話題を呼ぶ『1998年の宇多田ヒカル』著者・宇野維正氏は、宇多田の新曲「花束を君に」「真夏の通り雨」から何を感じたか?

「人間活動」への専念による活動休止から約5年半、宇多田ヒカルがついに本格復帰を果たした。NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌「花束を君に」、そして日本テレビ『NEWS ZERO』のエンディングテーマ「真夏の通り雨」が4月4日に初オンエアされたのだ。

CDが売れないと言われて久しい音楽業界において、宇多田ヒカルの復活が意味するものは何か? 初オンエア翌日、現在4刷を重ね反響を呼ぶ『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)の著者、宇野維正(これまさ)氏に聞いた――。

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―フルバージョンの発表は共に15日とのことですが、「花束を君に」「真夏の通り雨」の2曲を聴いてみていかがでしたか?

宇野 もう次元が違います。2曲とも一聴した感想は、「あ、アデルなんだ」と。サウンドプロダクションの方向性としてね。ミックスエンジニアにクレジットされているのは、サム・スミスを手がけたスティーブン・フィッツモーリス。宇多田ヒカルの音楽は、もはやアデルやサム・スミスと比較するべきものであって、日本の音楽シーンの中での位置づけはもう意味がないです。

―歌声に関しては?

宇野 相当変わりましたね。2012年に配信リリースされた「桜流し」を除けば、新録が5曲収録された『SINGLE COLLECTION VOL.2』以来、5年5ヵ月ぶりですから声も変わるでしょう。元々、彼女の歌声の根っこには「切なさ」があると言われていますが、それに加えて「温かみ」が増した。それは宇多田ヒカル自身が母親になったからということもあるかもしれませんね。

―ブランクをものともせず、進化してますか?

宇野 とてつもなく進化している。再婚や出産もあったので、もしかしたら当初彼女がなんとなく想定していた以上にブランクは長くなったかもしれません。しかし、休業は新しい音楽を創作するために人間的な生活がしたいと、彼女自身が選択したもの。その間もずっと彼女はアーティストだったんだなと感じました。

もうひとつ面白いのは、まだフルバージョンは未公開ですが、2曲ともタイトルも歌詞も全て日本語ですよね。長らく海外で生活する中で、日本語の響き、日本語の美しさを再認識したんだと思います。

宇多田ヒカルは、なぜあれほど売れたのか?

―『1998年の宇多田ヒカル』を踏まえつつ、2016年に宇多田ヒカルが復活する意味を語っていただきたいのですが、まず本書のタイトルにもある「1998年」は日本で史上最もCDが売れた年です。日本経済が下り坂に入っていた中、なぜそれほど売れたのでしょう?

宇野 まず、この本は1998年にデビューした4人――宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみにフォーカスしていますが、彼女たちが本格的にブレイクするのは99年になってからです。

98年にCDが売れた理由には、大きく3つの要素があります。まず、B’zのベストアルバムが2枚出て累計1000万枚以上のセールスを記録し、L’Arc~en~CielとGLAYが最も売れていた時代だったこと。

ふたつめは、カラオケブームのピークです。カラオケが日本人のライフスタイルに定着して、みんな新曲を歌いまくっていた。今はカラオケボックスで前の客の履歴を見ると、基本的に懐メロやアニソンばかりでしょう。でも当時はみんな我先にと新曲を覚えるためにCDを買っていた。

3つめは、すでに終焉に差し掛かってましたが、小室ブームがまだ98年までは続いていた。小室ブームとはなんだったのかというと、それ以前は普通の日本の若者にとって音楽を聴くことって基本的に「オブジェクト・オブ・デザイア」、つまり欲望の対象として、男性は女性シンガーやアイドル、女性はジャニーズなどを聴いていた。それをカラオケブームが変え、特に女性は自分がカラオケで歌いやすい同性歌手の曲を歌うようになった。それとリンクする形で小室哲哉は、主に女のコ向けに女性シンガーの曲を作っていたわけです。

―市場が成熟しきったところで、宇多田ヒカルたちが出てきたと。素朴な疑問なんですけど、宇多田、椎名、aiko、浜崎の4人はなぜ全員女性なんでしょう?

宇野 今言ったように、小室哲哉が女のコ向けの女性シンガーのマーケットを大きくしていたからです。プラス、宇多田ヒカルや椎名林檎は男性リスナーをも取り込んだ。男性の中では「アイドル的なものを聴くのはちょっとカッコ悪い」とされていた時期だったんですが、宇多田ヒカルや椎名林檎はカッコよかった。要するに、彼女たちはアイドル性も保ちつつ“音楽好き”にも響く、万能のシンガーソングライターだったんです。

―なるほど! よく「Jポップは死んだ」と言われますが、例えば長渕剛や中島みゆきなど、第一線で活躍し続けるベテランも多い。なぜこの人たちが今も活躍しているかというと、リスナーが何歳になっても聴ける「良質かつ大衆的な音楽」をやっているからだと思うんです。宇多田ヒカルや椎名林檎もここに入るでしょう。彼女たちはこの良質な大衆音楽の最後の世代なんじゃないでしょうか?

宇野 残念ながら、そうでしょうね。

―そういう意味でも、2016年の宇多田ヒカルの復活は、日本の音楽史において大きな意義があるんじゃないかな、と。

宇野 そうですね。興味深いのは、昨年、ブックオフで売られたCDランキングの1位は、宇多田ヒカルの『SINGLE COLLECTION VOL.1』だったんですよ。9位には椎名林檎の『無罪モラトリアム』も入っています。つまり、当時売れた何百万枚ものCDは今も若い人たちにも受け継がれているんですよね。

ただ、それが圧倒的なマジョリティになるかと言えば、そうは思わない。もちろん、宇多田ヒカルがニューアルバムを出せば1位にはなるでしょうが、「花束を君に」も「真夏の通り雨」もシングルCDとしてリリースされる予定はありません。もうチャートに常に君臨するようなトップセラーアーティストにはならないような気がします。聴き手のリテラシーもここ10年くらいで破壊されてしまった。

―それは、AKB48グループやEXILEグループとかに?

