前川仁之
まえかわ・さねゆき
前川仁之の記事一覧
1982年生まれ、埼玉県立浦和高校卒業、東京大学理科一類中退。人形劇団、施設警備などを経て、立教大学異文化コミュニケーション学部に入学。在学中の2009年、スペインに留学。翌年夏、スペイン横断自転車旅行。大学卒業後、福島県郡山市で働いていたときに書いた作品が第12回開高健ノンフィクション賞の最終候補に。近著は『人類1万年の歩みに学ぶ 平和道』(インターナショナル新書)
「本誌円盤見物団九州UFO銀座を大調査」(87年30号)
還暦を迎えた『週プレ』の歩みを、全3回でたどる大型企画もいよいよ最終回。ラストは、いつの時代も現場主義を貫く本誌記者の"奮闘"の歴史をご紹介。
創刊50周年記念特集も執筆した、博覧強記のノンフィクション作家・前川仁之氏が厳選する!
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初期の『プレイボーイ』は、「冒険旅行」など、読者にドライブコースやちょっとした非日常感を味わえそうな旅のプランを提供する小枠のコラムが充実していた。
それらの旅行コラムに加え、毎回異なる国々の女性事情を紹介するコラム『プレイボーイ天国』が若者たちを外へ、外へと駆り立てる。
単発の特集記事でも「特技で日本を脱出する方法」(67年1号)を皮切りに、「世界一周100ヵ国旅行を達成した岡野豊君」(67年6号)、「東南アジアプレイボーイ修行の菅野太郎君」(67年12号)、「フリーセックスの北欧娘を空手でなぎ倒した益田君」「ガールハントの天国・中南米で暴れまわった広石君」「東南アジアに女のチェーン・スポットをつくった九里君」(いずれも67年14号)などなど、外遊びの猛者が続々と登場してくるのだ(女性を空手でなぎ倒しちゃマズいだろ!)。
要するに何が言いたいのかというと、初期の『プレイボーイ』はマグマのような外向き志向をたぎらせ、読者の心にもそれを引火させようと張り切っていたのだ。
読者に外向き志向を点火するこのベクトルは、69年の春、「本誌スキャンブリット留学生、奮戦珍戦す」(69年14号)にて、「プレイボーイ使節団」読者90人の英国派遣へと結実する。
そして70年代までには、記者が体当たりで取材する体験型ルポ、UFOを探したり、伝説の舞台を訪ねたりするアドベンチャー系ルポ、時事問題の現場へ赴く社会派ルポの3本柱が出そろうのである。
本稿では、3本柱それぞれの見どころを案内していくが、その前に、80年代まで定期的に実施されていた「読者に特別な体験をさせる企画」も特別枠として紹介しておこう。
前述のように、『プレイボーイ』は創刊3年目にして、えりすぐりの読者90人を英国に送り込んだ。この愉快痛快な仕事については10年前の創刊50周年記念特集にやや詳しく書いたが、滞在先のボーンマス市長から〈こんなに多勢の日本青年諸君が、わがボーンマス市にやって来たのは、市始まって以来のことである。日英親善に大いに役立つだろう〉と歓迎の言葉で迎えられた。
70年代に入ってからも「本誌特別企画 アメリカ短期留学ツアー」(75年36号)と称し、スタッフ含めた38人をユタ州セントジョージに3週間派遣している。記事には「第7回」とあるので、けっこう頻繁にやっていたようだ。
この間、ニクソン・ショックを経て変動相場制(73年)になっている。そして78年には最初の円高のピークを迎え、高根の花だった海外旅行は個人でも計画しやすいものになっていった。逆に編集部がひと肌脱いで海外に読者を送る企画は下火になってゆく。
だが、若者に特別な体験を、という本誌編集部の親心(大きなお世話?)はくすぶり続ける。84年の正月には、「プレイボーイ使節団」の隔世遺伝のごとき豪華企画が誌面を飾った。「ボクたち童貞でいて本当によかった! 五月みどりの〈童貞混浴セミナー〉ライブ報告」(84年1号)だ。
「ボクたち童貞でいて本当によかった! 五月みどりの〈童貞混浴セミナー〉ライブ報告」(84年1号)
