

プロとして納得のいかない試合は見せられない。けじめをつけようと決断しました。

――引退試合の相手が、盟友・小島選手に決定しました。

天山 最後はシングルマッチで自分のプロレス人生をすべてぶつけられる相手とやりたかった。四半世紀以上、最高のときもドン底のときも共にしてきたコジしかいないなと。

今の自分が持つすべてをコジに叩きつけて、悔いなくリングを降りたいです。

――ご家族にはどのように報告されましたか?

天山 妻には最初に伝えました。鬼嫁ではないのですが、昔から気が強い人なので、「だらしないわね、もっとやりなさいよ!」と怒られましたね(笑)。「いや、もう無理よー」と伝えましたが、引退後の生活のほうを心配しているみたいです。

――若い頃は奥さまと大きなケンカをされることもあったとか。

天山 昔、僕が換気扇の下でたばこを吸っていたときに、妻が何か言ってて......。でも、僕にはあまり聞こえていなかったんです。すると突然、背後から「ちょっと聞いてんの!?」とタオルで首を絞められました。

反射的に「やめろ」と言って手を伸ばしたら、その手も固められて絞め上げられて。「この技、効くなぁ」と思い、プロレスで使い始めたのが「バッファロースリーパー」という技です(笑)。

ただ、使うたびに使用料5000円を妻に払わなければならないのが嫌で、新しい絞め技「アナコンダバイス」を開発しました。

――今でもケンカしますか?

天山 最近はアメフトをやっている息子とケンカすることはありますね。体も大きく「俺、実の親父やで?」と思うくらい遠慮なくぶつかってくる。でも寝技に持ち込めばまだ勝てます(笑)。

新日本に入ってほしかったのですが「痛いのが嫌だ」と就活をしています。

――先輩レスラーの方々にも引退を報告したのでしょうか。

天山 蝶野(正洋)さんには先日お話ししました。帰りに車で送ってくださり、ラーメンまでごちそうになって。

「蝶野さんのおかげでここまで来られました」と感謝を伝えたら涙があふれてきて、ラーメンが少ししょっぱかったなぁ(笑)。

――体がボロボロになるまで続けられた理由は?

天山 本当にプロレスが大好きでプロレスラーになりました。だからギリギリまで立ち続けたい。ぶざまな姿を見せるかもしれませんが、ありのままをさらけ出すのが一番なのかなと。

一日一日を噛み締め、できることをすべてやりきり、ギリギリまでリングにしがみつきたいです。

――最後にファンへのメッセージをお願いします。

天山 「プロレスなくして自分の人生はない」と言い切れるくらいすべてでした。18歳で京都から出てきて、ここまでやってこられたのはファンの応援があったからです。

引退してもプロレスと縁が切れるわけではないので、少しずつ恩返ししていきたい。
 
ファンの方々には、これからもぜひプロレスを見て元気になってほしいですね。新日本はこれからまだまだ面白くなりますから。

●天山広吉(てんざん・ひろよし)
1971年生まれ、京都府出身。新日本プロレス所属。91年1月デビュー。IWGPヘビー級王座獲得やG1 CLIMAX優勝3回などの実績を誇る。必殺技はアナコンダバイス、TTD、モンゴリアンチョップなど。8月15日の両国大会で現役を引退

●内藤哲也(ないとう・てつや)
1982年生まれ、東京都出身。2006年に新日本プロレスでデビュー。ユニット「LOS INGOBERNABLES de JAPON」を立ち上げ、一大旋風を巻き起こす。25年に新日本プロレスを退団後、株式会社LOS TRANQUILOS de JAPONを設立

●永田裕志(ながた・ゆうじ)
1968年生まれ、千葉県出身。新日本プロレス所属。92年、山本広吉(現・天山広吉)戦でデビュー。IWGPヘビー級王座最多連続防衛記録(当時)を樹立、三冠ヘビー級王座も戴冠。得意技はバックドロップホールド、ナガタロックなど

●小島聡(こじま・さとし)
1970年生まれ、東京都出身。新日本プロレス所属。91年7月デビュー。天山広吉との「テンコジ」タッグでIWGPタッグ王座を幾度も獲得。シングルでは史上初のIWGP&三冠ヘビー同時戴冠も達成。得意技は剛腕ラリアット、コジコジカッターなど

  • 南ハトバ

    南ハトバ

    みなみ・はとば

    文筆家・漫才師・僧侶。上智大学法学部国際関係法学科、大正大学大学院仏教学研究科を経て、現在は実家の寺の副住職としての活動をしつつ、芸人としても舞台に立つ。趣味は暗闇ボクシング・テレビ鑑賞・パワースポット巡り・念仏。得意分野はエンタメ全般・プロレス・ドイツ憲法・二十五三昧会。

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