限りなく境界に近い科学~チャチューンサオ(2)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】

文・写真/佐藤 佳

タイ人ポスドクCと私。チャチューンサオのサンプリングポイントにて。タイ人ポスドクCと私。チャチューンサオのサンプリングポイントにて。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第170話

「キクガシラコウモリ」の生息地へ――。タイのサーベイランスの「現場」から見えてくるものとは何か。

* * *

【ある既視感と、「現場」を見る意義】

このチャチューンサオの自然保護地区には、私たちの研究対象である「キクガシラコウモリ」だけではなく、さまざまな野生動物が生息しているらしい。サルにシカ、さらに運が良いときにはゾウに遭遇することもあるという。

シカだ! サルだ! と、女子が多いバンの中ではキラキラした言葉が弾んでいた(しかしそのほとんどはタイ語なので、やはり何を言っているのかは私にはわからず、車窓を眺めてその意図を憶測した)。

――と、ここでふと、私はある既視感を覚えた。

そうだ、私はこの前年(2024年)に、マレーシアのボルネオ島で、似たような経験をしていた。ボルネオ島のジャングルを奔走し、そこで私は、野生動物には特に興味を覚えない人間であるという事実に気づいたのだった(124話)。

今回は、私の研究対象であるコウモリをめぐる旅である。しかしこの旅は、コウモリのサンプルを実際に集めることが目的ではなかった。今回はあくまで、「コウモリのサーベイランス(感染症に関する現地調査)」の現場を目の当たりにすること。つまり、「(コウモリのサーベイランスの)現場の下見」にあった。

2024年、私がさまざまな国に出張を重ねていた理由のひとつがこれである。これまで、サーベイランス候補地の現地視察も兼ねていた出張には、アラブ首長国連邦(UAE、102話)、エチオピア(115話)、アルジェリア(140話)、そして上述した、マレーシアのボルネオ島(120話)がある。

これらの経験から私が切に感じていたことは、「そこで起きていることは、その『現場』を見ないとわからない」、ということだった。

ラクダが闊歩する中東では、人間とラクダはどのように接しているのか? ジャングルの野生生物とほかの動物、そして人間は、いったいどのように接触しうるのか? そして、東南アジアに生息するコウモリは、いったいどのようなところで、どのようにして暮らしているのか?

そこでは何が起こり得て、何が起こり得ないのか? それを想像するためには、少なくとも私は、その「現場」を知らなければ、それをうまくイメージすることができない。

――2024年のさまざまな現地視察や国際共同研究のための打ち合わせを経て私は、これから研究の軸を東南アジアを定めた。

SARSやCOVID-19はアジア発祥と考えられている一方で、MERSは中東、あるいはアフリカ発祥とされる。つまり、「コロナウイルス」を軸にサーベイランスを展開していくにしても、世界はあまりに広すぎるのである。

研究予算、マンパワー、さまざまな国々とのコネクションや攻略難易度。2024年の実体験を総合して、私はまずは、東南アジアにサーベイランスの軸を据えて、これからの研究を展開することにしたのだった。

【コウモリの住処(すみか)】

――さて、コウモリである。

ここで気づいたのは、「ついに(キクガシラ)コウモリを見られる!」ということに高揚する自分であった。やはり私は、「野生動物」などという茫漠な存在(124話)には興味が湧かないものの、自分の研究対象には強い興味が煮えたぎるようだった。

そしてその道中、科学雑誌『サイエンス』に掲載された、私のタイのカウンターパートであるスパポーン女史の記事に登場する場所があった。それに気づいた私は、無心にiPhoneのシャッターを切り続けていた。いわゆる「聖地巡礼」である。

(上)私が訪れた、チャチューンサオのサンプリングサイト近くの道。(下)科学雑誌『サイエンス』に実際に掲載された写真。こういうのも、実際の現場に触れることでテンションが上がる。要は「聖地巡礼」である。(上)私が訪れた、チャチューンサオのサンプリングサイト近くの道。(下)科学雑誌『サイエンス』に実際に掲載された写真。こういうのも、実際の現場に触れることでテンションが上がる。要は「聖地巡礼」である。

同行していたタイ人ポスドクのCと一緒に、個人用防護服「PPE(personal protective equipmentの略)」、ゴム手袋、N95マスク、プラスチックゴーグルを身につけて、いざ、キクガシラコウモリの住処へ。

