グラビアライター・とり
グラビアライター・とりの記事一覧
1997年生まれ、兵庫県出身。 妄想を得意とするグラビアライター。 趣味/散歩、レコード収集。
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あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していくインタビュー連載が、週プレ創刊60周年を記念して復活。第三弾となる今回は、SNS総フォロワー数18万人の酒井貴弘氏が登場! 週プレでは『俺達のあざす。』の伊藤優衣&水原ゆきをはじめ、声優やインフルエンサーの撮影を多く担当されています。
前編では、ヤンチャな幼少期からカメラマンになるまでの紆余曲折、意外な職歴について語ってもらった。
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――この連載では色んなカメラマンさんにお話を伺っていますが、中でも酒井さんはインフルエンサー的な側面が強いというか。話題の展覧会シリーズ「私が撮りたかった女優展」に参加されていたり、昨年は「東京路地裏散歩 meets seju」として芸能事務所・sejuのモデルを被写体に写真展を開催したり。10代~20代の若い写真好きからも支持が高い印象です。
酒井 アイドルやインフルエンサーの方の写真集で、いわゆるグラビア的な水着撮影は何度もやっていますが、実は職業=グラビアアイドルの方の撮影はまだあまり多くないんですよね。でも、この連載はちょうどグラビアの撮影が増え始めた頃にいくつか読ませてもらっていたので、出させてもらえて光栄です。
――カメラマンになるまでのキャリアについては、これまでのインタビューで答えられてきたかと思いますが、意外と幼少期の話には触れられていない気がして。今回は、子供の頃のエピソードから聞かせてもらえたらと思います。地元は長野県の松本市ですよね。
酒井 そうです。東京に比べたら田舎ですけど、言っても都心部なので、特に不便はなかったですね。一応、3人兄弟の長男で、2つ下に弟、8つ下に妹がいました。全然、お兄ちゃんらしいことはしてこなかったですけど(笑)。
――子供の頃はどんな性格だったんですか?
酒井 ヤンチャでしたね。とにかく多動で、じっと椅子に座っていられない子供でした。小学校高学年頃には、先生に反抗することも。クラス全員で職員室まで謝りに行かされたことがあったのですが、僕だけ一人教室に残って、「謝りに来ないなら家に帰れ」と言われて本当に帰ったこともありましたね。ヤンキーってほどではなかったけど、先生を困らせる生徒でした。今思うと、本当に申し訳ないんですけど......。
――今の酒井さんからは想像できないです。
酒井 正当化するわけではないですが、子供ながら、社会の歯車になることに強い抵抗があったんです。中学に上がってからも、基本的にそのマインドは変わらず。そもそも大学に行くことに意味があると思えなかったんです。いい会社に就職しやすくなるかもしれないけど、結局、社会の歯車になることに変わりはない。だったら塾に行って勉強するより、今を楽しむことにお金と時間を使いたいと、本気で思っていました。なんて偉そうですが、やることといえば「ウイイレ(ウイニングイレブン)」ばかりでしたね(笑)。
――ただ遊びたかっただけという(笑)。まぁ10代ですし、納得いかないことに素直に取り組めるほど大人じゃないですよね。
酒井 今、子供が3人いるのですが、一番上の子は塾に通わせていますし、「ちゃんと勉強しなよ」と伝えています。誰が言ってんだって話ですけど、大人になって勉強しておけば良かったと思うことが多いので......。
――ちなみに子供の頃は何がお好きだったんですか?
酒井 小学4年生から高校卒業まで、ずっとサッカーをやっていました。あと、人並みにゲームも好きでした。特に大好きだったのは鳥山明先生がイラストレーターとして参加していたRPG「クロノ・トリガー」。色んな時代を冒険しながら、世界が滅ばないよう未来を救う物語なんですけど、星(惑星)自体が意思を持っているんですよね。今思うと、この世界観には強く影響を受けている気がします。昨年、中国の重慶で撮った写真をもとに「Reminiscence of the Planet(惑星の追憶)」というテーマで個展を開催したのですが、まさに惑星自身の記憶として風景を見るという試みだったんですよ。完全に「クロノ・トリガー」の影響から来た発想だと思います。
酒井貴弘個展「Reminiscence of the Planet -China-」より。他の国でも同様のテーマで撮影していて、ゆくゆくは一冊の写真集にしたいとのこと
――当時から写真に興味はあったんでしょうか?
酒井 全くです。アートの"あ"の字も知らないくらい、写真とは無縁の生活でした。意外に思われるかもしれませんが、当時はゲームクリエイターに憧れていました。小学校の卒業文集にも書いた気がします。ただ、ゲームクリエイターの専門学校に体験入学したときに、想像以上に細かい作業が多く、早々に無理だと諦めちゃったんですよね。高校卒業後は、次に興味を持ったグラフィックデザインの専門学校に進学したものの、やればやるほどデザイナーも向いていない気がして。専門を出たあとは、1年ほどIT系の会社で派遣として働きました。いきなり転々としていますが、何者かになりたいのに、自分に向いていること、本当にやりたいことが分からず、とにかく必死だったんですよね。
――その後は?
