「蛇行剣」「盾形銅鏡」「三角縁神獣鏡」などが次々と発見されている富雄丸山古墳 「蛇行剣」「盾形銅鏡」「三角縁神獣鏡」などが次々と発見されている富雄丸山古墳

昨年から今年にかけて、国宝級の副葬品が次々と発見されている日本最大の円墳、富雄丸山古墳。そこには誰が眠っているのか? その謎に迫った!

* * *

■最大の円墳、最長の剣、特殊な盾を持つ人物とは?

奈良県の富雄丸山古墳で、国宝級の副葬品が相次いで発見されている。

昨年はヘビのようにクネクネと曲がった2m37㎝の「蛇行剣」と、防具の盾のような形をした鏡「だ龍文盾形銅鏡」が出土した。

また、今年3月には〝卑弥呼の鏡〟といわれる「三角縁神獣鏡」と思われるものも見つかった。ここには誰が埋葬されているのか。そして、これらの副葬品は何を意味するのか。

富雄丸山古墳は奈良県北部、奈良駅から車で20分程度の場所にある。現在の発掘調査は5月頃まで続くという 富雄丸山古墳は奈良県北部、奈良駅から車で20分程度の場所にある。現在の発掘調査は5月頃まで続くという

まずは、富雄丸山古墳がどんな古墳なのかを発掘調査を行なっている奈良市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎氏に解説してもらった。

「富雄丸山古墳が造られたのは4世紀の後半です。この時代、地域の有力者が埋葬される古墳は鍵穴のような前方後円墳が普通です。しかし、富雄丸山古墳は丸い形をした円墳です。ただし、その直径は109mと大きく日本最大の円墳になります。

この富雄丸山古墳は3段造りになっているのですが、その墳頂(頂上)ではなく、造り出しと呼ばれる裾野の出っ張り部分から蛇行剣と盾形銅鏡、三角縁神獣鏡と思われる鏡が見つかりました」

では、富雄丸山古墳から出土した蛇行剣とはどんなものなのか。古墳時代に詳しい大阪大学の福永伸哉教授に聞いた。

「剣の長さが2m37㎝で国内最長のものです。古墳時代の剣は、蛇行していないものも含めて1mを超えれば日本最大級といえます。その2.5倍近いもので、しかも蛇行している。こんなものが出てくるとは、多くの考古学者も予想していませんでした。ですから何に使うかは私のほうが知りたいくらいです(笑)。

ただ、剣というのは武器ではありますが、邪悪なものを寄せつけない魔力を持っているとも考えられていました。その魔力を持っている剣をさらに蛇行させるということで、魔力を倍増させて邪悪なものから自分たちを守るということを意識していたと思います。その蛇行した剣の長大なものを作ったわけです。

そして、この蛇行剣のさやには石突がついていたことから、剣を立てていたのだろうということがわかりました。例えば、軍隊が出動するときなどの儀式でこの蛇行剣を立てて軍隊の士気を高めたり、魔力を与えてもらったりしたということは可能性としてあります。さすがに2mを超える剣を振り回すのは大変でしょうから。

また、少し専門的になりますが、蛇行剣の出土が多くなるのは5世紀からです。それよりも約50年早いということは、おそらく日本で一番古い蛇行剣のひとつでしょう。そして、魔力を倍増させる蛇行剣という剣の試作品ではないかと思っています。

さらに、当時の技術力が高かったこともわかります。2mを超える剣を作るわけですから、鉄を熱してトンテンカンと打つ大きな鍛冶炉が必要です。そして、その炉に風を送る送風装置や内部の温度を高める技術など付帯する設備や技術も必要になります。

すると、われわれ専門家が想定していた4世紀後半の鉄器生産のイメージが一新するような大きな発見でもあるわけです」

富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は、全長2m37㎝。刃の部分は2m16㎝。さやに入れると2m85㎝になる。また、持ち手のつかは剣と刀の両方の形を併せ持っている 富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は、全長2m37㎝。刃の部分は2m16㎝。さやに入れると2m85㎝になる。また、持ち手のつかは剣と刀の両方の形を併せ持っている

これは、歴史の教科書が変わるくらいのことなのか?

