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ICCの赤根智子所長。東京大学法学部卒業後、1982年に検事任官。最高検察庁検事などを経て、2018年にICC判事に就任。23年にはプーチン大統領への逮捕状を出し、24年3月、ICC所長に選出された
今、米露というふたつの大国から圧力を受ける日本人判事がいる。国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長だ。背景にあるのは、ICCが出した逮捕状だが、ICCには容疑者を捕まえる能力がない。それでもなぜ、大国はここまで警戒するのか。国際法学者の村瀬信也(しんや)氏に、ICCを巡る国際法の限界と可能性を聞いた。
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8月18日、アメリカのトランプ政権が国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長らを制裁対象に指定した。米国内の保有資産凍結などを伴う措置で、翌19日、日本の外務省は「大変残念」というコメントを出した。
赤根氏は長く検察官を務め、2018年にICC判事に就任。24年3月、日本人として初めてICC所長に選出された。実はその前年に、ロシアのプーチン大統領に逮捕状を出した3人の判事のひとりでもある。これに反発したロシアは同年7月、赤根氏を指名手配リストに載せた。
つまり今、ひとりの日本人判事がロシアから指名手配され、アメリカからも制裁を受けているのだ。
なぜ、赤根氏はここまで目の敵にされるのか。その理由は、彼女が所長を務めるICCという存在にある。プーチンやトランプといった超大国のトップが、この組織のどこに神経をとがらせるのか。
上智大学名誉教授で、09年から22年まで国連国際法委員会(ILC)委員を務めた国際法学者・村瀬信也氏は、今回の赤根氏への制裁についてこう話す。
「赤根さんとは、ICCに赴任される際に一度だけ、ご挨拶したことがあります。トランプ大統領の彼女に対する制裁は、あまりのバカバカしさに言葉もありません」
2025年2月4日、会談したイスラエルのネタニヤフ首相(左)とトランプ米大統領(右)。この2日後、トランプ氏はICC関係者への制裁を可能にする大統領令に署名した
では、赤根氏が所長を務めるICCとは、そもそも何をする場所なのか。
「ICCは簡単に言えば、戦争犯罪など重大な国際犯罪について、"個人の刑事責任"を問うための裁判所です。国家間の紛争を扱う国際司法裁判所(ICJ)とは違い、大統領や政府・軍の幹部など、ひとりひとりを対象にします」
ICCはオランダ・ハーグに置かれた常設の国際裁判所で、対象となるのは集団殺害罪、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪などだ。例えばウクライナを巡っては、ロシアという国家ではなく、プーチン大統領本人を訴追の対象にしている。
「ICCには、戦争犯罪などの疑いを捜査し、誰が関与したのかを調べる検察部があります。検察部が証拠を集め、容疑者を逮捕する必要があると判断すれば、判事に逮捕状を請求し、判事の審査を経て、裁判所として逮捕状を出します。23年3月には、こうした手続きを経て、プーチン大統領に逮捕状が出されました。
ウクライナ侵略はプーチン大統領ひとりでできるわけではありません。ショイグ国防相やラブロフ外相、さらに彼らを支えた国際法の専門家らも、本来、刑事責任を追及されるべきです。私はそのことをILCの場でも強く訴えたのですが、実際にプーチン大統領に出された逮捕状は、ウクライナ侵攻そのものについてではありません。
占領地域からウクライナの子供をロシアへ違法に強制移送、追放した戦争犯罪についてなんです。この子供の移送に関わったとされるマリヤ・リボワ=ベロワ氏にも、同じく逮捕状が出されています」
なお、クレムリン(大統領府)は「ロシアはICCの管轄権を認めておらず、法的には無効」と反発している。
では、ロシアはICCに加盟していないのに、なぜプーチン大統領に逮捕状を出せるのか。
2024年9月3日、モンゴルを公式訪問したプーチン大統領と(中央)、同国のフレルスフ大統領(左)。モンゴルは逮捕状の出ているプーチン氏を逮捕しなかった
「ロシアはICCを設立したローマ規程の当事国ではありません。一方で、ウクライナはICCの管轄権を受諾しています。そのため、ウクライナ領域内で行なわれた犯罪については、ICCが管轄権を行使できるんです。
しかし、問題は逮捕です。実は、ICCには自ら容疑者を逮捕する警察組織がありません。逮捕状を出すのはICCですが、実際に容疑者を逮捕するのは各国の警察です。だから、その国が動かなければ、容疑者を捕まえることができないんです」
実際、24年9月にプーチン大統領がICC加盟国であるモンゴルを訪問した際、ICCは逮捕を要請したが、モンゴル当局はプーチン大統領を逮捕せず、そのまま帰国を許した。ICCはその後、モンゴルが逮捕・引き渡しに協力しなかったとして「非協力」と認定している。
