「なぜ賃金が上がらないのか?」30年に及ぶ日本経済の閉塞を打ち破る奥の手とは!?

取材・文/日野秀規 撮影/榊 智朗

「低賃金でも職務をきっちり果たす日本の"現場力"は素晴らしい。でもこれが裏目に出てしまって賃金が上がらなかった側面があります」と語る首藤若菜氏「低賃金でも職務をきっちり果たす日本の"現場力"は素晴らしい。でもこれが裏目に出てしまって賃金が上がらなかった側面があります」と語る首藤若菜氏

今年に入ってから、賃金上昇率から物価上昇率を差し引いた「実質賃金」のプラス基調が続いている。とはいえ物価に目を向ければ、「頻繁に購入する品目」の上昇率は平均をいまだ大きく上回り、暮らし向きは青息吐息という人も少なくない。

こんな状況下で最も知りたいことがそのまま書名になった新書『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽(かんせい)』が注目されている。零細企業の工場や日本経済の動脈たる物流の現場をつぶさに見て、リアルな賃金力学を知り尽くす著者の首藤若菜氏を直撃した。

* * *

――読者の反応は?

首藤 取材を受けたり、講演や勉強会で全国を回ったりして、いろいろご意見をいただきました。「報道では賃上げとか言うけど、実感は全然ない」と感じている方はやっぱり多いです。

物価上昇を起点に、賃金が上がっている人と上がらない自分との差をイヤでも認識せざるをえない人が増えてきていると思います。格差の拡大が強く認識されるようになっているという印象です。

――格差社会という言葉は以前からありましたよね。

首藤 これまで言われてきた格差は、主に正規雇用と非正規雇用の間での雇用の安定や、賃金水準についてのものでした。その部分では近年、最低賃金引き上げによって賃金格差が縮小してきた面があります。

この流れは今後も続きますし、大企業の賃金も同様に上がっていく。対して、この両者に押し込められるかのように、中小企業では賃金を上げられない企業の苦境が目立ってくるでしょう。

――その危機感は、政府や経済団体、労働組合といった、賃金に影響力を持つ組織・団体には理解されているのでしょうか。

首藤 労働組合があるのは大企業ばかりです。なので自分たちのことは頑張るけれども、中小零細企業はどうしても管轄外になってしまいます。

賃金を上げられていない中小企業経営者は、当然焦っているでしょう。大変な人手不足ですから、賃金を上げられないと従業員が辞め、おまけに補充できない恐れがあるわけですが、原資の確保が難しい。

物価上昇によるコスト増を中小企業が全部は価格転嫁できていない以上、政府が賃上げ税制や最低賃金引き上げの音頭を取っても、根本の仕組みから変えていかないことには中小企業が窮地に追いやられるばかりだと思います。

――この構図が、本書の帯に書かれている「経済学の常識が通じない」「日本企業が陥った罠」なのでしょうか?

首藤 はい、そのひとつです。経済学の常識でいえば、不足しているものの価格が上がる、つまり人手不足は賃金上昇の原動力になると考えます。でも現状、人手不足が激しい介護や物流の分野、あるいは中小企業の賃金上昇率は高くありません。

中小企業なら価格転嫁の遅れ、介護なら国がサービス価格を決めていること、物流は多層下請け構造を成していることなど、賃金が上げられない理由はそれぞれ別なので、個々に変えていかないといけないんです。

――賃金が上がらず割り切れない気持ちを持ちながらも、労働者がそれぞれの現場で頑張ってるのってすごいことですよね。

首藤 そのことを私は〝現場力〟と言っています。コスト上昇を価格転嫁できない中で、まず賃金を上げない。そしてもうひとつ、現場の労働者がそんな状況でも強い責任感と高い能力で、自分たちで改善をして生産性を上げていく。

これが日本の現場力だと、世界でたたえられてきたんです。素晴らしいことだと思いますが、これが裏目に出た面も私はあると思ってます。むやみに頑張っちゃうから、賃金が上がらないんですよ。

――頑張るのが良くないと?