宇野 チャートを殺したという意味では、48グループやEXILEグループに罪を押し付けがちだけど、音楽のクオリティを下げてるのはもっと他にいると思います。むしろ48グループや三代目J SOUL BROTHERSなどは制作にお金をかけてちゃんと曲を作ってるほうです。

Jポップのクオリティが下がったのは複合的な要素がありますが、簡単に言えば、貧(ひん)して鈍(どん)したわけですよ。CDが売れないから制作費がかけられない。でも機材の進化によって楽に作れるようになってしまった。その中で聴き手も、そして作り手までも本当のクオリティを知らずに育ってしまったというのが、ここ10年の傾向じゃないですかね。

しかしだからこそ、その反動もあり、良い音楽はずっと残り続けるんです。海外でそれを成しえているのは、例えばアデル。こんな時代に、彼女のアルバムは毎作1000万枚以上売れている。宇多田ヒカル本人がどう思っているかはわからないですが、周囲のスタッフが意識しているのは、メディア露出も少ないしツアーもあまりやらないけれど、まだCDを買う習慣が残っている年齢層の高いリスナーにちゃんとリーチしているアデルのような存在なのではないでしょうか。

母親の喪失と、自分が母親になったこと

―「花束を君に」は、非常に朝ドラの雰囲気に合っていますが、そこらへんは職人的なところもあるのでしょうか?

宇野 いや、僕にはとてもこの曲が職人の仕事だとは思えない。ドラマの主題歌であることはもちろん意識して書いているでしょうけど、それ以上に彼女の現在の想いが溢れ出ている。歌詞をよく聴いてもらえばわかりますが、他に解釈する余地がなく、これは彼女のお母さんのことを歌っているように思います。

―2013年に自ら命を絶った母親の藤圭子さんですね。

宇野 「真夏の通り雨」の《自由になる自由がある》という歌詞も強烈でした。彼女は音楽の力で悲しみを乗り越えようとしているんだと思ったし、それが今回の復活の大きな動機になっているとさえ思います。年内には出るであろうアルバムには、それだけじゃなく、今度は彼女自身が母親になった喜びも歌われているかもしれない。母親の喪失と、自分が母親になったこと、それが作品のテーマになってくると自分は想像してます。

宇多田ヒカルは初期からよく母親のことを歌っていて、ラブソングにおいてもその求愛の対象は実は母親なんじゃないかということは、彼女の熱心なファンならば気づいていたと思うんです。でも、今回は今まで以上にパーソナルな部分が色濃く出ている。それがポピュラリティを得られるかどうかは…もう僕にはそんなことどうでもよくなっちゃいました。興味があるのは、彼女が何を作るかだけです。

―世間の反応はどうでもよくなっちゃいましたか(苦笑)。

宇野 拙著『1998年の宇多田ヒカル』では、取り上げた4人のシンガーのプライベートなことにはほとんど触れないようにしました。それはまずは彼女たちの音楽について書きたかったのと、本の“品”を保ちたかったから。ゴシップ的な内容だと誤解されるのはイヤだったからです。

ただ、本当にアーティストの作品を理解しようとする時に、プライベートの出来事を完全に切り離して考えられるのかな?とも思うんですよ。この本は椎名林檎やaikoのことも書いていますが、もし宇多田ヒカルだけで一冊書くとなれば、本質に迫るためにそこに踏み込まざるを得なかったでしょう。その一線は、なかなか難しいんですよ。

例えば海外だったら、U2のボノはお父さんが亡くなった時に父の死をテーマにアルバムを作ったり、マーヴィン・ゲイは離婚したら『離婚伝説』というアルバムを出したり。アーティストの作品にとって私生活が大きなテーマを占めるのは別に珍しいことではありません。

今だったら、リアーナやジャスティン・ビーバーはゴシップメディアを賑(にぎ)わせながら、それをある意味利用もしていて、時には傷つきながらも自身のクリエイティビティに反映させ、作品を追うごとに音楽的なクオリティが高くなっている。そういう創作上におけるダイナミズムがあるわけです。

日本ではそういう現象は生まれなくて、どうしても女性週刊誌の特ダネみたいになっちゃう。だから僕は、本当は言いたくないんですけど、今回の宇多田ヒカルの新曲を語る時には、そこに触れざるを得ない。きっと宇多田ヒカル自身から、それを語ることはないでしょう。アーティストはよく「言いたいことは全部作品に入っている」と言いますが、新曲はまさにそれを体現しています。

宇多田ヒカルというアーティストは、ボツ曲が一曲もないとても珍しいアーティストなんです。自分の曲のストックの中から、ドラマの主題歌だったらこれかなと選ぶとか、そういうやり方ではなくて、常にこれしか作れないというものに魂を込め、ギュッと搾(しぼ)った雫(しずく)を我々に届けているんです。彼女には、本当に作りたいものだけ作り続けていて欲しいですね。

●宇野維正(うの・これまさ)1970年、東京都生まれ。映画・音楽ジャーナリスト。『ロッキング・オン・ジャパン』『CUT』『MUSICA』等の編集部を経て、現在は「リアルサウンド映画部」で主筆を務める。編著に『ap bank fes official document』『First Love 15th Anniversary Edition』など

●『1998年の宇多田ヒカル』新潮新書/定価740円+税

(取材・文・撮影/中込勇気)