「歴史の教科書というと大げさですが、少なくとも国内の金属器生産の技術史を完全に一新するような発見です。蛇行剣としては日本で一番古く、儀式用の剣としても最長の逸品ですから」

では、「だ龍文盾形銅鏡」はどうだろう。前出の柴原氏が語る。

「日本で見つかっている古墳時代の鏡は、すべて円形なんです。しかし、盾の形をした鏡が初めて出てきました。さらに、一般的な鏡は文様がひとつですが、盾形銅鏡は上下にふたつ並んでいます。

極めつきはその大きさです。盾形銅鏡は長さ63㎝で幅32㎝。鏡としては日本一の大きさです。これだけ大きくて、複雑な文様の鏡を作るためには非常に高い技術が必要です」

福永氏も驚きを隠せない。

「だ龍文盾形銅鏡は『こんなものがあったのか!?』と考古学者も想像していなかった空前絶後の発見です。私も、なぜ盾の形をした鏡を作ったのかを当時の人に聞きたいくらいです。

ただ、推測するならば、富雄丸山古墳の少し後に造られた古墳で、革に漆を塗って作った同じような形の盾が棺の上に置かれた例があります。これは被葬者に邪悪なものが取りつかないように盾で保護するという意味だと思われています。

すると、だ龍文盾形銅鏡も蛇行剣と同じように埋葬されている人に邪悪なものが取りつかないように特別に作られた鏡ではないでしょうか。実は、鏡自体にも邪悪なものを遠ざけるという機能があるので、その鏡を武具として防御の機能のある盾形にすることで、邪悪なものを遠ざける力を倍増させたのではないかという推定が成り立ちます。

また、この鏡を作るのも技術的に非常に難しいんです。なぜかというと、この盾形銅鏡の厚さは5㎜くらいしかありません。非常に薄い。これだけ薄い青銅器を穴が開かないように作るには高度な技術が必要です。しかも、厚みがずっと同じなんです」

■卑弥呼の鏡をなぜ持っているのか?

そして今年、埋葬されていた木棺の中から、3枚の青銅鏡が発見された。その中の1枚が〝卑弥呼の鏡〟といわれる三角縁神獣鏡かもしれないというのだ。

三角縁神獣鏡とは何か。なぜ、卑弥呼の鏡といわれているのか。柴原氏が説明する。

「三角縁神獣鏡は、中国の魏という国で作られた円形の鏡です。縁の断面が三角形で少し高くなっていて、中央の突起物の周囲に神像と獣像が描かれていることから、三角縁神獣鏡と呼ばれています。

魏の歴史書である『魏志倭人伝』に『239年に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ってきた。240年に魏の皇帝は銅鏡100枚を渡した』と書かれているため、三角縁神獣鏡がその銅鏡ではないかといわれているんです」

今年3月に富雄丸山古墳で発見された3枚の銅鏡。一番上にあるのが三角縁神獣鏡だとみられている。また、3枚とも三角縁神獣鏡の可能性もあるらしい 今年3月に富雄丸山古墳で発見された3枚の銅鏡。一番上にあるのが三角縁神獣鏡だとみられている。また、3枚とも三角縁神獣鏡の可能性もあるらしい

以前、国内で見つかった三角縁神獣鏡。縁が三角形をしていて、中央部分には神仙と天獣の文様があることから、そう呼ばれている 以前、国内で見つかった三角縁神獣鏡。縁が三角形をしていて、中央部分には神仙と天獣の文様があることから、そう呼ばれている

福永氏が続ける。

「ただ、三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡は、日本でこれまでに600枚ほど発見されています。そして、そのうちの約450枚が中国製で、約150枚が日本製だとみる説が有力です。