応募総数2548通の超狭き門を勝ち抜いた7人の読者代表童貞が静岡・熱海の温泉で熟年女優の五月みどりと"スキンシップ・トーク"を楽しめる企画。7人と中途半端なのは、もともと10人だったのに「PBに顔が載るのは恥ずかしい」「お母さんに叱られるのがコワい」と3人が辞退したから。7人は実名で参加している。「露天風呂セミナー」で混浴を楽しんだ後は「お座敷セミナー」。夜中1時過ぎまで盛り上がったそうな。
〈みどり あのね、童貞はきれいじゃないの。勘違いしちゃダメよ。名刀だって磨いておかないと錆(さ)びるでしょ。
童貞全員 ははっ。
みどり フッフフ、今晩、このセミナーのあとで、ひとりだけ奪ってあげようかな(笑)〉
では、3本柱を見ていこう。
「〔競輪学校〕に本誌記者が体当り48時間入学した!」(76年36号)は体験型ルポのはしりにして出色の記事だ。
競輪に人生をかけようと切磋琢磨(せっさたくま)する若者たちの青春に、文字どおり伴走する感動の5ページ。ちゃんと(?)寄宿生の間での「オナペットの順位」も記してあるのがさすが。ちなみに、①キャンディーズ、②岡田奈々、③桜田淳子だそうだ。
「〔競輪学校〕に本誌記者が体当り48時間入学した!」(76年36号)
この手の体験型ルポはその後も「本誌記者・トツゲキ玉砕役者体験記」「沖縄の水納島(みんなじま/人口13人)にシティ・ボーイが1週間住んでみた!」(共に77年31号)や「本誌記者実体験ルポ 中型2輪免許取得チャレンジ始末記」(78年13号)と散発的に続く。
遊び、暮らし、エッチ系の体験型ルポも含めると、さらに多彩。
そっちの系統は「ボクちゃんの初体験行進曲」(75年20号)や「不思議の国の昼サロ天国/大阪ホステスハント」(77年23号)、「ボクちゃんの〈自動車教習所〉がコワ~イ!教程日誌」(79年39号)など、新人記者を充(あ)てることが多かった。
ところで70年代には見出しでも本文でもやたらと「ボク」が増え、果ては新人記者を「ボクちゃん」呼ばわりするなど、かつての"プレイボーイ"路線は早くも捻転気味、なよっちくなっている。70年安保闘争の不発で学生ともども牙を抜かれたか。
80年代最初の年には、映画『バトルクリーク・ブロー』でハリウッド進出に失敗する頃のジャッキー・チェンが登場。腕に覚えのある記者が彼の武術の実力を試す「PB格闘技ゴーケツ者が、身を挺(てい)して盗んだ ジャッキー・チェンの"護身ケンカ術"8手指南」(80年35号)を掲載。ここに書かれていることが事実なら、ジャッキーの実力は相当なものだ。「事実なら」と持って回った言い方をしてしまうのには訳がある。
80年代前半から中頃にかけて、本誌特集記事の一部に、記者をキャラクター化し、地の文で必要以上にふざける傾向が生じるのだ。
「PB格闘技ゴーケツ者が、身を挺して盗んだ ジャッキー・チェンの護身ケンカ術8手指南」(80年35号)
「史上最強の軍人キャプテン・ツゲ氏&集英社の首位打者テキサスのトモジ 江藤慎一『野球学校』体験入学記」(85年25号)
「史上最強の軍人キャプテン・ツゲ氏&集英社の首位打者テキサスのトモジ 江藤慎一『野球学校』体験入学記」(85年25号)はその典型。タイトルからしても"内輪ノリ"臭が漏れてくる。
企画自体は、日本野球史上ただひとり(当時)、両リーグ首位打者を記録していた江藤慎一が学長を務める「日本野球体育学校」に、野球好きの記者が泊まり込みで特訓を受ける、という貴重な体験間違いなしのものなのだが、虚実が曖昧で、現代の視点からは瑕疵(かし)となっている。
しかし、この時代はそれがウケたのだろう。当時の本誌編集部の自己認識は「新人記者ポチの編輯(へんしゅう)後記」(84年40号)からもうかがえる。
〈配属が決まったとき、同期のサクラたちがうらやましがって、口々にこう言った。
「プレイボーイは楽でいいよな。自分のとこのトモジとかいう編集者がMR2を買ったというだけのことが、4ページの特集記事になっちゃうんだもんな」〉
"トモジ"とは後に本誌編集長となる田中知二氏のこと。お世話になりました!