酒井 派遣で稼いだお金をもとに1年ほど韓国で暮らしました。若いうちに海外に生活してみたかったんです。本当はニューヨークにでも行けたら良かったのですが、金銭的に難しく。韓国は留学している友達もいたし、語学院スタッフのインターンがあったので、当時の少ない貯金で何とかなりそうだったんですよね。だから実は、日常会話程度であれば普通に韓国語を話せるんですよ。
――お話だけ聞くと充実しているようにも見えますが、当時はどんな心境だったんでしょう? 将来への不安があったのか、ゆっくり考えればいいと楽観的に構えていらしたのか。
酒井 韓国での生活は楽しかったけど、常に将来への不安、焦りがありましたね。次に考えたのは、途上国で社会貢献事業を行う会社の立ち上げ。バングラデシュにアパレル企業・マザーハウスを立ち上げた山口絵理子さんの『情熱大陸』を見て、そのまま影響を受けたんです。韓国以外の海外生活を経験してみたかったこともあり「これしかない!」と思いました。そんな矢先、韓国で知り合った方の紹介で、今度はフィリピンにある英語学校で働かせてもらえることになったんです。ややこしいのですが、僕がいた英語学校は韓国人の方が経営されていて、生徒のほとんどが韓国人。その中にいた何人かの日本人のために生活のサポートをしたり、韓国語で書かれた掲示板の通訳をしたりするのが、僕の主な仕事でした。フィリピンの英語学校にいるというのに、さらに韓国語が上達しましたね(笑)。ただ、韓国もフィリピンも、インターン生として派遣されていたので給料が出なくて。現地でバイトするわけにも行かず、お金がなくなったら一時帰国して、日雇い労働で滞在資金を稼ぎました。われながら、なかなか無茶な生活を送っていましたね。

――確かに、若いうちしかできない生活かも......。目標の社会貢献事業はどうなったんでしょう?
酒井 実現しませんでした。"社会貢献"と言いながら、動機は「何者かになりたい」という自己顕示欲。まぁ、うまくはいかないですよね。フィリピンから帰国したあとは、知り合いの社長に「暇なら手伝ってよ」と声を掛けられるがまま、映像制作会社の立ち上げに関わりました。
――知り合いの社長、というのは?
酒井 フィリピンに行く前、僕と同じように社会貢献事業に興味のある方を人づてに紹介してもらう機会が多々あって。そこで、賞を獲るくらい有名なCMの映像監督の方に出会ったんです。ただ、僕がフィリピンに滞在している間に紆余曲折あったみたいで、帰国したときには「映像制作会社を一から立ち上げる」と新たな夢に向かって奮起されていました。話を聞くと色々大変そうだったので、これもご縁かなと、僕も立ち上げを手伝わせていただくことになったんです。と言っても、社員は僕と社長の二人だけ。僕はオフィスの掃除係でした。......が、いつの間にか徐々に僕も現場に駆り出されるように。右も左も分からないまま、25歳でいきなりCM業界に飛び込むことになったんです。
――CM業界というと超多忙なイメージです。しかも実績のある社長と二人きり。プレッシャーが半端なさそうです。
酒井 まさに、ちゃんとキャリアも実績もある社長だったので、取ってくる案件の規模がどれも大きいんですよ。クライアントも大手だし、現場は常に緊張感があって。ただでさえ慣れない業務にてんやわんやしていたのに、2~3日の徹夜は当たり前なくらい多忙でした。その分、ちゃんと結果が出て会社はどんどん大きくなりましたね。気付けば社員も増え、オフィスも広くなって。今も続けていれば、役員としてそれなりに裕福な未来が待っていたかもしれません(笑)。
――辞められたのは、忙しさに付いていけなくなったからですか?
酒井 それもありますが、猛スピードで成長する会社に対して、僕自身のモチベーションが上がらなかったことが大きいです。会社にとってもお荷物だと思いました。社長は止めてくれましたが、結局1年半で辞めましたね。その後も知り合いのイベント制作会社や、就活して入社したグラフィックデザイン会社など、職を転々としました。そんな中、友人の紹介で写真館に入社したんです。既に30歳でしたが、そこが僕にとって大きなターニングポイントになったんですよね。
ここからどうカメラマンのキャリアに繋がるのか? 続きは7月26日公開の後編で!

●酒井貴弘(さかい・たかひろ)
1986年生まれ、長野県出身。
趣味=チャイ作り
グラフィックデザイン会社やCM制作会社での勤務を経て、写真館に入社。フォトグラファーとして独立するために、2年間、毎日欠かさずインスタグラムの更新を続けた結果、フォロワーが急増(現在は17.7万人)。2019年に独立後、「私が撮りたかった女優展vol.3」の参加(女優・山田杏奈を撮影)、本間日陽1st写真集『ずっと、会いたかった』(光文社)をきっかけに、活躍の幅を広げる。2024年4月よりCo Agencyに所属。人物写真を中心に撮影を手掛けるほか、東京・恵比寿のアートギャラリー「see you gallery」のディレクターを務めるなど、幅広く活動中




