
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
* * *
渡米の日程も決まり、寺地永が国内で調整している最中、日本中を震撼(しんかん)させる出来事が起きた。
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分――。阪神・淡路大震災である。
突然の揺れに、自宅の2階寝室で妻と寝ていた永は飛び起きた。
最も激しく揺れたのは、神戸市や西宮市などの阪神地域と淡路島北部で、最大震度7を記録した。永が暮らす京都府内でも、京都市で震度5を観測している。
永は揺れが収まるのを少し待ってから、隣の子供部屋へと急いだ。
ドアを開けた。長男は何が起きたのか理解できない様子で、天井を見上げていた。長男と布団を並べていたのは、2歳年下、3歳になったばかりの拳四朗。拳四朗は、何事もなかったような顔で熟睡していた。
永は、無事が確認できた安堵(あんど)と同時に、我が子ながらその腹のすわりように驚いた。もちろん当時は、将来自分と同じプロボクサーになり、そして世界チャンピオンになるとは夢にも思わなかった。ただ、あの日に見た拳四朗の寝顔は、いまも永の胸の内に深く刻まれていた。
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アメリカ・ロサンゼルス――。
「渡米前に想像していた場所とは、まったく違いました。空港から車に乗せられてフリーウェイを走っていると、大都会の高層ビル群が見えてきたんです。そのときは『ああ、俺はここで練習するんやな』と思って、ワクワクしました。でも、車は華やかな都会の高層ビル群からどんどん離れていく。『いったい、どこまで連れていかれるんやろ』と不安になってきて......。到着した先は、観光できるような場所もない田舎町でした」
ロサンゼルス国際空港から、車で南東へおよそ1時間。永が1か月間、合宿するウェストミンスター・ボクシングクラブ(以下/ウェストミンスタージム)はオレンジ郡北西部、その名の通りウェストミンスターという街にあった。宿泊先は、ジムからほど近いアパート。永はそこで、すでにアメリカを主戦場に試合を重ねていた西島洋介山と一緒に、共同生活を送ることになった。

ウェストミンスタージムに関する情報が掲載された地元紙「Los Angeles Times」の古い記事を調べてみた。
ジムは1974年、のちにWBC世界ウェルター級王者となるカルロス・パロミノ(メキシコ)らによって設立された。当初は市内のゴールデンウェスト・ストリート付近にある倉庫を借りて活動し、その後、ローカスト・アベニューの建物へと移転。かつてそこは縫製工場として使われていたが、工場の撤退後は10年以上も空き家になっていたそうだ。
非営利団体として支援を受けながら運営されており、低額な会費で地域の少年たちを受け入れていた。ボクシング指導だけでなく、子供たちを非行やギャングから遠ざける居場所としての役割も担っていた、と記述されていた。
永が訪れた1995年当時は、エアコンなど空調設備はなく、灰色の建物の室内には色あせたボクシングポスターやトロフィーケース、張り地の破れた椅子、アメリカ国旗が並んでいた。豪華な設備を備えた商業ジムとは違う、古い工場を再利用した地域密着型のジムだった。
「日本で有名やったマック(・クリハラ)さんがジムのトレーナーをしていたこともあって、多くの日本人ボクサーが、マックさんに指導してもらうために通って来ていました。ジムにはスーパーウェルター級の世界ランカーで、インターコンチネンタル王者の選手もいました。その選手とスパーリングをしたときに、『全然いけるやん』と思いました。ただ、僕はミドル級からライトヘビー級を目指していたので、体重は僕のほうがだいぶ上でしたけどね」
ウェストミンスタージムには、永が求めるようなライトヘビー級やヘビー級の世界上位ランカーはいなかった。ある程度の手応えは得たものの、スパーリング相手の選択肢はあまりに少なかった。 強者を求めて向かった先は、ダウンタウンにあるL.A.ジム。そこで初めて、重量級の世界基準を知った。
「アントワン・バード(アメリカ)という選手です。USBA(全米ボクシング協会)のスーパーミドル級王者になった経験があって、僕がスパーリングをした直後に、ロイ・ジョーンズ・ジュニア(アメリカ)に挑戦しました。サウスポーでしたけど、とにかくパンチが当たらなかったですね」