続いての大黒柱は、不思議大好き、アドベンチャー系ルポ。
海底に眠る江戸幕府の軍艦・開陽丸が積んでいたとされる18万両もの金をダイバー歴十数年の記者が探す、「黄金伝説を求めて北海道江差の海に本誌記者が潜水探索!」(77年34号)では、3日間の旅で金塊の発見にこそ至らなかったものの、クルップ砲の砲身を目撃したり、真鍮(しんちゅう)の部品を回収したりと見せ場は十分。現地の人々との人情あふれる交流も楽しい。
「黄金伝説を求めて北海道江差の海に本誌記者が潜水探索!」(77年34号)
87年6月24日には、米国のケネス・アーノルドが空飛ぶ円盤を目撃してからちょうど40年目の国際UFO記念日ということで、目撃情報が多発していた福岡県山田町に前述のトモジら"日本風流UFO見物団"が訪れる記事「本誌円盤見物団九州UFO銀座を大調査」(87年30号)が掲載される。
滞在中はUFOを見られなかったが、写真を現像してみたら怪しい光が映っていた、というオチだ。
しかし、そんなことより、39年後の読者を何よりも驚かせるのは、参加者の中にプロレスファンなら誰もが知っているあのラジャ・ライオン(パキスタン出身、身長2m26㎝の自称空手家)がいること!
ラジャ・ライオンとの交流に、アジアへの興味を刺激されたのか、その3週間後に本誌は、インドネシアでツチノコそっくりの動物がつかまったとのスクープ(?)を報じた。すると大反響を呼び起こし、全国各地からツチノコの目撃談が引きも切らず。
「本誌特捜隊出動! ツチノコ大探検!!」(87年41号)
かくして、「10年の時を超え、ついに三重県に出現した幻の怪獣を追う 本誌特捜隊出動! ツチノコ大探検!!」(87年41号)では、〈こうなったら、本誌でツチノコを掴まえなきゃ、格好つかねえぞ〉と変な漢気(おとこぎ)を発揮し、記者1名、カメラマン1名からなる最初の"ツチノコ特捜隊"を三重県と和歌山県に派遣したのである。
『魏志倭人伝』の記述を基に、魏の国から邪馬台国に贈られた5匹の竜がツチノコの祖先らしい、という壮大な説を唱える三重県松阪市在住の堀江久数さんらの証言を聞いて歩き、〈貴重な目撃談を聞けたことはひとまず成功であったとみて評価しておく〉とまとめている。
本誌とツチノコ。"現場百遍"という言葉はこのためにあるのではないか、というくらいにしつこい関係の始まりである。
ところで、これは本連載第1回で触れておきたかったのだが、博物学者の荒俣宏先生を団長とする『日本妖怪巡礼団』の連載が88年27号から始まっている。このシリーズはその後もタイトルと趣向のマイナーチェンジを繰り返し、週プレが誇る怪奇・伝説・民俗・郷土史巡りの強力なサブエンジンとなる。
従って、その連載も含めるともっとずっと多くのロマンを追っているに違いないが、ここでは単発の企画に絞って、その後を見ておこう。
90年代は律義にツチノコ探しから始まった。「本誌記者、兵庫県美方町(みかたちょう)で2日2晩汗だらけ『ツチノコ発見っ!!』の旅」(90年36号)。もちろん「ツチノコ発見っ!!」していない。
「現地特別取材ミステリー・サークルの謎を追う」(91年32号)
