
2026年7月20日、東京・両国国技館――。
プロボクシングの元世界2階級王者・寺地拳四朗はこの日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、世界3階級制覇を達成した。まさかの王座陥落、サウジでの試合中止を経て、34歳でふたたびたどり着いた世界の頂点。
物語の背景には、かつて同じようにプロボクサーとして世界を目指した父親・寺地永(ひさし)の存在。その父親から授かった、ひとつの技術が関係していた。 リングに立つ息子を、少し離れた客席から見つめていた父親。彼の目には、何が映っていたのか。
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サラリーマン生活からは離れて、プロボクサー人生の第二章を歩み始めた永。時を同じくして、ある大きな出会いをした。
「寺地会長、はじめは寡黙だったですね。僕のこと、どんなやつかもわからへんもんね、はっきり言うて。竹原(慎二)さんとの試合については、寺地会長から後で聞いて知りました」
4度目の日本タイトル挑戦の少し前に知り合い、現役生活を最後までともに歩むことになる男。
いまは息子、拳四朗を支えるフィジカルトレーナー、篠原茂清(しげきよ)だった。
「陽光アダチジムのマネージャーさんから紹介してもろて、当時、僕が勤めていた病院に寺地会長が左肩のリハビリで来られたのが最初です。それがきっかけで、週に1回、寺地会長だけやなくて、アダチジムの選手の指導にも行くようになりました。実際は、ほとんど寺地会長の指導が中心でしたけど」
永と同様に身長は180cmを優に超え、胸板の分厚い見た目はリング上でもひときわ目立つ。篠原は、故障をしない身体づくりを基本に指導するフィジカルトレーニングの専門家で、ボクシング以外にも、野球やサッカーなど多くの競技に携わっている。

篠原は高校時代、キックボクシングやフルコンタクト空手で無謀な稽古を重ね、膝や肩、頸椎(けいつい)などを故障した。競技を続けられないほどの怪我をした経験から、「正しい方法で、壊れない身体をつくる」ことの重要性を痛感し、診療所勤務の傍らスポーツ医学を独学で学び、プロ野球選手のリハビリや栄養指導をするようになった。大阪厚生年金病院スポーツ医療センター(現・JCHOで大阪病院スポーツ整形センター)一般高齢者のリハビリ指導を経て2003年に独立し、現在はパーソナルジムで指導している。
永は篠原を「コーチ」や「トレーナー」ではなく、「先生」と呼んでいる。篠原が自分よりふたつ年上ということもあるが、それ以上に、人として尊敬する気持ちが大きいからだった。
「寺地会長の現役時代に一緒に過ごさせてもらった時間は、いまの仕事の原点になってます。精神的にも技術的にも、いろんな面で勉強させてもらいました。僕が指導する立場ではありましたけど、逆に僕のほうが指導してもらったような感じです。僕からしたら、寺地会長のほうが先生ですわ」
篠原は、永と知り合う前は、アスリートのリハビリに関わる仕事が多かった。自身も空手やキックボクシングをしていたこともあり、いずれはボクシングなど格闘技のジャンルで、パフォーマンス強化に携わる仕事がしたいと考えていた。そのタイミングで知り合ったのが永だった。いまでこそウェイトトレーニングはアスリートにとって常識だが、当時はひろく認知されていない時代だった。
永は篠原と出会った頃からウェイトトレーニングの重要性を理解していた。また、のちにミドル級から一気にふたつ上の階級、ライトヘビー級に転向したことも、よりその気持ちを強くした。試合のたびに苦しい減量に耐えなければならないボクサーとしては稀有(けう)な存在だったかもしれないが、そうした事情やタイミングも重なり、ふたりは距離を縮めた。
「トレーニングに対する向き合い方もそうですし、真面目で一生懸命な人でした。頭の良い選手でした。例えば10のことを説明したいときに、10すべてを説明せなあかん人と、ひとつ言えばわかる選手がいる。寺地会長は、後者でした。人が良すぎて、騙(だま)されることもあるかもしれません。でも寺地会長自身は、他人を裏切ったりはしない。悪口を言ったりもしない。そういう人やから、引退してからもこうして30年近くも付き合いが続いているんやと思います」

