
川喜田 研
かわきた・けん
川喜田 研の記事一覧
ジャーナリスト/ライター。1965年生まれ、神奈川県横浜市出身。自動車レース専門誌の編集者を経て、モータースポーツ・ジャーナリストとして活動の後、2012年からフリーの雑誌記者に転身。雑誌『週刊プレイボーイ』などを中心に国際政治、社会、経済、サイエンスから医療まで、幅広いテーマで取材・執筆活動を続け、新書の企画・構成なども手掛ける。著書に『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』(2009年、集英社)がある。
エビデンス至上主義の危うさについて話す著者の杉谷和哉氏
政策決定や会社経営、個人の業績評価など、さまざまな場面で根拠となる数値やデータといった「エビデンス」を求められることが増えてきた。
一方で、「エビデンス至上主義」とも言えるこうした風潮に反発を強め、データや数値には表れない個人の経験や悩み、価値観などを重視する人たちも増えている。
エビデンスを絶対視する人たちと、それに反発して「物語」(ナラティブ)を重視する人たちの間で分断が進み、ビッグデータやAIの影響力も拡大し続ける今、私たちはエビデンスとどのように向き合うべきなのか?
この問いにEBPM(エビデンスに基づく政策形成)の研究者である杉谷和哉氏が向き合ったのが本書だ。
* * *
――最近、「それってエビデンスがあるんですか?」といった物言いを目にする機会が増えたような気がします。このような根拠となる数字やデータを重視する傾向はいつ頃から?
杉谷 政治の世界だと、おそらく2000年代に入ってからですね。特に旧民主党政権が「事業仕分け」を行なったり、選挙の際に政策評価マニフェストで数値目標を掲げたりしたあたりから、具体的なエビデンスを大事にする動きが出始めたように思います。ただし、旧民主党政権の失敗と同時に、数値目標を掲げて政策をアピールするといった文化も衰退しました。
一方、社会においては生産性の重視や成果主義などの考えが広がり、数値やデータに基づく業績管理が民間企業や行政の中でも着実に広がっていきました。
そうした中、24年の東京都知事選において石丸伸二さんや蓮舫さんらが、かつてのマニフェスト的な手法を再び活用して人気を集めるなど、エビデンスは政治の世界でも改めて存在感を増しています。
――コロナ禍では、「科学的なエビデンス」を根拠として厳しい感染症対策やワクチン接種の必要性を訴える専門家たちと、こうした動きに反発する人々による社会の分断がありました。
杉谷 そうですね。当時、私たちは感染者数などの数字におびえながら暮らし、それらのデータが示す意味や対策の是非を巡って深刻な対立が起こりました。
思っていた以上に社会の復元力が高く、今では何事もなかったかのようになっていますが、2年前に本書を書いていれば間違いなくコロナ禍について触れていたでしょう。コロナ禍の後遺症というか、あのとき生じた社会の傷のようなものが、今なお漂い続けているのは間違いないと思いますね。
――タイトルの『エビデンスの罠』というのは、数字やデータを絶対視する姿勢が必ずしも物事の実態を示すことにつながるわけではないという意味でした。ただ逆に、数字やデータを軽んじて物語に突き動かされてしまう「ナラティブの罠」もまた危険だというのが、杉谷さんの主張のユニークな点です。
杉谷 確かに、数値化を通じた分析やそれに基づく競争の中で、見落とされてしまう社会の実相や、ないがしろにされる個人の経験や悩みがあるというのは事実です。
それに具体的な根拠があるように見えても、データの選び方やその解釈の過程でなんらかのバイアスが介入して、現実がゆがめられてしまうケースも多い。それは時に、「エビデンスに基づくポピュリズム」という形で表れます。
村上靖彦氏の『客観性の落とし穴』(筑摩書房)という本はこうした「アンチ・エビデンス議論」の典型ですが、私自身も興味深く拝読しましたし、一定の説得力があると思います。
また、週プレで私が愛読している猿渡哲也先生の漫画『TOUGH』シリーズの主人公・宮沢熹一の父で、灘神影流の14代目当主でもある宮沢静虎のセリフに、「どの世界にも通じることやが...中身のないヤツが数を誇る!」というのがあります。
これはエビデンス至上主義に対するものすごく正確な反論で、YouTubeの動画再生回数とか、本の販売部数だとか、そういう数字だけに振り回され、そこにしか価値を見いだせないような風潮の問題を静虎は鋭く突いています。
一方で、そうした数字やデータが見落としているモノの中から、どのような物語を重視すべきかと考えると、実はそこにも「恣意性」の問題が潜んでいるんです。例えば村上氏が主張するように個人的な物語を重視するとしても、結局は彼が無数の物語の中から何を選び取るかによって、社会で優先すべき価値を決めてしまうことになりかねない。
私は公共政策を研究している人間なので、「数字やデータばかりを優先してはダメだ」と言う人に、「では新しい基準はなんですか」と聞いて、「それは私です」と返ってきては困る。誰かの物語に乗って政策を組み立てるというのは、あくまで客観的なエビデンスに従うより危険なんじゃないかと思うわけです。
――数値やデータを過信するエビデンス至上主義にも問題があるし、逆にデータやファクトを無視して漠然とした物語に依拠するというのも危険......。
杉谷 では、そのどちらにも陥らずに、数字やデータなどのエビデンスを正しく活用しながら、より良い政策判断を行なうためには何が必要なのか?
この非常に難しい問いに対して私が本書で指摘したのが、「賢慮」という考え方。その原型は、ギリシャの哲学者・アリストテレスが提唱した「状況に応じて何が善であるかを判断する能力」のことです。
人は誰しも党派性からは逃れられませんし、エビデンスにもナラティブにもそれぞれの「罠」が潜んでいる。そこで、自分にとって都合の良い情報をかたくなに投げ合うのではなく、それぞれがもっと謙虚に柔軟に、他者と向き合いながら賢慮を働かせる必要がある。
以前、私の師匠でもある社会思想家の佐伯啓思先生に「公共政策とは、つまるところ他人への配慮だ」と言われたことがありました。
つまり、状況に応じて筋の通った考え方をした上で、相手のことを考えるのが大事なのです。相手を自分に従わせようという欲望でエビデンスを使うのではなく、何が本当に社会にとって必要なのか、優先すべき課題なのかという、根源的な「価値」の問いに謙虚に向き合う必要がある。そうした姿勢こそが、今必要な賢慮だと考えています。
■杉谷和哉(すぎたに・かずや)
1990年生まれ、大阪府出身。京都府立大学公共政策学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。京都文教大学非常勤講師などを経て、現在、岩手県立大学総合政策学部准教授。専門は公共政策学で、EBPM(エビデンスに基づく政策形成)を研究対象としている。著書に『政策にエビデンスは必要なのか』(ミネルヴァ書房)、『日本の政策はなぜ機能しないのか?』(光文社新書)
■『エビデンスの罠 数字と物語に囚われない思考法』
近頃、あらゆる領域で「根拠となるエビデンスがあるのか」ということが重要視されるようになってきた。公共政策学が専門の著者はエビデンスの重要性を強調しつつも、実は扱いが難しく、ともすれば本来の目的を見失う理由にもなる「目に見える根拠」の危うさを指摘する。ただその一方で、それと対置される個人の物語(ナラティブ)も万能ではないと強調して、どちらにも極端に寄らない中庸のあり方を探った一冊
『エビデンスの罠 数字と物語に囚われない思考法』PHP新書 1210円(税込)