卑弥呼が中国に使者を送って持ち帰ったものが一番古いタイプのもので、その後も邪馬台国は何度か魏や西晋に使者を送っているので、そのたびに三角縁神獣鏡をもらったため450枚くらいになったと考えられています。

青銅はスズと銅を混ぜて作られるのですが、スズ分が多いか少ないかで鏡の制作時期や制作地が大まかに判別できます。古い中国鏡はスズ分が多く表面が黒っぽくなり、日本製は銅が多く青サビが出やすくなります。

今回の鏡は黒っぽい色をしていますから、三角縁神獣鏡の中でも古いタイプの鏡だと推定できます。ですから、卑弥呼が生きていた時代にもらった鏡の可能性があります。

ただ、それは3世紀の中頃のことです。富雄丸山古墳は4世紀の後半に造られましたから、100年以上前の話なんです。では、なぜ100年以上前の鏡が富雄丸山古墳の被葬者のもとにあったのか。

これには、ふたつの考え方があります。ひとつは、富雄丸山古墳の被葬者は有力者の家系で、ご先祖さまが卑弥呼から鏡をもらったけれども、すぐには埋めないで100年以上後の子孫の代になって埋めた。

もうひとつは、3世紀中頃に誕生したヤマト王権の中枢の人間が卑弥呼の鏡を持っていて、100年くらいの間に重要人物たちにお宝として与えたというものです」

いずれにしろ、富雄丸山古墳に埋葬された人物は、4世紀後半の重要人物であることは間違いない。

では、いったい、どんな人物なのか。福永氏が解説する。

「日本の国の成立の第一歩は、ヤマト王権の成立ということになります。それは、ちょうど卑弥呼が亡くなった3世紀の中頃です。そして、その後5世紀になると〝倭の五王〟と呼ばれる王が5人続く安定的な統一王権が存在したことがわかっています。

でも、その間の4世紀に、どのように王権が推移していったのかは文献からはわからないんです。そのため、「空白の4世紀」と呼ばれています。

また、この空白の4世紀に王陵の場所がすごく変わっています。

3世紀の古墳は、邪馬台国、あるいは初代ヤマト王権の王の王陵と考えられるものが、奈良盆地の南にあります。そして、5世紀になって倭の五王の時代になると、大阪の平野に移っています。

では、4世紀はどうかというと、富雄丸山古墳のある奈良盆地の北に王陵が一時出てきます。つまり、4世紀は王陵の所在地が奈良盆地の南から北を経て、大阪平野へと変化する激動の時代なんです。

そして、富雄丸山古墳の調査によって、ある仮説が考えられるようになりました。

ヤマト王権の王は、畿内地域の諸勢力の中で、どの派閥が担いだ王なのかということです。王権の成立期は奈良盆地の南部の勢力がリーダーシップを握って王を輩出する立場にいた。しかし、4世紀になると弱体化して、主導権が大阪の平野部の勢力に移っていった。自民党の派閥争いみたいなものです。

そのとき、大阪の平野部の勢力のために非常に重要な働きをした人物が、富雄丸山古墳に眠っているのではないかというものです。

というのも、大阪平野に主導権が移ったヤマト王権は、5世紀になると盾形銅鏡に似た形をした革で作った盾や蛇行剣を各地の有力者に分け与えています。それによって連携を強めていきました。

その一番古いものが富雄丸山古墳から出ているのですから、大阪の平野部のヤマト王権に大きな影響力を与えた人だということが考えられるわけです」

魔力を持った日本最長の蛇行剣や特別な盾形銅鏡を持っていた。卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡を与えられた。後のヤマト王権に強い影響力があった。日本最大の円墳に埋葬されていた......。

その人物は卑弥呼のような呪術者なのか。知略に富んだ戦略家なのか。

今のところ、それが誰なのかはわからないが、日本の歴史に新たに重要人物が増えたことは間違いない。そして、今後、この謎が少しずつ解き明かされていくはずだ。