そして、本誌が次に目を向けたのは、英国を騒がせていたミステリーサークル。
「現地特別取材 ミステリー・サークルの謎を追う!!」(91年32号)にて、調査チームの団長を務めたのは、後に『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)などで超常現象否定派の論客として茶の間を沸かせる早稲田大学の大槻義彦(おおつき・よしひこ)教授(現名誉教授)。彼のスタンスは、ミステリーサークルをインチキと否定せず、専門とするプラズマ理論で科学的に説明することだった。
本誌はその後も「WPB名物・動物探索ルポ ボクらカワウソ探検隊!」(92年50号)や「時価200兆円の埋蔵金がついに発掘最終段階か!? 徳川家康の財宝を赤城山に追え!!」(91年49号から95年1・2号まで計5回)、「中国の雪男『野人伝説』を追え!」(95年39号)など、ロマンを追いあさってゆく。
「中国の雪男『野人伝説』を追え!」(95年39号)
どの回も結局、お目当ての対象は見つからないのだが、その過程が楽しい。野人伝説のある中国・湖北省には、日中戦争真っただ中の42年に〈神農架に国軍兵士が集結。野人を発見し、射殺。皮を剥ぎ、シチューにして食す〉といった目撃証言があるなど、怖いはずの話なのに笑える。
そして、ノストラダムスが予言した99年を何事もなく乗り切った翌年、2000年から、せきを切ったようにツチノコブームを迎えるのであった。ただし、本誌だけ!
「岡山県吉井町で、ついに死体の確保に成功! 本誌特別捜索隊レポート"ツチノコ"、いるとしか言えない!」(00年28号)、「オリンピック中、岡山・ツチナロの里で繰り広げられた、もう一つの闘い 本誌暴走スクープ第3弾『私、見ました・ツチノコと猫のケンカを』」(00年43号)など、岡山県吉井町に的を絞り、もはや町起こしとしか言えない波状訪問を仕掛ける。
さらには20世紀末に罠(わな)を仕掛け、21世紀最初のツチノコ企画で開封する「暴走スクープ おまたせしました!『21世紀もツチノコは不滅です』 ついに罠を開封! 〈冬眠ツチノコ捕獲大作戦〉の結末は!?」(01年10号)と丁寧なコンボを放つ。ふたつの「珍獣ポケット」を開封したところ、モグラが1匹入っていただけ。それでも諦めず、ついには「週プレがやらなきゃ誰がやる 兵庫県美方町で遂に発見! 一見ヘビだがシッポはかなり怪しい ついに捕獲!? 現地緊急特派! 〈ほぼツチノコ〉の実像に迫る!」(01年27号)と実に正しく自己規定してツチノコを追い続けるのだった。
時は流れて2010年代。前述した荒俣先生の何度目かの『日本妖怪巡礼団』に"勘定奉行マツマル"として参加した松丸淳生氏が編集長となり、荒俣イズムが健康的に接ぎ木される。おかげでその後も探検家・髙橋大輔氏の『東京ミステリーツアー』(17年7号から不定期連載)や、『郷土史の逆襲』(18年46号から不定期連載)といった現地探訪ものが生まれるのだった。
不思議な探し物のある方、ぜひ週プレ編集部にご連絡ください! 現場百遍!