「モンゴルは加盟国ですから、逮捕に協力しなければ義務違反になります。しかし、モンゴルからすれば、遠く離れたICCとの関係よりも、国境を接する大国ロシアとの関係を優先したのでしょう。
15年にも、逮捕状が出ていたスーダンのバシール大統領(当時)がICC加盟国の南アフリカを訪問しました。ICCは逮捕を求めましたが、結局逮捕されなかった。南アフリカはICCから義務違反と認定されましたが、それで何かペナルティが科されるわけではありません。それがICCの限界でもあるんです。
実際、戦後の東京裁判では、日本が連合国の占領下にあり、戦犯容疑者を逮捕・拘束する力がありました。国際裁判で実際に身柄を拘束し、裁判にかけるには、そうした権力的な支えが必要なんです。ところが、ICCにはそれがないのです」
では、ICCによってプーチン大統領が実際に逮捕される日は来るのか。
「かなりハードルは高いですが、あるとすれば、ロシアで政変が起きた場合です。ロシアの政権が変わって、新しい政府がプーチン大統領の身柄を引き渡す可能性はあります。
ミロシェヴィッチ元大統領がまさにその例です。ICCができる前、旧ユーゴスラビア紛争の戦争犯罪などを裁くための特別な国際刑事裁判所がつくられました。彼もそこで訴追されましたが、国内で政変が起きて政府が変わったことで、国際法廷へ身柄を引き渡されたのです」
オランダ・ハーグにある国際刑事裁判所(ICC)本部。ジェノサイドや戦争犯罪など、重大な国際犯罪に関与した個人を訴追・処罰するための常設の国際裁判所
実は村瀬氏は、ミロシェヴィッチ元大統領の裁判を傍聴したことがあるという。
「途中で休廷になって裁判官や記者たちが出ていったら、法廷に残ったのがミロシェヴィッチと私だけになって。彼がガラス越しにずっとこちらを見ていたので、しばらくお互いを見つめ合うような格好になったのを覚えています。
プーチン大統領についても、逮捕につながる可能性が最も高いのは、ロシア国内で政変が起きたときでしょう。だからこそ、彼は政変を何より恐れているのだと思います」
ICCと対立しているのはロシアだけではない。24年11月、ICCはイスラエルのネタニヤフ首相とガラント前国防相にも、ガザでの戦闘を巡る戦争犯罪や人道に対する罪の容疑で逮捕状を出した。
「ネタニヤフ首相にも逮捕状が出ています。しかし、逮捕するハードルはやはり高い。そこには、イスラエルにはアメリカという強力な後ろ盾がある、という特有の問題もあります」
この逮捕状に対して、トランプ政権は強く反発。イスラエルを擁護する形で、25年2月、ICC関係者への制裁を可能にする大統領令に署名した。今年8月には、その制裁対象に赤根所長も加えられたのだ。
しかし、ここまで見てきたように、ICCには自前の警察すらない。プーチン大統領の逮捕も、加盟国のモンゴルで執行できなかった。それほど強制力の弱い組織を、なぜロシアやアメリカはここまで敵視するのか。
「ICCの逮捕状は、まったく意味がないわけではありません。例えば、プーチン大統領は、逮捕状が出たことで行ける外国が限られています。ロシアと関係の深い国などは安全でしょうが、それ以外には行きづらい。そういう行動を制約する効果はあります。
また、先ほど話したように、ロシアで政変が起きれば、新しい政府がプーチン大統領の身柄を引き渡す可能性もある。今逮捕できないからといって、逮捕状そのものがなくなるわけではないんです」
国際法学者の村瀬信也氏
さらにICCの逮捕状は、国家元首であっても重大な国際犯罪の容疑者になりうると世界に示すものでもある。
「国際法にはもちろん限界があります。私の先生だった山本草二(そうじ)先生は、いつも『国際法は冷酷な法だ』と言っていました。国家は必ずしも正義や人道だけで動くわけではなく、自国の利益を優先することもある。だから、その国家同士の合意でできている国際法も、時に冷酷なものになってしまうのです。
以前、とあるメディアから『国際法は世界を変えられるのか』と聞かれたとき、私は『世界を変えることはできない。しかし、何が正しいか、何が間違っているか、その判断基準を人々に与えることはできる』と答えました。
まあ、これはちょっと苦し紛れの回答でもありましたけどね(苦笑)。本来、法というのは『何が正しいか、間違っているか』を示すだけではなく、違反した相手を実際に従わせるものでなければならない。国際法は、そこが十分ではないんです」
ICCは自ら容疑者を捕まえることはできない。しかし、本当に無意味なら、大国も無視するはずだ。それでもロシアは赤根氏を指名手配し、アメリカは制裁まで科した。強制力は弱くても、ICCは大国にとって無視できる存在ではないのだ。
●村瀬信也 Shinya MURASE
1972年、東京大学大学院法学政治学研究科修了(法学博士)。立教大学教授などを経て、93年から上智大学教授。2009~22年、国連国際法委員会(ILC)委員。著書に『国際法と向き合う』(信山社)など