篠原は、指導する選手を必ず「さん」付けで呼ぶ。たとえ相手が孫ほど年の離れた若者であっても変わらない。
永との時間で育まれたそんな思いが、いまも原点にあるからだ。だが篠原が唯一、「君」付けで呼ぶ選手がいる。拳四朗だった。篠原にとって拳四朗は、指導する選手である前に、赤ん坊の頃から知る「寺地会長の息子さん」。家族に近い存在だった。
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1993年8月16日、29歳になった永は竹原戦以来、およそ1年半ぶりに東京・後楽園ホールのリングに立った。生涯3度目となる、日本ボクシングの聖地だった。
日本ミドル級王座獲得を懸けた4度目の挑戦――。
相手は豊富なスタミナと長いリーチが特徴の、ビニー・マーチン(角海老宝石)。ガーナ共和国出身で、のちにスーパーウェルター級でも日本王者になるなどして長く活躍した。竹原慎二とも2度対戦し、負けはしたものの、勝負はいずれも判定まで持ち込む粘り強さが特徴だった。
永の陣営には、この日のためにセコンドライセンスを取得した篠原もいた。
「当時はまだボクシングの知識も乏しかったんですけど、正直、『負けたかもしれんな』と思ったんです。内容自体はどちらに転んでもおかしくない展開でしたけど敵地やしね。『もしかしたらあかんかな』と思いながら結果を待ちました。そしたら『勝者、青コーナー』って言われたんです。それ聞いたとき、最初は勘違いして『負けたやん』と思いました。でもすぐに『あれ、うちら青コーナーやったわ』って気付いて。いまでもよう覚えてますわ」
篠原の見立て通り、採点は2対1(97-99、97-95、98-97)という僅差での勝利だった。
「日本タイトルなんて、簡単に取れるんちゃうんか」
そんなふうに思っていた初挑戦からは3年3か月。当初の予定より多少、時間はかかってしまったものの、永は29歳で、プロボクサーとしてひとつ、大きな目標を達成した。
「僕ね、寺地会長と出会うまでは、誰かのために涙を流したことはなかったんです。でも初めて、他人のことで泣きました。あきらめずに一生懸命、黙々と努力し続けて、日本チャンピオンになれた。そんな選手に対して、ほんの少しかもしれんけど役に立てた。それがものすごい嬉(うれ)しかったんです。60歳を過ぎたいまもこうしてトレーナーを続けている理由は間違いなく、寺地会長と過ごした時間があったからです」
城陽市の収入役だったボクシング部OBの先輩が設立してくれた後援会は引き続き、金銭面も含めた支援を約束してくれた。篠原が話したような、寡黙で他人の悪口を言わない性分、実直で縁を大切にする人柄のおかげだったのかもしれない。

長男は3歳。次男の拳四朗は1歳になっていた。
「拳四朗君と初めて会ったのは、まだ赤ちゃんのときですね。寺地会長と一緒に、誰かほかの選手の試合を見に行ったときでした。帰りの車の中で、初めて会った僕の膝の上で、拳四朗君、よう寝とったんです。いまでもよう覚えてますわ」
4度目の挑戦で日本ミドル級王座に就いた永は、3度の防衛に成功したのちベルトを返上した。篠原と取り組み続けたトレーニングの成果もあり、重量級離れしたスピードを維持したまま、さらなるパワーを手にしていた。一方、30歳となり、ミドル級で戦い続けるための体重管理、減量をみずからに課すことは、もはや限界だった。ただ当時、日本ボクシングコミッション(JBC)が認定する日本タイトルはミドル級まで。つまり、それより上の階級には、日本王座そのものが存在しなかった。
永は、階級を一気にふたつ上げたライトヘビー級で、日本を含むアジア・オセアニア地域を管轄する東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)の舞台に活路を求めた。
当初はひとつ上の「スーパーミドル級」と考えていた。だが当時、「世界を目指す日本人唯一のヘビー級ボクサー」として売り出し中だった西島洋介山(ようすけざん、本名・洋介)と同じ興行に出場することになった。西島は、テンガロンハットがトレードマークのオサムジム・渡辺治会長とのコンビで注目されて人気となり、ボクシングファンだけでなく世間に広く知られていた。世間一般の注目度ではすでに世界チャンピオンクラス、いやもしかしたら、それ以上だったかもしれない。
アダチジムとしても「どうせ体重を上げるなら"ヘビー"と名が付く階級のほうが興行的に盛り上がるのでは」となり、結果、永が考えていたスーパーミドル級ではなく、西島とは被(かぶ)らないライトヘビー級で「日本人初の重量級の世界チャンピオンを目指す」という路線になった。
「ただミドル級からライトヘビー級になると、7キロ近く重くなります。本当の意味でライトヘビー級の身体をつくるいうのは、なかなか大変でした。『まあ無理に減量するよりは、体にはええのかな』とも思いましたけどね。バケツみたいなサイズのプロテインを買(こ)うて、食事の合間に流し込むように飲んでました。脂肪の多い食事や炭水化物は控えて、タンパク質をたくさん取らなあきませんでしたから、プロテインを飲むのが一番、効率的やったんです」
目指すは、まずはOPBF東洋太平洋ライトヘビー級王座――。

1994年12月24日、永はタイトル挑戦の前哨戦として契約体重で試合に挑み2回KO勝利を飾り、幸先の良いスタートを切った。
同時に課題も出てきた。国内では自分と同じ階級で同等に渡り合えるスパーリング相手はいない。そこで、西島とともに世界クラスの重量級ボクサーがひしめくアメリカ・ロサンゼルスへと渡り、長期合宿を計画した。
ミドル級から一気にふたつ上のライトヘビー級、およそ6.8kg増量しての挑戦は、減量とは違った意味での過酷さがあった。そこで篠原も同行し、筋力トレーニングのサポートをすることにした。篠原もウェイトトレーニングの本場で最先端の技術を吸収したいと考えての渡米だった。
渡米日程も決まり、国内で最終調整している最中、日本中を震撼(しんかん)させる出来事が起きた。
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分――。
阪神・淡路大震災、である。