......それは「洞窟」というよりも、直径1メートルほどの排水用の「トンネル」だった。ライトで奥を照らしながら、しずしずと中に入っていく。

チャチューンサオのサンプリングサイトの「洞窟」、ではなく、排水用の「トンネル」。チャチューンサオのサンプリングサイトの「洞窟」、ではなく、排水用の「トンネル」。

高揚感と緊張感を胸にそこに踏み入って湧いた感情は、「すごい!」でも「こわい!」でも、あるいは「カッコいい!」でもなかった。

それは、「くさい!」であった。「におい」は写真には写らないのである。

しばらくしてその独特のにおいに慣れた後、ライトで奥の方を照らしてみる。すると、10メートルほど先に、数十匹のコウモリがいるのが見えた。トンネルの天井に静かに張りついている。そして時折、数匹がこちらに向かって飛んできては、仲間のコウモリになにかを伝言するように元の場所に戻っていく。

――繰り返すが、今回の目的はあくまで「下見」。コウモリたちを捕まえたり、下手な刺激を与える必要はないので、心ゆくまでその「現場」を観察し、それを脳裏に焼きつけてその場を離れた。

【心地よい時間】

個人用防護服を脱いで、屋外のベンチに腰かける。もし私がタバコを吸っていたら、まさにここで一服をするタイミングだっただろう。しかし私は、数年前にタバコを止めている。

集合した屋外のベンチで、タイ人ポスドクCがタイ語でミーティングを始めた(タイ人の現場監督には英語が通じなかったため)。タイ語がわからない私はもちろん蚊帳の外だったが、静かにそよぐ自然の中を流れる空気は、暑すぎることもなく心地よかった。

ミーティングの後、バンを走らせて(専属のドライバーを雇っているらしい)、近くの定食屋に立ち寄ってみんなで遅い昼食をとった。気がつけば私以外全員タイ人の空間で、タイ語だけが飛び交う中、ポスドクCが時折思い出したように、英語で私に通訳してくれた。

タイの片田舎でタイ語が飛び交う中、いろいろなタイ料理に舌鼓を打ち、陽の高いうちからシンハービールで喉を潤す。不思議な異世界の居酒屋感のある、心地よい昼下がりであった。

そしてそこから、車でまた3時間ほどかけてバンコクに戻る。サームヤーン地区のホテルに着く頃にはすっかり日が暮れていた。

特になにをしたわけでもないのだが、さすがに疲労困憊である。解散した後、夜のホテルのプールで泳いで汚れを落とし、部屋に戻って熱いシャワーをじっくりと浴び、ベッドに横になった。

【現地視察を終えて】

その翌日。旧知の仲であるマヒドン大学のSさん(12話79話に登場)とひさしぶりに再会し、ローカルなタイ料理を楽しんだ(そして、この旅に出てから初めて日本語で会話をした)。

(左)この日の気温。10分ほど外を歩いても、ちょっと汗ばむくらいで快適な気候だったのだが、まさかの36度。(右)久しぶりにSさんと。ロン毛のおっさんふたり。(左)この日の気温。10分ほど外を歩いても、ちょっと汗ばむくらいで快適な気候だったのだが、まさかの36度。(右)久しぶりにSさんと。ロン毛のおっさんふたり。

シンガポールと違って湿気がなく、また風も吹いているので、バンコクは気温の割に暑くはなかった。

......のだが、乾季のタイのこの時期は、空気がバンコク周辺に停滞するらしく、大気汚染がひどいらしい。そういえばこのふた月前には、大気汚染が原因で、バンコク市内の電車がすべて無料になっていたことを思い出した(163話)。

しかもこの大気汚染の原因が、近隣国の焼畑のせいであるというから驚きである。公害といえば工場、という先入観があるが、「工場の煙」などではなく、「畑を焼いた煙」のせいで大気汚染というのもなんとも......。

と思いつつも、隣の国から黄色い砂が飛んでくるタイプの大気汚染もあるのだから、言うほど大差はないのかな、などと思いながら、バンコクを後にするのであった。

帰路、スワンナプーム国際空港に向かう道中の車窓から。たしかに、えぐいくらい空が霞んでいた。帰路、スワンナプーム国際空港に向かう道中の車窓から。たしかに、えぐいくらい空が霞んでいた。

※4月15日配信予定のシンガポール(1)に続く

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  • 佐藤佳

    佐藤佳

    さとう・けい

    東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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