首藤 頑張ることはもちろん良いことなのですが、その分しっかり要求しないと、ということなんです。価格が上げられない企業は過剰な節約志向になり、設備を更新してきませんでした。そうすると中小企業の工場で労働者が現場力を発揮して、古くてボロボロな機械を修理しながら使い続けてるんですよ。

涙ぐましい努力だけれども、一方で他国では、労働者が無理してまで補わないので、新しい機械を入れて生産性を高めています。つまり無理を引き受けないから、経営者に投資させているんです。

だから日本の労働者も手を抜けばいいわけではなくて、高い現場力で高クオリティ商品を生み出して、より高価格で売って、堂々と賃金アップを要求できるようにしたいし、経営者にはそれを理解してほしいですね。

――その考え方のモデルが、本書で書かれた「賃金を起点に考える」でしょうか。

首藤 はい。欧州の労使交渉を見ると、物価上昇分プラスアルファで賃金を上げることが決まっているので、そのためには価格をこれだけ上げないといけない、というロジックを主張しています。

それが日本では、価格転嫁できるかどうかが先です。また、みんな労働者なのに消費者意識が強いので、価格転嫁が歓迎されません。だから賃金アップの原資がつくれない、となってしまうんです。

――そうはいっても、例えば自分が勤めている会社が価格転嫁をして賃金が少し上がったからといって、売り上げが下がって雇用にまで影響したら本末転倒ですよね。

首藤 ええ。ですから労使交渉において、個々の企業が孤立しない、労働者が不安にならない形を政府がつくるべきだと思います。例えば欧州では、日本の企業別とは違って業種別に組合が組織されていて、労使交渉の結果が組合がない企業にまで波及します。

――へえ、そんな制度が!

首藤 これを労働協約の拡張適用といって、この制度下では儲かっていない企業も賃金アップを迫られ、それができないなら市場から撤退する。労働者は同業種の勝ち残った企業に移ればいいんだと。

日本にも制度はありますが要件が厳しく、使われていません。国が腹をくくって見直せば、賃金は上がります。こんな要領で、政府が業種ごとの課題に対応した制度改革を行なっていく必要があるんです。

私も政府の委員会に入ったり、労働組合とも密にやりとりして力を尽くしていますが、実質賃金が上がってきたからといってここで手を緩めてしまうと、勢いが止まってしまうかもしれません。「賃金を起点に考える」を合言葉にしていきましょう!とお伝えしたいです。

●首藤若菜(しゅとう・わかな)
1973年生まれ、東京都出身。立教大学経済学部教授。日本女子大学大学院人間生活学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。 専攻は労使関係論、女性労働論。 著書に『グローバル化のなかの労使関係―自動車産業の国際的再編への戦略』(ミネルヴァ書房、労働関係図書優秀賞、社会政策学会奨励賞受賞)、 『物流危機は終わらない―暮らしを支える労働のゆくえ』(岩波新書)、『雇用か賃金か 日本の選択』(筑摩選書)などがある

■『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』
講談社現代新書 1100円(税込)
労働現場、政策、学問の間を往復しながら、なぜ日本で実質賃金の停滞が続いてきたのかを問い直し、その背景にある構造を明らかにする――こんな表明から始まる本書は、業界ならではの取引慣行や労働現場の実情を反映した労働市場の分析と提言によって、政府や労働組合といった有力なプレイヤーに制度・行動の変革を迫る。街場のリアリティと無縁な経済学が備ええないその鋭さと情熱は、われわれ労働者に送られた力強いエールでもある

★『“本”人襲撃!』は毎週火曜日更新!★

  • 日野秀規

    日野秀規

    ひの・ひでき

    フリーライター、個人投資ジャーナリスト。社会経済やトレンドについて、20年にわたる出版編集経験を活かし幅広く執筆活動を行なっている。専門は投資信託や ETF を利用した個人の資産形成。
    X【@kujiraya_fp】

Photo Gallery

編集部のオススメ

関連ニュース

TOP