アントワン・バードは当時、永よりふたつ年上の32歳。身長185センチ、リーチ188センチのサウスポーで、1990年5月にUSBA全米スーパーミドル級王座を獲得していた。
話は少しそれるが、バード家は8人兄弟で、そのうち6人がボクサーになった。唯一の女性ボクサー、トレーシーは複数の女子世界王座を獲得し、女子国際ボクシング殿堂入りも果たしている。末っ子のクリスは、1992年バルセロナ五輪のミドル級で銀メダルを獲得。プロ転向後はヘビー級へ進み、2000年にWBO、2002年にIBFの世界王座を獲得した。さらに、いとこのラモン・ブリュースターも元WBO世界ヘビー級王者という、まさにボクシング一族だった。
永がスパーリングをしたアントワンも、世界王座を狙う実力者だった。1995年3月18日には、IBF世界スーパーミドル級王座を懸け、伝説のボクサー、ロイ・ジョーンズ・ジュニアに挑戦している。永が拳を交えた当時、アントワンはIBFとWBAで世界1位、WBCでも3位に位置していた。
L.A.ジムで永に指導してくれたのは、アントワン・バードの担当トレーナーでもあったダブ・ハントレーだった。ダブは元ミドル級のプロボクサーで、引退後、トレーナーに転身した。世界3階級制覇したアイラン・バークレー(アメリカ)、ジョニー・タピア(アメリカ)らの指導にもたずさわった名伯楽として知られている。
永は、自身の現役引退後にダブ・ハントレーと再会したときの、懐かしい思い出を話した。
「ロスで練習していた頃、ダブは結構古い車に乗ってたんですよ。それが、僕が現役を引退して、たまたまロスで会ったときには、乗ってる車がベンツに変わってましてね。『映画のモデルになって、お金が入ったんかな』と思いました」
永が話したように、ダブにはこんな一面もあった。クリント・イーストウッドが監督・主演を務めてアカデミー賞で作品賞を含む4部門を受賞した映画『ミリオンダラー・ベイビー』。この作品と深い関わりを持っていた。原作は、F・X・トゥールの筆名で、作家のジェリー・ボイドが発表した短編集『Rope Burns: Stories from the Corner』(邦題『テン・カウント』早川書房、2004年)に収録された「Million Dollar Baby」。ボイドはダブからボクシングを学び、のちにカットマンとしてもリングサイドに立った。作品には、ダブとの交流やボクシング人生から得た経験が色濃く反映されている。

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初めてのロス長期合宿を終えて帰国した永は1995年5月26日、ノンタイトル戦でシャーマン・ブラウン(アメリカ)に4回TKO勝利。およそ3か月後の9月7日にもやはりノンタイトル戦で、タイロン・ジャクソン(アメリカ)を判定で退けた。
永は毎回、試合前は必ず長期合宿を組み、篠原とともにロスへと渡った。スパーリング相手もより世界の頂点に近いボクサーたちへと変わり、自身の拳に磨きをかけ続けた。
「印象に残っているのは、のちにメキシコ人として初めてWBO世界ライトヘビー級王者になる、フリオ・セサール・ゴンザレスです。1997年か98年頃やったと思います。普通のジョギングシューズをはいて練習していたので、最初は『まだ初心者なんかな』と思ったんです。でも実際に拳を交えてみたら、独特の間合いから次々にパンチをもらいました。
いや、『かなりもらいました』という表現では足りませんね。実際には、タコ殴りにされました。一発一発が強烈というわけではないんですけど、とにかく連打が止まらない。次から次へとパンチが飛んでくるので、避けきれませんでした」
他にも数多くの世界クラスの重量級ボクサーと拳を交えた。その中には、日本のファンにもなじみ深いボクサーもいた。"The White Buffalo(ザ・ホワイト・バッファロー)"ことフランソワ・ボタもそのひとり。後年、日本のK-1のリングにも上がった、南アフリカ出身のヘビー級ボクサーだ。
「ボタとは2度、スパーリングをしました。マイク・タイソン(アメリカ)と試合をした前後やったと記憶しています。世界ヘビー級のトップクラスの選手ですから、ライトヘビー級の僕のパンチが当たっても、ほとんど効いていなかったんやと思います。良いタイミングでパンチが入るたびに、興奮したように大声を上げて、すぐ反撃してくるんです。あれは、ほんまに怖かったですね」
ボタは1995年12月、アクセル・シュルツ(ドイツ)とのIBF世界ヘビー級王座決定戦に勝利し、世界王者となった。その後、禁止薬物の使用が判明したため王座を剥奪され、試合結果もノーコンテストに変更されたが、以降もマイク・タイソンをはじめ、マイケル・モーラー、レノックス・ルイス(イギリス)、ウラジミール・クリチコ(ウクライナ)など、歴代の世界ヘビー級王者と対戦している。

永は、ボタとのスパーリングについて「ほんとに怖かった」と振り返った。ただ当時、それを間近で見ていた西島は、自身のブログで、
「寺地会長とボタのスパーリングは凄(すご)かったなΣ(゚Д゚)」
と記していた。
1996年4月27日――。
永は、OPBF東洋太平洋ライトヘビー級王座決定戦で、ガース・カッション(オーストラリア)に判定勝利し、王座獲得に成功した。日本ミドル級王座を返上して以来、約1年ぶりに手にするタイトル。前年12月19日、日本ミドル級王座を争った竹原が、日本人初の世界ミドル級王者になる快挙を達成したことも、永の心を奮い立たせた。
以降も順調に防衛を重ねた永は、世界ランキングもWBCで最高4位まで上昇するなど、東洋太平洋のタイトルを防衛することで、一桁台を維持し続けた。ロス合宿でも回を重ねるごとに、重量級の世界クラスのボクサーとも互角に渡り合えるようになり、確かな手応えを得た。
インターネットがまだ広く普及していなかった1990年代――。
渡米前の永にとって、「世界ライトヘビー級王座獲得」は、専門誌の記事や限られた映像を通して思い描くだけの夢だった。渡米を重ね、世界上位のボクサーたちと拳を交えるうちに、いつしかその夢は、手が届くかもしれない目標へと変わった。
しかし――。