オールドダッカの南を流れるブリゴンガ川の船着場。「世界一汚い川」の呼び声の通り、ゴミと水草と悪臭のカオス。船で対岸に渡ることができる。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第186話
東南アジアとも中東とも異なる独特の空気をまとうダッカ。研究者たちとの出会い、街の混沌、そしてデモの熱気のなかで、南アジアの現実に触れていく。
* * *
【イスラム圏とトヨタ車】
ダッカに着いた翌朝。ジアとエナイエットが、わざわざホテルまで迎えに来てくれた。Zoomで一度話したことはあるが、これが初対面。ジアの車で彼らの研究所に向かった。
地図だけを見ると、バングラデシュは、タイからミャンマーを経て、東南アジアの一部のように見えなくもない。しかし地政学的に、ミャンマーまでは「東南アジア」、バングラデシュは「南アジア」に分類される。
実際に足を踏み入れてみなければわからないもので、ダッカには、東南アジアの延長線上の文化の匂いはほとんど感じなかった。しかし一方で、初めて訪れたはずのその街の雰囲気や空気や匂いは、私の記憶の中のどこかの街に似ていた。
それを探ってみると、やはり。似た記憶の断片は、サウジアラビア(71話)やアラブ首長国連邦(UAE、102話)、さらにあるいはエチオピア(115話)やアルジェリア(140話)にあった。つまり、イスラム圏の国々である。
地理的には東南アジアに近くても、宗教的なつながりからであろう、南アジアのバングラデシュは、文化的には西アジア(=中東)や東アフリカに近いものを持っているようだった。
車内ではジアと雑談。彼の車はトヨタ。
これまでの経験的に、イスラム圏の国々では、トヨタ車の割合がなぜかものすごく高い。そして私が日本人だとわかると、異口同音にトヨタ車の素晴らしさを絶賛する。サウジアラビアのリヤド(71話)とUAEのアブダビ(102話)ではタクシードライバーが、エチオピアのアディスアベバ(115話)ではラゴスが、アルジェリアのアルジェ(140話)では専属ドライバーのラフィクが、そしてここバングラデシュではジアが、それぞれ同じことを口にした。
【「icddr,b」】
ジアとエナイエットが所属する研究所は、「icddr,b」という研究所。ネットで調べてみると、日本語訳は「国際下痢性疾患研究センター」と出てくるが、下痢症にかぎらず、バングラデシュを代表する公衆衛生の研究機関であるという。
icddr,b。元々は「International Centre for Diarrheal Disease Research, Bangladesh」の略だったが、今では「icddr,b」が正式名称になっているという。
研究所では、彼らの研究チームのメンバーと、サンプリングや解析の方法について、かなり細かいところまで打ち合わせた。面白いのは、細い糸をたどってようやくたどり着いたと思っていても、結局いろいろつながっている、ということだ。
この研究チームの長をつとめるジアは、タイのスパポーン(175話)やシンガポールのリンファ(157話)の知人だった。自称だがジアは、「バングラデシュのスパポーン」の異名を持つという。
【オールドダッカへ】
打ち合わせを終えて、みんなでランチをとる。それからエナイエットと、彼らの研究チームの若手メンバーであるマムンに、オールドダッカの散策に付き合ってもらうことになった。ちなみにマムンは、熊本大学で博士号を取得したという。それを知るだけでなぜか親近感が湧く不思議である。
「icddr,b」の公用車で、ドライバーが私たちをオールドダッカまで運んでくれた。いつもならひとりで目的なく歩き回るのが好きなのだが、このときばかりは同行してもらって正解だった。やはりカオスの程度が常軌を逸している。そして公用車は、道なき道を割り込んで進んでいく。車線などはなく、対向車、リキシャ、歩行者、おかまいなしである。
途中で気づいて注視していたのだが、ダッカではついに信号をひとつも見かけなかった。大きな交差点には、交通案内人みたいな人が立っていて、手信号で交通整理をしている。小さな路地の交差点で車が詰まると(100%詰まる)、やはりどこからか案内役が湧いてきて、やれ下がれ、やれ左に寄れ、と身振り手振りで指示を始めるのである。
ちなみに道中、ダッカでのコロナ禍の状況を訊いてみた。このカオスに満ちた街である。さぞかし大変だったのだろう、ということを想像して訊いてみたのだが、返ってきたのは驚きの回答だった。
2020年、ダッカはかなり早い時期にロックダウンされ、そのときには街中から人が消えたという。その後も人々は律儀にマスクを着け続け、感染対策をしながら過ごしていたらしい。
目の前に広がる光景からはにわかには信じがたい話ではあったが、それがちゃんとできるのであれば、このカオスな交通事情ももうちょっとなんとかできるんじゃないのか、と思わずにはいられなかった。
【ブリゴンガ川下り】
晴れていても白く霞んだ空。おそらく大気汚染のせいなのだろう、青空は見えない。
「熱波」が押し寄せているというダッカの気温は38度。オールドダッカを散策して疲れた私に気を遣ってくれたのかわからないが、「船に乗ろう」という話になった。
オールドダッカの南端を東西に流れるブリゴンガ川は、「世界一汚い川」とも言われている。
ダッカはやはり川もカオスで、船着場には人があふれ、水草の無数の切れ端が浮かんでいた。そして川辺には大量のゴミ。川には生活用水が垂れ流しらしく、すさまじい悪臭も漂っていた。
そんな川を「川下り」。イギリス・ケンブリッジのケム川(144話)、フランス・パリのセーヌ川(153話)に続いての川下りである。小さなボートに乗って川の上にいると、風もあるせいか、不思議とにおいはほとんど感じなかった。そしてある時刻になると、川の両岸に立ち並ぶいくつかのモスクから、一斉にアザーン(イスラム教の礼拝の時間を告げる呪文のような音楽)が鳴り響いた。
(左)川辺に山積する大量のゴミ。(右)ブリゴンガ川の夕べ。大気汚染で霞んだ空がフィルターになるのか、夕陽がくっきり見えた。
【チキンビリヤニとレモンジュース、そしてデモ】
夜にはジアも合流して、みんなでとあるレストランに出かけた。偶然にもそこは、到着初夜(184話)に私が訪れてみたかったレストランだった。私はそこでチキンビリヤニを食べ、レモンジュースを飲んだ。ベンガル料理はおいしいのだが、ほとんどの料理にスパイスが効いていてなかなか辛く、またしょっぱい。
チキンビリヤニ(左)と、マムンが勧めてくれたレモンジュース(右)。マムン曰く、「バングラデシュのレモンはおいしい」という。そのジュースは、レモンを絞ってガムシロップをすこし加えただけのものだというが、たしかにおいしかった。かぼすとグレープフルーツとレモンを混ぜたような独特の風味。
「ついでにちょっと」と足を伸ばしてみたダッカ。そこでのカルチャーショックは、私がこれまでに訪れた街の中でも頭抜けていたと言っても過言ではない。
そして、食事を終えて店を出ると、すごい怒号と人の群れがあった。
この前年(2024年)の夏、ダッカでは大規模な学生デモが起こり、それが反政府運動に発展。インターネットは遮断され、1000人以上の死者を出した。
レストランの前で展開されていたのは、そのときの大規模デモの延長線上にあるものだという。やはりダッカには、さまざまな混沌が渦巻いている。
レストランの外に出ると、デモ隊の抗議の怒号が響いていた。
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