さてさて根がまじめな『プレイボーイ』のこと、国の内外を問わず、政治・社会問題に切り込む体当たりルポも忘れてはいない。
60年代には、バリケード封鎖された日本大学経済学部(編集部のある神保町から徒歩5分)へ学生のリーダーに会いに行く「恋人、セックス、革命...バリケードの中の真実の告白 全学連リーダー6人のプライバシーに徹底メス」(69年49号)など、学生運動関連の取材が多く見られた。
72年に沖縄県が本土復帰を果たしてからは、この新たな"国内"にも関心を寄せ続けている。「8・15現地・特別ルポ〈沖縄・辺野古〉は"日本の中の最後のアメリカだ!"」(77年35号)は、今なお基地問題に揺れる沖縄・辺野古の、本土復帰後5年目の様子を伝え、貴重だ。
国外では、紛争が過熱する北アイルランドに、AP通信を退職してフリーとなったジャーナリストの浅井久仁臣(くにおみ)氏を派遣した「世界の硝煙地帯を行く 北アイルランドIRA過激派が不気味な予告蜂起!!」(78年34号)。3年後の「砲火テロ《市街戦》下のアイルランドで若者は雄々しく生きていた!」(81年28号)では、獄中でハンガーストライキを続け亡くなった、青年ボビー・サンズの父にも会い、民族の名誉に殉じる覚悟を決めた息子の痛切極まりない別れの言葉を記録している。
「ベルリン現地ルポ ドイツ・人びとは壁を越えた!!」(89年51号)
コンスタントに価値ある現場ルポを続けてきたおかげで、80年代の締めくくりの年には世界史的大事件の現場に立ち会えた。ベルリンの壁崩壊だ。
フリージャーナリスト・世良光弘氏を派遣し、「ベルリン現地ルポ ドイツ・人びとは壁を越えた!!」(89年51号)、「『ドイツ』まつりは終わった、そして本当の改革へ!!」(89年52号)と2週にわたってベルリン市民の感動と衝撃を報じている。こういう明るい激動が、これからの世界にも訪れてほしいものだ。
社会派ルポはその後も硬軟織り交ぜた記事が次々と書かれ、現代史最後の巨人フィデル・カストロが死去した際には筆者をキューバに派遣し、小さいながらも理想の火種を後世につないだ「カストロ四十九日に悼む」(17年5号)。
手前味噌の選択をもって、「もっと素晴らしい記事がたくさんあるんだぞ」の意に代えさせていただき、最後に一本、90年代に書かれた、体験型ルポの技巧と社会派ルポの蓄積が融合する、奇跡的な記事について詳述したい。
「コメよ、さらば! ああ、白米の思い出」(94年14号)と題する6ページの記事だ。
93年から94年夏にかけて、日本は空前のコメ不足に見舞われ、俗に「平成の米騒動」と呼ばれる事態が生じた。国産米復活の見通しも立たない94年3月、本誌はアメリカ育ちのセーヤ記者と、〈毎日、コメをたっぷり食ってるので肥(ふと)り気味〉の編集タカハシに、2週間のコメ断ちを命じる。記事の前半はこの実験の経過報告からなる体験型ルポだ。
「コメよ、さらば! ああ、白米の思い出」(94年14号)
セーヤ記者はその間もアメリカでMLBの球場をハシゴし、そもそもコメ食の必要を感じない。対する編集タカハシはコメ断ち1週間で〈まるで麻薬の切れた中毒患者〉のようになってしまった。
〈「あー、力が出ない。イライラしてくる。腹立ちまぎれに彼女にあたる。彼女怒る。口もきいてくれない。みんなコメのせいだ。コメがなくなった日には日本中が私みたいに不機嫌になるだろう」〉
2週間の実験を終え、〈「コメが好きなやつは辛(つら)いが、そうでないやつはなんともない」〉という結論が出るが、記事はここで終わりではない。栄養士の観点から、コメが決して「必要」ではないとする意見をじっくり紹介し、〈しかし、そうは言ってもコメはおいしい〉と鋭い一文で転調をかまし、戦前戦中世代の人、元幕内力士、大食いチャンピオンの女子大生などさまざまな人から白米の思い出を聞く。単なる「必要」にとどまらない「愛」の言葉でコメをことほいでゆくのだ。極めつきは塀の中の懲りないこの人。作家の安部譲二氏が登場。
〈「刑務所では毎日が麦飯。年に3日、正月3ヵ日だけが銀シャリ。といっても等外米のひどいやつなんだけど、こいつをひと口食べると飲み込むのが惜しいんだ。すごい表現だろ、悲しいけど。(笑)」〉
すごい表現だ。そして歴史は繰り返す。私たちは食糧安全保障を本気で考えていかねばなるまい。
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60周年。還暦とは、生まれ変わりであり、生き直し。心構え次第では、Revolution(革命)と訳せなくもない! 本連載で紹介したあっぱれな記事たちのDNAを持つ『週プレ』の、いっそうの活躍に期待する!