2020年、春。川端通りと冷泉通りのT字路に咲く、満月の下の夜桜 2020年、春。川端通りと冷泉通りのT字路に咲く、満月の下の夜桜

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第36話

いつロックダウンされるともしれない東京を離れ、古巣の京都に場所を移して研究を進めることにした筆者。しかし、「仮説」のような期待していた結果が得られず......。

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■疎開生活のはじまり

さて、13年間住んだ、勝手知ったる京都である。例年のこの時期の京都は、観光客にあふれかえっている時期であるが、その姿がまったく見られない。ヘタをすると、街中を歩いている京都市民の人影すら少ないように感じられる。

滞在先には、研究所からほど近いビジネスホテルを選んだ。やはり宿泊客はほとんどおらず、宿泊費も信じられないくらいに安かった。これを執筆している2024年3月現在と比較すると、相場として現在の10分の1から20分の1くらい(ちなみに、当時滞在していたホテルは、残念ながら閉館してしまった)。

ともあれそのようにして、われわれの疎開生活は始まった。4月上旬には、私が京都に住んでいたときに好んで見ていた、川端通りと冷泉通りのT字路に咲く桜も満開を迎えた。

――そして、4月7日。緊急事態宣言が発出される。

■仮説と合わないデータ、過ぎゆく時間、そして...

学生たちもすぐに実験を開始し、京都入りしてから一週間も過ぎた頃には、実験データも得られ始める。

...しかし、どうにもおかしい。第35話で述べた仮説のような、期待していた結果が得られないのである。複数の学生が参加していたので、同時並行で同じ実験を進めていたが、どれも結果は同じ。

「SARSウイルスのORF3bはインターフェロンの産生を抑えるが、新型コロナウイルスのORF3bはそれを抑えない」。

これが私たちのプロジェクトの「仮説」であったが、実際に得られる結果は、何度やってもそのまるで逆。つまり、新型コロナウイルスのORF3bの方が、SARSウイルスのORF3bよりも、より強くインターフェロンの産生を抑えてしまうのである。

大前提と矛盾する「結果」 大前提と矛盾する「結果」

何度やってもそうだということは、それが実験の「結果」としては正しく、おそらく「仮説」が誤っているのだろう。しかしこの結果では、そもそものこのプロジェクトの大前提である、「COVID-19の病態が、SARSのそれよりもマイルドである」ということの説明にはつながらない。

――どうする? こんな疎開生活をいつまでも続ける訳にもいかない。ウイルスの流行も拡大の一途を辿っており、4月16日には京都も緊急事態宣言の対象となってしまった。このままでは、京都大学での研究活動に制限が課せられるのも時間の問題かもしれないし、なにより私たちが京都に滞在していること自体が、元ボスに迷惑をかけかねない。

そしてもし万が一、私たち疎開組が感染してしまった場合、これはもう惨劇でしかない。パンデミックの中、ノコノコと京都まで大挙して押し寄せてきて、新型コロナウイルスに感染し、それを研究所でばら撒いてしまう。当時の世相からしたら、いろいろなところから非難の嵐になることは目に見えていた。

そのような事態だけはなんとしても避けなければならないので、われわれは毎日、ホテルとラボの間だけを行き来し、外食も寄り道もせず、食事はすべて、コンビニかテイクアウトの弁当で済ませていた。

ある夜の夕食 ある夜の夕食

コンビニで購入したパスタとビール。せめてもの慰めとしてビールだけは贅沢なものを買ったりしても、ホテルでのこういう食事が毎日続くのはつらい。

シングルユースの狭いビジネスホテルの部屋での連日の食事は、日に日に苦痛なものとなっていった。使い捨てのプラスチックの器と割り箸での毎日の食事が、これほど精神的に堪えるものだとは思わなかった。東京の自宅にある、使い慣れた茶碗と箸、それに、晩酌のグラスが恋しい...!

――どうする? かぎられた時間。大前提と矛盾する結果が出てしまい、膠着するプロジェクト。疎開の滞在費用もかさむ一方である。もし万が一、そう、万が一ではあるが、もし計画したプロジェクトがうまくいかず、成果につながらなかったら、この疎開作戦に要した費用はすべて、ドブに捨てたことになってしまう。

テレビをつければ、当たり前だが、どのチャンネルを回しても新型コロナの話題。感染者数の推移や、これからの流行予測、「ニューノーマル」の解説。日々の生活で気をつけるべきことや、布マスクと不織布マスクの違い。屋形船、「夜の街」クラスター。尾身茂先生、西浦博先生、脇田隆字先生、アンソニー・ファウチ所長...。ひとがひとりもいないタイムズスクエアやピカデリーサーカス、凱旋門前の映像、そして、野戦病院と化した海外の病院の映像...。

フランス・パリのロックダウンの中での生活を丁寧に記述して発信していた辻仁成さんのブログには、ほとんど毎日目を通していた。ロックダウンの中、パリ市民はどのように生活していたのか。辻さん自身の生活も含め、その苦労はどの国でも同じで、皆が一刻も早い事態の収束を願っている。

――どうすればいい? 気づけばいつの間にか食事はほとんど喉を通らなくなり、夜に飲む酒の量と、吸うタバコの量だけが増えていった。

この連載コラムの第16話第17話第18話では、「G2P-Japan」のこれまでの新型コロナ研究の中でいちばん大変だったことを紹介した。しかし、「私自身」のこれまでの新型コロナ研究の中で、いちばん大変だったこと、つらかったことは何か? と問われれば、私は迷わず、この京都疎開の一連の出来事を挙げる。

研究室の長として、プロジェクト遂行のために京都についてきてくれた学生たちの頑張りに報いる必要性と義務、迫るタイムリミットに滞在コスト、そしてなにより、世界が直面する「パンデミック」という未曾有の事態。それらがあいまって、日に日に精神的に追い詰められていった。

■世界をひとつにするような歌を歌うミュージシャンが出てこない

憔悴が続く中のある夜、ホテルの外でいつものようにビールを飲みながらタバコを吸っていると、ふとあることに気がついた。これだけの全世界規模での異常事態であるのに、世界をひとつにするような歌を歌うミュージシャンが出てこないのである。

これが映画だったら、そんなアーティストが出てくるタイミングのはずだ。そして事態を落ち着かせて、希望に向けたストーリーが走り始めてもいい頃合いである。

著名なミュージシャンたちが、自分の歌や、ジョン・レノンの「イマジン」なんかを自宅で歌ったショートムービーをSNSで拡散しているさまはいくつか目にした。しかしそれでも、「みんなでひとつになって」というようなムーブメントは、ついに起こることはなかった。

――ジョン・レノンやフレディ・マーキュリー、ボブ・マーリーなんかが生きていたら、何かアクションしていただろうか?

そんなことを考えながら、ホテルの外の灰皿の前でチェーンスモークすることがいつしか習慣になっていた。そのときによく聴いていた曲のことは、いまでもよく覚えている。オアシスの「All Around The World」。

All around the world You've gotta spread the word Tell'em what you heard You know it's gonna be okay――

(筆者対訳:どうにかして、それを世界中に広めるんだ お前の知ってることをみんなに伝えてくれ そうすればきっと大丈夫だろ――)

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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